第三章『画家は灰色を使って、色白の美女を描くことができる』 ウジェーヌ・ドラクロワ
第1話 才能
今年の夏休みはすべて受験勉強に費やした。
共通テスト対策の受験勉強と、美大の実技試験対策のための予備校の両立は本当に大変で、俺は毎日朝から晩まで気力も体力もフル活動だった。自分のやるべきことをやるだけで必死だったのだ。
東京大学を受験する詩子にとっても、勝負の夏だ。
俺たちは受験が終わるまでは連絡を減らそうとどちらからともなく言い出して、今は週に一度、近況報告と励まし合いをするにとどめていた。
連絡先を交換した堤さんも、結局あれから一回もメッセージを送ってはこなかった。社交辞令だったのだろうかと思いつつ、忙しくて気に留めてはいられなかった。
だから夏休みも終わり、十月の下旬に突然、
『受験勉強でお忙しいところ恐縮ではございますが、来週、札幌市に行く予定があります。侑里さんと三人でお会いできないでしょうか?』
こんなメッセージが届いたものだから、俺は驚くしかなかった。
受験まで時間はないし、遊んでいる余裕もない。だけど少しだけなら息抜きになると思ったし、何より堤さんの「漫画家になりたい」という夢への背中を押した俺が、頑張っている彼女の誘いを無下にするわけにはいかないと思った。
清野は札幌の私大を受けることに決めたらしく、ようやく受験勉強にエンジンがかかってきたように見える。だが侑里はまだ進路を決めておらず、ご両親と担任の胃痛を悪化させている。
学校でも休日でも受験勉強に追われていて、侑里とゆっくりと話す時間がなかった。
この機会にもう一度将来のことについて話したいと思っているけれど……あいつは一体今、何を考えているのだろうか?
☆
堤さんとは札幌駅で待ち合わせをした。
父親の個展に便乗して札幌に家族旅行に来たのだという堤さんは、再会した瞬間からとにかくテンションが高くて、目に見えてはしゃいでいた。
「侑里さん! 小宮さん! お久しぶりです! 初めて来ましたが、北海道ってすごいですね! 空気が澄んでる! 深呼吸が気持ちいいです!」
東京で見た彼女とは少しだけ印象が違って見えた。子どもっぽいというか、開放的というか。北海道の広大な土地がそうさせるのだろうか。
「初っ端からそんなテンションで持つのか? 北海道は広いぞ?」
侑里はニヤリとした笑みを浮かべた。
「もちろんです! おふたりは今日、わたしをどこへ連れて行ってくれるつもりなのですか?」
俺と侑里は事前に軽く打ち合わせをしていた。北海道に旅行に来た都会っ子を連れていくとしたら……という考えの下、意見は一致した。
「北海道と言ったら……食べ物だろ!」
俺たちは堤さんをエスコートして、最初に訪れたソフトクリーム専門店で牛乳ソフトを注文させた。
「いただきます」
初めて食べる人を見るというのは、生まれも育ちも北海道の俺たちにとって貴重な体験だ。ワクワクしながら堤さんのリアクションを待っていると、ソフトクリームをひと舐めした彼女の瞳が大きく見開かれた。
「すっごく美味しいです! え! なんですか⁉ なんでこんなに濃厚なんですか⁉」
「ふっふっふ……ここをどこだと心得るか。酪農日本一の北海道様だぞ! 牛乳の質が違うんだ! どうだ、偉大さを思い知ったか!」
期待通りのうれしそうな反応に、道民として胸を張る。
ラーメンを食べ、海鮮丼を食べ、スープカレーを食べ……俺や侑里は元々大食いだからなんてことはないが、堤さんもその細い体のどこに入るんだと不思議なほど食べていた。
堤さんの口からは一度も、進路や漫画の話は出なかった。
旅行に来ているわけだし、今だけは現実を忘れたいのかもしれないと思った俺からも聞くことはなかった。侑里は堤さんに対してさして興味がない、といったら失礼なのかもしれないけれど、俺と同じようにその件に関しては口を閉ざしていた。
東京からやって来た女の子と、地元で遊ぶ。
七年前に詩子が引っ越してきたときと同じようなシチュエーションだけど、俺も侑里もあの頃より成長しているし、それに……堤さんは詩子ではない。
懐かしさと寂しさを感じながら、今だけは受験のことは忘れて、堤さんの観光に全力で付き合った。
「ああ、大満足です! 楽しかったー!」
今日の最終目的地・小樽運河を眺めながら、堤さんは満面の笑みを見せた。
美味しいものを食べて喜んでもらいたい俺たちの欲が爆発し、堤さんにたらふく食べさせてしまった。
「この後、ご家族で美味しいもの食べる予定あったらごめん。食べさせる前に気づけよって感じなんだけどさ」
「大丈夫です! 満足しただけで、満腹ではないので!」
「……まじ? すごいな、堤さん。侑里よりも大食いなんじゃないか?」
「大食いで勝ってもうれしくないですよ。やっぱり絵で――」
その返しがくるとわかっていたうえでのフリだったが、俺の予想に反して、堤さんは「絵で勝たないと意味がありません」と最後まで口にすることはなかった。
「……堤さん?」
彼女の表情に影が落ちた気がしたが、すぐに顔を上げて明るい声で言った。
「あの! 聞いてほしいことがありまして! わたし、漫画家になる夢を諦めようと思います!」
堤さんの元気なテンションとは対照的に、俺は言葉を失い、侑里も何も言わなかった。
「……え……な、なんで?」
戸惑いながら尋ねた。
「……ダメだったんです、漫画。『ウィズラブ漫画新人賞』に応募した作品……箸にも棒にも掛かりませんでした。落選です。人生で一番真剣に話を考えて、一番熱を入れて絵を描いて、一番緊張した日々を過ごしながら結果を待って……たった一回の挑戦でしたが、こんなに身も心も擦り切れてしまうのなら、わたしが目指す夢としては分不相応……向いていないのだと思います」
堤さんの口調や表情から醸し出されるこの雰囲気を、俺は知っている。
――彼女が次に発する言葉も。
「わたしにはきっと、漫画を描く才能がなかったのです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます