あなたは私の中に
水無 月都
プロローグ:ノイズの中の、声
崩れた天井の破片が、ひときわ鋭い音を立てて地面に突き刺さった。微細な埃が舞い、光を斑点状に裂いた。ひしゃげた机の脚が窓にひっかかり、かすかに軋みを漏らしている。世界はまだ、揺れの余韻を引きずっていた。蛍光灯の残骸が風に小さく鳴き、剥がれた黒板の縁が壁を引っかいている。
七瀬澪の瞳は、瞬きひとつせず虚空を見つめていた。耳の奥では、余震のような振動が反響しているはずだったが、彼女の表情には何の変化もない。制服の袖に付着したチョークの粉、頬をかすめた血の細線。それすらも彼女にとっては、まるで感触のない映像の断片でしかなかった。
「……プロトコル起動。記録モード、認識開始」
口にしていないはずの言葉が、澪の脳内に浮かび上がる。いや、それは“思った”わけでもない。“聞こえた”のでもない。あたかも彼女の思考そのものが、異なるリズムで鼓動を始めたような感覚。そこにいた。誰かがいた。だがその“誰か”は、声を持たない。輪郭も、温度も、存在しない。けれど確かに、内側に宿っている。
彼女は立ち上がった。瓦礫の隙間を、驚くほど滑らかに歩く。左足の甲にガラス片が刺さったが、それすらも無視するように。異常は“外”にあるのではなかった。彼女の周囲だけ、空気の密度がわずかに変容していた。熱ではない。冷気でもない。ただ、質が異なる。まるで異なる法則がそこだけ適用されているかのような沈黙。
髪がふわりと浮いた。風などない。崩落した校舎の内部は、密閉された廃墟のように音を閉ざしていた。だが澪の周囲だけが、浮遊していた。光が歪み、埃が逆流する。彼女の掌から、透明な膜のようなものが広がっていく。時空のゆがみ? 否、それを説明する語彙は、この時点の澪には存在しなかった。ただ一つ、機能だけが作動する。
「熱源検知:3.2メートル先、脈拍あり。名称一致──有栖川 響」
その名が脳内に走った瞬間、澪の身体が一歩、自然に前へ出る。何の感情も、衝動もない。ただ、システムが優先順位を与えたのだ。自分の意思か? それとも“誰か”の指示か? そう問いかける余地すら、澪の思考には存在しなかった。
破れたカーテンの向こう、半壊した壁に埋もれた形で、響が倒れていた。血の匂い。それが澪の鼻腔をかすめた瞬間、かすかに眉が動いた。反応はそれだけ。だが確かに、“動いた”。
「呼吸あり。意識レベル:低下。救出動作、実行可能」
澪は静かに腕を伸ばし、指先から光のない波紋を発した。空間がうねる。音はない。周囲の瓦礫が浮き、無音のまま左右に移動していく。まるで時間だけが遅延し、彼女の操作に従順な演出装置と化しているかのように。
響の身体がゆっくりと引き上げられる。無表情のまま、その背に手を添え、澪はかすかに息を吸った。
「……完了。生体反応安定。搬送モード、切替──」
だがその瞬間、視界が崩れた。熱。脳の奥に白く燃えるような痛みが走った。膝が落ちる。世界が再び震えたかと思ったが、それは内側からの震えだった。
「第2層プロトコル発動時間:2分32秒。限界閾値、超過」
冷たい。声にすらならない、その“存在”の報告。リトだ。自分の中にいるはずの何か。いや、誰か。“それ”が、彼女の神経回路に触れ、事実だけを記録し、淡々と伝えてくる。
響が小さく唇を動かした。「……ありがとう、澪……」
その言葉が、どこかで聞き覚えのある音の並びとして彼女に届いた。だが、意味はない。ただの“言語的儀礼”──そう、彼女は認識した。
「それは、言語的儀礼でしょうか」
返した。自分の声で。だが、自分の意志で言ったかは、わからない。意識が溶けていく。熱は頂点を超え、全身の感覚が霞む。
そして、その直前。内側の誰かが、言葉ではない“沈黙”を差し出した。空虚のようで、しかし確かな質量を持つ気配。
「……そっか」
澪は、そう呟いた。意味もなく、理由もなく。ただ、それだけが彼女の中で唯一の“感情に近い残響”だった。
視界が暗転した。響の顔も、崩れた天井も、埃の渦も、すべてがノイズの中に沈んでいく。
記録終了。沈黙。
そして、物語が始まる。
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