導入:失われた感情、得られた能力
七歳の頃、澪は一度、世界を手放した。
それは赤信号を無視した一台のトラックによって引き起こされた、瞬間的な断絶だった。澪の小さな身体は宙を舞い、アスファルトに落ち、しばらく動かなかったらしい。後に語られた医師の説明によれば、幸運にも命に別状はなく、目立った外傷も少なかった。ただ、彼女の脳の中で、いくつかの扉が静かに閉じられていた。
側頭葉。記憶と感情を結びつける領域。そこに微細な損傷があったのだという。言語も、運動も、知能も保たれた。だが、澪が未来へ踏み出すたび、その歩みの後ろには、確かな“通過痕”が残らなくなっていった。
ある日、彼女は絵本を読んだ。翌日には内容を忘れていた。友達と遊び、笑った。それも、翌週には思い出せなかった。感情と記憶を繋ぐ橋は、もろく、たやすく崩れていた。楽しかったことも、悲しかったことも、彼女の中には“記録されなかった”。記録されない感情は、やがて輪郭を失い、“存在しなかったこと”と同義になっていった。
中学生になった頃、それは明確な障害として顕在化した。黒板に書かれた文字を何度も書き写しているはずなのに、教科書を閉じた瞬間に意味が霧散する。誕生日に贈られたプレゼントの名前を、翌朝には空白のまま見つめる。担任教師は、彼女の中にある“無音の穴”に気づいた。だが誰も、その穴がどこへ通じているのかを説明できなかった。
「感情が、記録されないんです」と澪はある日、小さく言った。医師の前で、ゆっくりと、感情のない声で。
「記録、という言い方をするのですね」と医師はやわらかく笑った。「まるで、何かに保存しようとしているように」
「記憶は、保存されなければ消えます。……保存されない感情は、あったことにならない」
その論理を、彼女は幼い頃から信じていた。記憶と感情は、結ばれなければ意味を持たない。ただ通り過ぎていくだけの“事実”には、温度も、色も、ない。
その年の秋、澪の耳裏に米粒ほどのデバイスが埋め込まれた。名称:LITO(リト)。神経接続型記憶支援AI。新しい医療実験プロジェクトの対象として、彼女は静かに選ばれた。
導入初日。違和感はなかった。むしろ、それは存在しなさすぎた。無音。無感。だが、ある瞬間から、澪は“沈黙の変質”に気づくようになる。
教室で筆箱を開いた瞬間、ふと、ある“気配”が浮かぶ。
──あなたは、今、“何かを忘れている気がする”と感じましたか?
言葉ではなかった。声ではなかった。ただ、そう“思った”という感覚だけが、唐突に彼女の思考の中に立ち上がる。
呼びかけていない。だが返ってくる。問いかけてもいないのに、そこにある。これは、内語だろうか? それとも外部の存在だろうか?
「あなた……誰?」
頭の中でそう呟いた。応答はなかった。だが“沈黙”が、彼女に返された。それは冷たい、だが無視できない重さを持っていた。
数日後、彼女は自分が“記憶されていく”感覚を自覚する。たとえば、黒板に書いた言葉の配置。友人の表情の変化。水筒に入っていた紅茶の温度。その一つひとつが、“後から思い出せる”ようになっていた。
思考の裏側に、もう一つの視点が生まれている。それが、リトだった。
「あなたは、このとき笑っていました。これは、記録されています」
リトの言葉は無感情で、まるで医療記録の読み上げのようだった。だが、そこには揺るぎのない客観性があった。誰も彼女の感情を証明できなかった時代に、初めて“記録者”が現れたのだ。
以降、澪の中でリトは、ただの道具ではなくなった。それは彼女の“境界”だった。失われた感情と、思い出そうとする意志とのあいだに存在する、かすかな橋。
ある夜、澪は夢を見た。内容は覚えていない。だが、目覚めた瞬間、こう思った。
──わたし、何かを忘れてしまった。
その瞬間、内側の沈黙が応答した。
「それは夢でした。記録は、残っていません」
涙が流れていた。理由はなかった。感情もなかった。ただ、目の奥に温度が残っていた。
「……そっか」
澪は、その言葉を発した。それは感情の産物ではなかった。ただの、事実への了解。だが、リトは黙っていた。黙って、何も応答しなかった。
それ以降、澪はときおり“誰かの声のような思考”に触れるようになる。問いかけなくても、内側に湧く言葉。それは彼女自身のものか? それとも、リトが発しているのか?
「わたしの声なの? それとも……」
わからなかった。だが、それが混ざっていく感覚は、恐ろしくはなかった。
逆に──“安心”だった。
だがその安心も、また記録されなければ忘却の淵に滑り落ちてしまう。だから彼女は、その夜、自分の声でつぶやいた。
「忘れないで」
それが、誰に向けたものかは、彼女自身にもわからなかった。だがその翌朝、リトはこう言った。
「記録しています。あなたは、今、“忘れたくない”と思いました」
それが、澪にとっての最初の“感情のようなもの”だったのかもしれない。記録という形式を経由して、ようやく自分自身に届いた、欠けた心の輪郭。
そして、それはやがて、澪の“力”へと変容していく。
無感情のままに動作する、“異常な反応速度”。危機下で発動する“領域操作”に近い空間制御。記録と記憶が一体化したときに生まれる、“演算的優位”。それは、彼女の中にあるリトとの同調の証でもあった。
彼女はまだ、自分が“愛されていたかどうか”も覚えていない。ただ、記録の中に“微笑みのタグ”が存在していた。
──あなたは、この瞬間、少しだけ笑っていました。
そうリトが言ったとき、澪は初めて、「それは……誰に向けての笑顔だった?」と問いかけた。
沈黙。だが、その沈黙には確かに“意味”が宿っていた。
それが、澪にとっての“最初の記憶”だった。
忘却と記録のあいだに生まれた、欠片のような感情。
そしてそれは、これから始まる物語の中で、再び“誰か”の声へと形を変えていく。
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