川桜に囁く

川桜に囁く

 今日も朝、学校をサボった。

桜の咲く、この川が好きだから。

川の流れは、小川と呼ぶにはやや大きく、大河と呼ぶにはまだ幼い。

春の、穏やかな流れ。

時間を忘れてしまいそうな、どこか平和的な、そんな川だ。

据え付けられたゆるやかな土手には、生い茂るほどではない雑草が、斜面を緑に染めている。

間隔良く植えられた桜は春を彩り、向こう岸は満開が近く見えた。

私は、この季節の、この場所が、好きだ。


 風が吹くたびに、髪がほどけて揺れる。

川面には光のかけらが、きらきらと流れている。

そんなとき、後ろから誰かが私を呼ぶ声がした。


「ボタンー」

ミツルの声。私がここにいることは、あいつにはすぐに分かってしまう。


「来たぞ~。お前ここ、好きだよな。昔から。」


「別にいいじゃん。桜。好きなんだから」


「ボタンって秋に咲く花だった気がするけどな。でも、まあ、ここの桜、綺麗だよな」


 ミツルとは、小学生の頃からの親友。

恋人ではない。ただ、大切な、友達。

こうして川辺で並んで、ふたことみこと会話を交わしたあとは、流れる水と、舞い降りる花びらをただ見つめる。

高校に上がってから、そんな時間が増えた。


 水の流れは止まっているようで、決して同じ場所にはとどまらない。

時間もまた、言葉もまた、ゆっくりと川へと溶けてゆく。

私は、この流れに身を置いているこの瞬間が、とても好きだった。


「じゃ、俺、そろそろ学校行くから。また来るわ」


ミツルは川へ目をやったまま、ぽつりとこぼした。

どれくらい時が経ったのか分からなかったが、ミツルの言葉で、ようやく気づく。


「またね」


まだ馴染めていない学校へ、重い腰を上げるミツルの背を見送った。

その背が角を曲がって見えなくなる頃、私はようやく立ち上がり、水の端を覗き込む。


春風が桜を散らし、花びらが光と一緒に流れて行く。

私は、指先でそのひとつをすくい取ろうとしたけれど、届かなかった。

手のひらには、何もなかった。




 家に帰ると、玄関に母の靴があった。

けれど、ただそれだけだった。

リビングには朝の情報番組がつけっぱなしになっていて、天気予報士が「今日はお花見日和」と明るく笑っていた。

母の姿は見当たらなかった。

台所に立っているかと覗いてみたが、誰もいない。

洗いかけの茶碗と、湯気の消えた急須だけが置き去りにされていた。


「……ただいま」


思わず呟いてみるが、返事はなかった。


 返事がないのは、最近よくあることだ。

たいてい母は、私が帰ってきたことに気づかない。

 それでも私は、部屋に鞄を置き、制服をハンガーにかけ、リビングのソファに静かに腰かけた。

昔からの習慣のように。


 テレビの画面は天気からグルメ情報へと変わり、どこかの公園で満開の桜を背景に、レポーターが焼き団子をほおばっていた。

私は集中せずそれを眺めながら、ふとミツルのことを思い出す。

あいつ、ちゃんと学校に行っただろうか。

授業中に寝て、先生に怒られていないだろうか。

そう思うと、なんとなくもう一度、あの川辺に行きたくなった。




 午後の陽射しが、川辺の空気に、より春を感じさせた。

朝よりも風があたたかく、川面にはいっそう多くの桜の花びらが浮かんでいた。


 私はいつもの場所に陣取り、靴を脱いで、つま先で草を撫でるようにして遊んだ。

柔らかな土の感触。水の音。どこかで鳴いている鳥の声。


 土手の上から、猫が一匹こちらを見ていた。

しばらくすると、とことこと降りてきて、私の足元にすり寄った。

その柔らかな温もりに、私はそっと手を伸ばす。

自分から足に寄って来たくせに、手からはするりと逃げてしまった。


 誰かがこちらに向かってくる気配がした。

――振り返らなくても分かる。


「なあ、ボタン」

ミツルの声は、さっきよりも少し低く落ち着いていた。


「今度さ、写真、持ってくるよ。あの頃のやつ」


「写真?ふーん。別にいいけど」


 ミツルは続けなかった。ただ、私の隣に身を沈めると、何かを言いたげな横顔のまま、川を見ていた。


 曖昧な返事をしながら、私はふと目線を落とす。

気が付けば、一層赤を孕んで重くなった太陽が、水しぶきを照らし、私の目線に光を届けていた。


 風が吹いて、桜がまた舞った。

そのひとひらが、私の肩にふわりと落ちた。

すぐに溶けて、どこかへ行ってしまった。




 翌日、ミツルは本当に写真を持ってきた。

古びた封筒に入った数枚のスナップ。

クラスの集合写真、川辺でふざけ合っている私たち、夏祭りの夜に屋台の前で笑っている写真。


「懐かしくない?」


「うん。なんか、すごく前のことみたい」


 写真の中の私は、確かに笑っている。

中学生のときの写真のようだ。4年も経っていない。

まだ高校生なのに、参ったな。全然忘れている。

 写真を見ていると、まるで他人の記録を覗き見ているような気がした。

モヤッとした感覚が我慢ならず、スライドショーのように写真をめくっていたミツルに声を掛けた。


「いつのだっけ?これ」


「これ、中一の夏。……川、行った日」


「ふうん」


 紙の端を指でなぞると、ざらりとした感触が指先に残った。

光にかざすと、ほんのわずかに色褪せていた。


 川の水音が耳の奥で揺れていた。

風が吹いて、枝を擦る音が重なる。

懐かしいのに、どこか輪郭の曖昧な、ふわりとした時間。

写真の中の私たちは、ずっと笑っていた。

そして、今も変わらずここにいる。


 ミツルは、何かを確かめるように私の顔を見た。

でもそれも一瞬だけで、すぐに目を逸らした。


 風が強くなった。

後ろの桜から、花びらがさらさらと流れていた。

その音だけが、やけに鮮明だった。


「もし川に落ちたらさ、どうなるかな」


ミツルが唐突に口に出した。


「えっ、水に?」


「流れに乗って、どこまで行けるかな」


「魚じゃあるまいし。まあ、せいぜい橋の下?」


「遠くまで行けたらいいのになあ」


「運が良ければ、海まで行けるかもね」


「ここから海まで流れるには、ちょっと、遠すぎるかあ」


そう言って、彼は寝転がったまま空を見上げていた。

私も横に座り込み、同じように空を仰いだ。


「川の水って、時間みたいだな」


「なにそれ、詩人ぶってんの?」


 軽口を叩き合ってるのに、どこか真顔のままの自分たちが少し可笑しくて、ふたりで、くすっと笑った。

――風が、ひとひらの桜を運び、また私たちのあいだを横切った。




 その帰り道、私はひとり、川沿いの道を歩いた。

水の流れは、昼よりも少しだけ速くなっていた気がした。

遠くで、子どもたちのはしゃぐ声がする。

新しくできた公園からだろう。


 帰路の道程に、小さな神社を横切る。

境内の隅に、小さな男の子が立っているのが見えた。

彼はじっとこちらを見つめていたが、私と目が合うと、にこりと笑って駆け出して行った。

鳥居の向こうへ消えていく、どこか既視感のあったその姿を、私はしばらく目で追った。

賽銭箱の前には、きれいにたたまれた千代紙が置かれていた。


 ふと、昔のことを思い出す。

小さなころ、母に手を引かれて、この神社で初詣をした記憶がある。

あのとき、私は何を願ったのだろう。

私は手を合わせるでもなく、それをちらりと眺めて、また歩き出そうとした。

そのとき、背後から誰かの声がした。


「――ちゃんと、お参り、された方がいいですよ」


 振り返った先には、ただ静寂があった――

無音の中には、線香のような匂いが、わずかに鼻先をかすめた。


――風がまた吹いた。

花びらが、ひとひら、ふたひら。

私の目の前を通り過ぎ、流れの緩い、川の淵へと降りていった。




 数日後、その日私は、いつもより少しだけ早く川辺に向かった。

桜は前回よりも花を落とし、枝先には若い緑がのぞいていた。

季節が、ほんの少し先へと進んでいた。

 土手の草も背伸びをし、風に揺れている。

川の流れは静かだったけれど、耳を澄ませば、その奥底から小さな音が絶え間なく聞こえてくる。

ざわざわと、水が、時間が、どこか遠くへ向かっている音。

――この場所で、ずっと聞こえる音。


 私は靴を脱ぎ、裸足のまま草の上にぺたりと座る。

冷たい土の感触が、じんわりと足裏に染みてくる。


 しばらくすると、ミツルが来た。

今日はなぜか、手に紙袋を持っていた。


「また持ってきたぞ。懐かしいやつ」

そう言って、彼は袋の中から一枚の写真を取り出した。

体育祭の日の写真だった。

リレーの後、泥だらけの私が笑っていた。

隣には、やっぱりミツルがいて、ふたりとも妙に眩しそうな顔をしていた。


「このときさ、お前バトン落としたくせに、そのまますげー走ってたんだよな」


「うるさいな、覚えてないってば」


「普段全然やる気無さそうなのに、イベントのときだけ本気だったもんな」


「いい加減にしないと、殴るよ」


「こういうこと言うと、すぐ暴力に頼るんだよな」


私は笑っていた。

でも、本気だったかどうか、本当はあまり覚えていない。

写真の中の私は、確かにいた。

けれど、その記憶は、曖昧なままだった。


「ボタンってさ、」

ミツルがふと、口をつぐんだ。


「うん?」


「いや、なんでもない」


 私は答えなかった。

ただ、川の向こう岸を見つめていた。

言葉にするには、何かが少しだけ、おぼつかなかった。


菜の花が揺れていた。

白い鳥が、水の上すれすれに飛んでいった。


 ミツルはしばらく沈黙していたけれど、そっと立ち上がり、川に小石を投げた。

水と空気の境目が、ゆっくりと丸く波紋を描いた。


「お前さ、いなくなったとき、本当にびっくりしたんだぞ」


その言葉に、私は小さくまばたきをした。


「ああ、そんなことあったっけ」


思わず、そう返した。

また、うまく思い出せなかった。

ただ、ミツルの言葉の奥にある何かが、胸のどこかをかすめた。


「まあ、もういいけどさ。最近思ったけど俺、ここでこうして過ごすの、好きだよ」


 そう言って、彼はにっと笑った。

あの頃と変わらない笑顔が、そこにはあった。

たぶん、ずっと前から、私たちはこんな風に並んで、同じものを見てきたのだろう。

遠くの学校から、正午近くのチャイムが、風に乗り、辺りの空気を震わせていた。


 水の流れ。

 桜の花びら。

 春の光。


 時間は止まっているように、過ぎていく。

けれど、確かに進んでいる。


 私はそっと手を伸ばし、水面を撫でた。

けれど、やっぱり、花びらは捕まえられなかった。




 それからまた、何日かが過ぎた。

気づけば、ミツルは毎日のようにここへ来るようになっていた。

 彼は学校帰りに制服のまま現れることもあれば、休日に私服でふらりとやってくることもあった。

でも、どんな日も、この川のほとりで私たちは顔を合わせた。


 川辺の桜はもうほとんど役目を終えた枝になっており、地面には踏みしめられた花びらの絨毯ができていた。

柔らかな草の匂いに混じって、若葉の青い香りが漂う。


 風の止んだ午後だった。

空はうっすらと霞み、川面に映る雲もぼんやりと揺れていた。

どこか遠くで草を刈る音がして、それが静かな風景のなかにゆっくりと溶けていく。


 私は川辺の緑にしゃがみ込み、摘んだクローバーで指をくるくる撫でていた。

ささやかな日常。

何も起きない、でもそれが心地よい時間。


「ボタンー」

ミツルの声が、土手の上から小さく響いた。


「今日はずいぶん遅いね」


「学校休みだから、ゆっくり寝て来ましたよー」


言葉の終わりと同時にミツルは、ドサッと座り込んだ。

ミツルはコンビニの袋をさぐり、缶ジュースを取り出しすと、私のほうに差し出す。

私はいつものように手を伸ばし、その冷たさを感じる前に、彼は自分の胸元に引き戻した。

それから、日差しを遮るように宙へ掲げて、言う。


「オレンジとグレープ、どっちがいい?お前オレンジでいいよな」


「選ばせる気ないなら、聞かないでよ…」


「どうせオレンジしか飲まないと思ってさ」


「グレープの日だって、あるかもしれないじゃん」


「まあ、グレープって言われたところで俺が、グレープしか飲まないから、あげないんだけどさ」


「ひどーい」


私が悪態をつき終わると、ミツルはオレンジの缶を私の横へ置き、グレープの封を開け、ひと口含んだ。

それを斜面で倒れないように、やや慎重に、地面へ置いた。

くだらないやりとりにひとしきり笑って、ふたりは静かになった。

風が吹くたびに草が揺れ、空の青がわずかに滲んで見えた。


 缶ジュースを飲み終わると、ミツルは草を抜いて、手元でくるくるとねじりはじめた。

短い茎と葉を重ねて、小さな、花の輪っかのようなものを作る。


「こういうの、お前、よく作ってたよな。クローバーのやつ」


「懐かしいね。ていうかミツル、作れたんだ」


「前に無性に作りたくなって、作り方、調べたんだ」


そう言いながら、ミツルは完成したばかりのその冠を、川に向かってそっと投げた。

空中で一度ふわりと回って、ぱしゃりと落ち、静かに流れていった。


私はその行方から目が離せなかった。

小さな輪が、川のさざ波に揺られて、きらきらと陽に照らされながら遠ざかっていく。


「ボタン」

「なに?」


――ひと呼吸のあと。

彼はぽつりとつぶやいた。



「ごめんな」



その声は、ごく自然な独り言のようだった。

いつもと同じ、何気ない声。

けれどなぜか、胸の奥のほうで、小さな波紋が広がった。


「何それ、急に」

口では笑いながら、胸の奥に波紋が残った。

ミツルはそれ以上、何も言わなかった。

ただ、遠く、流れてゆく、結ばれた花を見つめたまま、黙っていた。


 川の音が、沈黙の隙間で鳴り響いていた。

草が揺れ、葉のこすれる音が、私の代わりに返事をしたようだった。


 私はふと、手のひらを見た。

何かを掴もうとして、すり抜けたときの感触。

いつかの桜の花びらの、あの軽さと、似ていた。




 それからも時間はゆっくりと流れ、桜の枝は緑に染まり、川沿いには新緑の淡い香りが漂っていた。

まだかろうじて、春の余韻を感じさせる風がそよぎ、ほんのりと暖かい空気が満ちている。


私はいつも通り、川辺にひっそりと腰を据えると、ここにある水音と、青くなって来た風の匂いに身を委ねていた。


 ミツルは少し日に焼けた腕を見せながら、制服のまま静かに座っていた。

彼が拾った石が音を立て、水にはじけて、沈む。

その波紋が川面を揺らし、ゆっくり遠ざかっていくのを見つめる。

ささやかに通り過ぎる風が、その短い前髪を揺らしている。

花びらはもう舞っていない。

 しばらく無言だったミツルが、ぼそっと、囁いた。


「もうすぐ連休だ」


川の上を滑りゆく葉が石にぶつかり、くるりと回る。

彼はまたひとつ石を拾い、そっと投げ入れた。


その静けさの中で、彼の声がかすかに聞こえた。


「お前、今、幸せか?」


答えはすぐには出てこなかった。

ただ、胸の奥に柔らかな風が吹いた気がした。

目を閉じると、遠くで犬の鳴き声が混ざり、川辺の音の一部になっていた。

ミツルの横顔はぼんやりと霞み、空の明るさに溶けていくようだった。




 日が傾きはじめ、青色をした川辺の空気がグラデーションに染まっていく。

風は相変わらず穏やかで、時折、遠くの草むらから小さな虫の羽音が聞こえた。

私は草の上に寝転び、ゆっくりと目を閉じる。

どこか遠く、懐かしい川のせせらぎが耳に届くようだった。



 ミツルは隣で静かに川面を見つめている。

彼の片手には、包みが握られていた。



 やがて、彼はそっと立ち上がり、包みを、川のほとりに置いた。

その動作に張り詰めた気配は無く、けれど、どこか厳か。

そして、幾度となく繰り返されたように自然で、何の違和感もなかった。


「また来るよ。ボタン」


ミツルは、夕陽に溶けていく景色の、その境目に吸い込まれて行くような声で言った。


私は何も言わず、いつもと変わらず、ただその背を、見送った。

夕陽が水の舞台を朱色に染めて、川はゆっくりと流れていく。



――散ったはずの花びらが一枚

    風に舞い上がり

      私の頬をそっと撫でていった。



その瞬間、私の胸の奥に、言葉にならない感情が広がった。



桜が散り、川が流れ、季節がめぐる。

私はここに、静かに在り続けるのだろう。



思い出していた。

 ――川の写真のことを。


気付きたくなかった。

 ――気付かないふりをしていた。


わかっていた。

 ――ミツルの声が、ことを。


幸せな時間を、永遠に過ごしていたかった。

 ――ここに在り続ける水音のように。


私は、あの包みの中身を知っている。

 ――牡丹の花束だ。


私は、あの日の今日、ここで、この川で――――




************************************




 「ボタン、来たよ」

川辺に佇み、俺は、空を見上げる。

焦点は、合わなかった。


まだ少し冷たい風が頬を撫でた。

春の終わりを告げる、薄紅色の絨毯がそっと足元を舞った。


あの日、ここに置いた包みは、もう見えなかった。

けれど確かに、何かがこの場所に残っている気がした。


俺は声に出した。

「ごめんな」


――誰にも届かない独り言。

助けられなかったこと、もっと何かできたんじゃないかという思いが、胸の奥で初夏の芽吹きに呼応するように、疼いた。


あのとき、もし俺が――。


 時間を堰き止められないように、川は、何も変わらずに流れている。

それでも、俺たちの時間はここに確かにあったのだと、そう、信じたかった。


赤色をしたキャンパスが、深い青に染みて行く。

ゆっくりと、夜が来たことを知らせていた。

星がひとつ、またひとつと瞬き始めた。


振り返らず、静かに歩き出した。

――ただ、川のせせらぎだけが、まだそこに残っていた。

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