第3話 坂の上のエンジェル
「はあ……また坂か……」
篠崎蓮は思案橋の入り口で立ち止まり、目の前に広がる石畳の坂道を見上げた。
長崎は坂の街として知られている。観光ガイドブックでは「風情ある坂道」と美しく表現されるそれらは、地元の高校生にとっては毎日の通学路というのが現実だ。
「マジで、誰だよ。こんな坂の上に学校作ったやつ……」
ぼやきながらポケットからハンカチを取り出そうとしたところで、新しいスマートフォンも一緒に出てきてしまった。時間を確認しようと画面を見ると、突然ユノの顔がニュッと現れた。
「おはようございます、蓮さん!」
「うわっ!」
急に現れた顔に、思わず蓮は声を上げた。周りを歩く生徒たちが不思議そうな顔で振り返る。蓮は慌ててスマートフォンの音量を下げた。
「驚かさないでくれよ……ここは公共の場だぞ」
「でも、蓮さん! 朝の挨拶は大事なコミュニケーションの基礎です!」
ユノがとびきりの笑顔で答えた。
「おーい、篠崎ー! 今朝も坂道と格闘中か?」
背後から明るい声が響く。振り向くと、クラスメイトの吉岡和樹が笑顔で手を振っていた。がっしりとした体格で、バスケ部のエースとして知られるクラスの人気者だ。
「うるせえな……」
ぶっきらぼうに返事をしながらも、蓮の気分は少し明るくなる。屈託のない笑顔で吉岡が蓮に話しかけてくれることが、いつも嬉しかった。
「いやいや、お前さ、いい加減諦めて体力付けろよ。長崎に住んでいて坂道と無縁なわけ無いだろう」
「はいはい。でも藤宮さんが『篠崎君、大丈夫?』って心配してくれたの、覚えてるだろ?」
吉岡の言葉に、蓮の頬が赤くなる。藤宮結菜——クラスで一番人気のある女子。明るく活発で、誰からも好かれる存在。
「お前、顔が赤いぞ? やっぱり藤宮さんのこと……」
「違う! ただの、その、陽射しが暑くて……」
慌てて否定する蓮のポケットから、そっと声が漏れる。
「蓮さん、顔の血流が増加しています! 脈拍も13.8パーセント上昇中! これは恋愛反応です」
小声で聞こえるユノの声に、蓮はポケットのスマートフォンを強く握りしめた。
「あ、篠崎君! 吉岡君も! おはよう!」
思わず二人は声のする方を振り返る。そこには、セミロングの茶色い髪が朝日に輝く少女の姿があった。藤宮結菜本人だ。
「藤宮さん!」
吉岡が明るく手を振る。一方、蓮は凍りついたように硬直した。結菜の姿を見ただけで、心臓が早鐘を打ち始める。
「篠崎君、おはよう」
彼女が直接名前を呼んだことに、蓮は心臓が喉元まで飛び出るかと思った。
「お、お、お、おは――」
どもりながら、やっと一言を絞り出そうとした瞬間、吉岡が助け舟を出してくれた。
「篠崎、朝から固まるなよ!」
軽く蓮の背中を叩く吉岡に、ようやく我に返る。
「二人とも、文化祭の準備お疲れ様。篠崎君、昨日の放課後も重い荷物を運ぶのを手伝ってくれてありがとう」
結菜の言葉に、蓮は驚いた。誰も見ていないと思っていたのに、彼女はちゃんと知ってくれていたのだ。
「い、いえ、当たり前というか……」
「そんなことないよ。篠崎君って、誰も見てないところでも一生懸命なの、私知ってるもん」
「え!?」
思わず蓮の声が裏返る。まさか自分のことを、そんなふうに見ていたなんて。
「そういうところ、すごく素敵だと思うな。他の人に認められようとか見せようとかじゃなくて、本当に大切なことだけをやる。そういう人、少ないよ」
結菜の言葉に、蓮は言葉を失った。
「あ、そうだ! 今日の放課後、少し手伝ってくれないかな? 実は、まだステージの装飾が完成していなくて――」
「え!? あ、はい! もちろん!」
返事が早すぎたことに気づき、蓮は耳まで真っ赤になった。
「やった! ありがとう。篠崎君が手伝ってくれると心強いな」
結菜の無邪気な笑顔に、蓮の心臓が大きく跳ねる。ポケットの中でスマートフォンが小刻みに震えた。こっそり画面を覗くと、『結菜さんの好感度、急上昇中! 好感度値23→57!』というメッセージが表示されている。
結菜と別れた後、吉岡が意味ありげに肩を叩いてきた。
「どうだ? 俺の言った通りだろ? 藤宮さん、お前のこと気にかけてるぞ」
「い、いや、それは違うだろ。あれは単なる……」
「お前な、いい機会なんだから、もっと自分から行けよ! このまま高校生活終わっちまったら後悔するぞ?」
「そんな簡単に言われても……」
「その通りです!」
ポケットの中でユノの声が響く。
「蓮さん、恋は待っていても始まりません! 坂道を登るには、自分の足で一歩を踏み出さなければ! 放課後のお手伝いは絶好のチャンスです!」
「もう、うるさいよ……」
「え? なんか言った?」
吉岡が不思議そうに顔を覗き込む。
「い、いや、何でもない!」
慌てて否定する蓮の耳が、再び赤くなっていた。
自分でも驚くほど、期待と不安が入り混じった朝だった。そんな複雑な感情を抱きながら、蓮はゆっくりと坂道を登っていった――心なしか軽い足取りで。
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