深志のこと

青木雅

N/A

「先輩は暇でスティックパンばかり食べているから浴槽で死んだ」



「先輩は暇でスティックパンばかり食べているから浴槽で死んだ」


 あたしの声だ。普段、頭の骨を通して聞いている音より一段と低いあたしの声。スマホのひび割れた液晶の中であたしが頭から段ボールを被ってもごもごと話している。ワンルームのアパートの中で、鴨井にもカーテンレールにもハンガーに掛けられたカラフルな洋服があふれかえっていて、その中で白いワンピースを着たあたしが棒立ちでいる。


「死ね、天使、死ね」


やはり段ボール越しでくぐもった声であたしが言う。そして頭の段ボールを取ると、一回り小さい段ボールが現れる。映像にはそれ以外の動きがほとんどなく、話す時に小さく左右に揺れるあたしの癖がはっきりと見て取れて恥ずかしかった。


この映像を撮ったのは深志だ。セリフを考えたのも彼だし、このワンルームも大学近くの彼の自宅アパート。あたしは彼の撮ろうとしている映画に役者として参加していて、具体的にどんなものを撮る気なのかもまったく本人から明かされないままかれこれ一か月が経過していた。


その映画には現実と幻想が入り混じっているらしく、いきなり深志から断片的に送られてきたこの五分程度の映像だけでも彼のあたしを含めた異性の顔を直視できないことやおそらくノーマルな性癖は持ち合わせていないことが、異化されていてもなんとなく伝わってくる。


「はい、これから帰ります……」


 そう言ったあたしがカメラの方に向かって歩き出し、へそのあたりでレンズに当たって画面が暗くなり動画は終わった。そして真っ黒く鈍い光を放つ画面に再生ボタンが浮かび上がるとあたしはスマホの電源を切り、身体の横に伏せた。あたしはベッドに手をついて起き上がり、じっと部屋を見渡す。さっきまで明るい画面を見ていたから目がなかなか慣れずほとんど見えなかったが、窓からはうすく月明かりが差していてその周辺はぼんやりと見て取れた。そして隅の方では別のスマホの画面の明かりがゆらゆらと動いていた。深志はひどい不眠症なのかショートスリーパーなのかは不明だがほとんど睡眠をとらないらしく、現在時刻は午前四時半にもかかわらず、あたしに気を遣い電気を消した暗闇の中でじっと時が過ぎるのを待っているらしい。当のあたしが深志から動画ファイルが送られてきた通知音で目覚めたことを気まずく思っているらしく「ごめ、ごめ……」ときれぎれの声が聞こえる。


視界の及ぶ窓辺には色とりどりのキャラクターをかたどった消しゴムがあふれかえっていて、それらが月に照らされてきれいなのであたしは再びスマホを持ちカメラを向けてみた。けれど画面越しに山盛りの消しゴムを見てみると途端におっくうになってしまい、撮らずにスマホの電源を切ってクッションに向かって投げつけた。それから毛布を被って眠ろうとしたが眠れず、少しづつ獲得されていく暗闇の視界の中でゆっくり立ち上がり部屋の隅にのそのそ動く深志を眺めた。


彼はスマホのライトを灯して何やら探し物をしているらしく、段ボールの擦れるぎゅうぎゅうという音がしている。


「あかりさん」


「何」


「んんー」


「だから、何」


「無い……」と小さく彼が言った。その言い方はどこか焦りを感じさせたが手の動きは暇に任せてペン回しをするような、気の抜けた動きだった。


「何が、無いの」とあたしが尋ねたら、彼はビクッとしてこちらを見た。それから手で顔を隠して視線を逸らせながら「き、き、近代が無い……」と言った。キョトンとしたあたしは気に掛けず、彼は話し続ける。


「別に、なくてもいいけど、やっぱりあったほうがいいしさ……」


「近代が?」


「だって、まだ奇跡とかでいっぱい遊んでたはずなのにいきなり現代やらされて、もっと個人とかやり残したことがあるんだよ」


「奇跡ってもうないの?」


「無いよ。経験主義とか、邪魔が多いからね」


「そうなんだ」


「うん」


「寂しい?」


「別に……。でも、みんな持ってるのに、自分だけ持ってないのってやっぱ嫌じゃない」


「ふうん」


「もう起きる? 電気付けていい?」


「いや、寝かせて。あとちょっと」


「わかった。おやすみ……」


「ん……」


「無い……」


彼はまだ近代を自室の中で探すらしい。彼のこういう言動にはあたしもようやく慣れてきて特別気になるということもなくなったが、何の意味も無い訳ではないらしく時にはビデオカメラを回しながら話した。


あたしは深志とは長らく一つ屋根に下で暮らしているがまだ一度もしていない。もっとも彼が果たしてあたしにそういう感情を抱いているのかさえはっきりしていない。しかしそのことは大して問題にはならなかった。あたし自身そういうものに嫌悪感が幼い頃からあって、だったらこんな生活をしていいはずがないのだけど深志からリビドーのようなものを感じ取ったためしが無くて、こんな風にして薄暗い部屋の底で身体を交えないピロートークのようなことをしながら外部と隔絶された時間を過ごしている。


もとはと言えば単に同じ映画サークルに入っていただけで、ほとんど顔は出さないしたまに現れたと思ったら「映画、撮ろうと思うんだけどさ、そんな難しい役じゃないから、出てくれない……」と吃音交じりの独特なリズムの話し方で誘われたことに好奇心を覚えて快諾しただけなのだった。


あたしがようやく眠気を獲得しつつあった頃、「名前」と深志がぼそっとつぶやいた。「名前は……ま、ま、あ、まつ……松本……ふ、ふ、深志、深志です……」。おそらく撮っている。ビデオカメラのものであろう、赤い小さな光が見えた。


 彼は涙をこらえているのか、うっすら嗚咽の混じった口調でうつむきながら話す。いつもの深志の話し方ではあるのだけど、どこか口落としみたいな雰囲気があった。


「ち、ちゅ、中学二年生の時です……。お隣に住んでいた、小さい頃に、よく遊んでくれたお姉さんがいました。もう、名前も、顔も、はっきり思い出せません。……当時の彼女は大学生だと言っていました。『もしかして深志くん? 大きくなったね、久しぶり。今は中学生? あ、二年生! あたしと遊んでたのがあたしが中一とかだったっけ……ふふ……』と言いました」普段からは想像がつかない程饒舌な、その女の真似らしき話し方だった。前髪が垂れ下がり、おかしな形の輪郭が薄明りにぼんやりと縁取られている。


「元気です、ともじもじしながら答える僕を、じっと見つめてくる、あ、あの時の、あのまなざしを、い、今でも覚えているんです……」


「……それ、それからいきなり手首を掴まれて、彼女の家の中に連れていかれ、そのまま僕は童貞を奪われました。ぼ、僕はその時のことが、恐ろしく思えて仕方がないんです」


「僕はずっと、同級生の女子にも、あん、あまり上手く振る舞えるタイプではなかったし、それで、それなのに急に何もわからないまま僕が蹂躙されている時のあの恐怖が! 途中、僕は、まるでいち、一人称視点のポルノを、画面越しに見ているような感覚でした。そして終わってから、彼女の部屋の布団で泣きました。あの時の感情が、何だったのか今もわかりません。何事もなかったかのようにまま窓を開けて煙草を、吸っていた後ろ姿が、逆光で暗くて、よく見えなくて、すごく怖かったんです……」


「けい、けい、けけ経験人数は?」


「ひ一人です」


「じゃじゃ、えと、こういうのもはじめて?」


「……」


 深志はここでしばし沈黙し、それからぬっと手を伸ばしてカラーボックスの上に置かれていたビデオカメラを止め、ようやく独演が終わった。


「……どう、撮れた?」


「ん……わからん」


「あとで見せて」


「うん……」


「じゃあ、あらためておやすみ」


「あっ」


「あっ、て何」


「いや、その、別に何でも」


「何。言って」


「あ、ささ、最近子どもを見かけなくなったなって……」


「子ども。何でいきなり? 外出ればだいたいその辺歩いてるよ」


「うん、そうなんだけど、でも、こう、子どもがよくわからなくなっちゃって、ていうか……」


「わからない、って何」


「なんていうか、あの、子どもっていうよりね、子どもと大人っていう区別が頭の中から抜け落ちてたって、感じで。ちっち小さい人間が集まって動いてるなあっていうのはわかるんだけど、街を歩いててあの、スズメとかを見かけるみたいなのと、おお同じように思えちゃって……」


「なにそれえ、人間はタンパク質と水の袋です、みたいな?」


「そんなはずないのに!」


「そうだよ?」


「ぼおっとしてると、だんだんそういう常識みたいなのが剥がれ落ちてくる感じ!」


「知らないよ、みんなそういうの山盛りで生きてきてんじゃないの」


「おれ、おれは人間に触ると、や、やわやわらかいとか思えるし心臓の音を聞いたらいき、いき生きてるって嬉しくなれるから大丈夫……」


「そうだね。大丈夫だね」


「よかった……」


「こっち来る? あったかいよ」


「それはいい……」


「そう……」


「おやすみ」


深志はそう言ううと忍び足で部屋を出た。あたしはそれ以上は気にせずに眠りにつこうと毛布を深く被る。温かくて狭い布団の中で胎児のように丸くなって、ちりちりと痛みだす腹部を守るように意識を奥の方へ奥の方へと押し込めようとした。


深志の部屋で暮らすようになってから夢を見なくなった気がする。現実があんまり嘘みたいなものだからだろうか。幻想が現実と夢で二重になったらもう戻って来られないようなところに行ってしまいそうで、合わせ鏡のような恐怖を感じて怯えているうちに眠くなってきた。そうして目覚めた時には正午を回っていて、おそらく一睡もしなかったであろう深志がデスクでパソコンを見つめて作業をしている。


「起きたね」


「起きたよ」


「昼だよ」


「うん、昼……」


「お腹減ってる?」


「減ってる……」


「パン、あるからパン食べていいよ」


「わかった」


「パン……」


 深志はそう言って作業に戻った。かなりの猫背で、後ろ姿は絵巻物の妖怪か何かのように歪んで見える。この身体の中にも、他の生物と同じように臓器が詰まっていて、生理的な現象が起きているとはにわかに信じがたい。深志が人間らしくない人間であるのは、世間的な尺度で測れば否定できないことだと思う。けれどあたしには、厳密には彼は極度に人間的であるゆえに逸脱しているだけのように思えて仕方がなかった。


 人間は思いのほか外界を適当に認識して生きている。錯視などはそのいい例で、存在しない線や形ををありありと幻視する。認知の都合に合わせて脳はそういうことをしばしばするように、あたしたちはあらゆる人間関係だとか物の見方にバイアスを掛けているに違いない。思うに深志はそういうものがちょっと欠けているのか、あるいは過剰なのだと思う。人間は何の根拠もない薄氷みたいに脆いフィルターを通してもの見ていて、もしそれが無かったり必要以上に厚いと、幻想をまじまじと現実に重ね合わせて見つめたり、逆に傍から恐ろしく見えるほどありのままを見て取ることができるのかもしれない。


 前に、深志が癇癪を起して唸りながら壁に何度も頭を打ちつけだしたことがあった。その時の挙動が、通常は肉体を守るために多少なりとも躊躇だとか受け身みたいなことをするところを一切していないようで、どうしてか恐ろしさと共になにか神秘的なものを感じてしまったのだった。



「どうすればみんなを守れるかな」



「どうすればみんなを守れるかな」


 穏やかな人柄で平凡な主人公が、素朴な気持ちで世界を救いたいなんて言う。俺はそれをすこし恐ろしいと思う。人間の本性がどこかにあるなんて言わないけれど、様々なもので塗り込めた結果、善性でつるつるした表面になっていたことに一抹の不満がある。善行なんてやりたい人が責任をとれる範囲でやればいいのだし、俺は露悪的に無責任に真っ当な人間をちゃかしたりして自分の居場所を確保して、それでも自分は自分だと思える世界がいい。


誘いは断るし、さーせんした(笑)とか言ってどこかに消えてしまいたい。しかしそれはとっても良くないことだ。俺はそういった才覚は一切持ち合わせていない。あるいは、もっていること自体を忘れさせられている。深夜というものは本当にいけない。こんな終わりのない堂々巡りが回路を熱くしてしまううちにまた外が明るくなってしまう。



俺はようやく眠気を獲得しつつあった。しかし今から眠ったところで却って翌日の朝が気だるくなってしまうだろうと思い散歩に出て気を紛らわすことにした。


 玄関のドアを開けると、この時間帯特有のさめざめした冷気が飛び込んでくる。俺はそれを温かく迎え入れて入れ替わりに外へ出る。月は薄くまだ暗いが、そろそろ明るくなり始める気配がしていた。スニーカーの紐を必要以上に固く結んで、ゆっくりと歩き始める。


 実のところ、こういう散歩は頻繁にしている。酔っぱらったり、色んなことが嫌になったり、自分が何者なのかわからなくなったり、俺をあの六畳一間から押し出そうとするものはいくらでもあったし俺はそういう状態になるたびに外へ繰り出していた。もちろん何をしに行くということでもなく、ざっくばらんに古い友人と喫茶店で駄弁るように。


 アパートを出た目の前には椿の生け垣がけっこうな幅で広がっていて、季節が合えばあざやかなピンクが一面に広がってとてもやかましい。俺はそれをごくごく自然に肯定している。だって、彼らは何も悪くないから。俺は共産党のポスターが張られた掲示板にも、先の見えないほど続く街灯の明かりの連続する奥行きにも気を留めることはせず粛々と歩く。


 夜中に出歩くと時々出くわす人がいる。


 俺はにその人にどうしてか「桜ちゃん」と呼ばれている。気が付いたら名前が付いていて、それに俺も訂正しようとはしなかったからすぐに定着してしまった。ちゃん付けなあたり、男の名前ではない可能性が高いがこの呼び名はやぶさかではなかったというか、むしろ気に入っていた。もしかして、俺には彼が奇妙な見た目をしているように見えるのと同じく彼も俺のことが俺とは違う若い女か何かに見えているのかもしれない。けれどそんなこともどうでもいい事なのだった。彼と昼間に出くわしたことは一度としてなかったし、路上で行き会う以上の関係はなかったから。それに関しては向こうもあまり好まない様子でもあった。


 大通りとは反対の方向へ、時々立ち止まって振り返ってみたり伸びをしたりしながら足を進めていく。俺の住んでいるアパートの周囲は住宅街がほとんどを占めていて、家々の隙間を縫うように走っている狭い道路には数十メートル毎くらいの間隔で子どもの落書きが見つかる。俺はそれを一つ一つスマホで撮影しては専用のフォルダに収めた。


 昔から、収集することは好きだった気がする。小学生の頃の自由研究は地域の猫の容姿と性格、関係をまとめたりしていたし、大学に入ったばかりの春から夏頃にかけて、暇にまかせて考現学研究会などと言っておかしな看板やコンクリートに付いた足跡を集めたりしていた。俺は今でもそういうことは続けているけれど、当時そんな俺に同調してくれて一緒に活動してくれていた数人の仲間たちは「いっとき気まぐれにしていたおかしなこと」だったとでも言わんばかりに俺から離れて行ってしまった。別に、そんなのは個人の自由だし一向にかまわないのだけど、けれど寂しいという気持ちを抱かずにはいられなかった。一人でいることが好きな割に孤独には耐性があまりなく、何だかんだ誤魔化しつつ生きてきたが、次第に上手くいかないことが多くなってきた。けれど自分が辛いと感じることさえ本気になって感情を注ぐことが出来ず、ただ左右に揺れて誤魔化していたらいつの間にここにいたのだった。


 俺が心ここにあらずのまま、大きな翼の生えた、アスファルトにチョークか何かで描かれている二頭身の人間らしきものの絵を撮って満足気に眺めていたところで、少し離れたところにある公園のブランコに揺れる人影を見つけた。俺はそれが誰であるかを瞬時に察して近づく。あちらもすぐに俺に気づいたらしくブランコから立ち上がりこちらへ向かってくる。


「荘蔵さん」と俺は声を掛ける。「こんばんは」


荘蔵さんは話し出すと饒舌なのに決して自分からは話そうとしなかった。そうでなければ俺から先に話すことなどそうない。どもり癖がコンプレックスだから。


「ええ、こんばんは。桜ちゃん。今夜はどうしたんです? また自分が何者かわからなくなったんですか?」荘蔵さんがニコニコしながら、少し皮肉ぽさの混じる口調で言う。「んふ……」


「いえ、今日はただ眠れなくて……」


「不眠症かい? それはあまり良くない傾向だねえ。まったく、深夜に徘徊するのなんて老人の趣味みたいでなんだか、お互い様とはいえ若いうちから何をしているんだって感じだよねえ」


「あはははは」


 荘蔵さんは軽くてひょうきんな口調で話す。季節外れの紺色でウール素材のコートを羽織り、その下からは白基調の襟にラインが入ったよく見る感じのセーラー服と膝上丈のプリーツスカートが覗いている。彼は会うたびこの服装だった。年齢は聞くのは失礼かと思って聞いていないから確かではないが宮崎駿みたいな白い豊かな髭ともみあげから察するに比較的高齢である可能性が高い。しかし俺とてジャージに革靴だから、他人の恰好のことなど言えたものではなかった。それに俺は荘蔵さんの服装を見て不快感や違和感を感じたりもしていなかったのだから、社会から見た時に異質だからどうこうということは微塵も考えなかった。


「調子はどうです? 荘蔵さん、何だか今日は顔色があまり良くないですね。街灯の明かりのせいですかね? 体調が悪いよう見えますよ」


「んふふ。僕はねえ、今、胸にぽっかり穴が開いとるんです。猫が通り抜けるくらいのでっかい穴がね。ここにぴったり嵌まりそうなもんがどっかにありゃせんか、僕はずいぶん長い間考えとったんですが、最近それが見つかったんです。なんだと思います? 桜ちゃん」


 そう言うと、荘蔵さんセーラー服をまくり上げてその穴を俺に見せてくれた。


「荘蔵さん、この穴に手を、突っ込んでみてもいいですか?」俺はそう聞かずにはいられなかった。荘蔵さんも「いいですよ」と二つ返事で了解してくれたので、俺はおそるおそる胸に空いたハンドボール大の穴に手を伸ばす。穴と身体の断面の部分は、別にこの穴が何ら異常なものではないかのように自然に皮膚が覆っていて中はじんわり温かく、俺の手はすぐに汗ばんできてしまった。


「どうです? ここに何をはめるか、わかりそうですかね? んふ……」荘蔵さんはうれしそうに聞いた。やはり顔色が悪くて、実はもうあまり長くないんじゃないかと思った。それにこの穴が関係しているかはともかくとして。荘蔵さんは簡単なクイズか何かであるかのように俺に答えを問うている。だから案外子供だましみたいな答えなのかもしれないが、俺にはさっぱりわからなくて答えに窮してしまった。すると荘蔵さんはにんまりとして口を開いた。


「なあに、難しい事ではないですよ。単純なことです。ですから、今ここで僕が答えを言ってしまってもつまらないでしょうね。桜ちゃんにもどうせすぐにわかることでしょうよ。んふふ。というわけで次に会う時までの宿題としておきます。それではもうしばらくいい夜を……」


 そう言って荘蔵さんはどこかに去っていった。コートが風になびいて、ほとんど骨と皮みたいな脚がちらりと見えた。俺はまだ答えを出せずにいたが、それを見送りながら不思議と気分が良くなってきたので家に帰ってしまうことにした。地平線からぼんやりとした光が顔を出しつつある時間だった。


 帰り道、俺は少しずつ明るくなっていく空をじっと見つめた。電線が、こんなに邪魔だと思ったのは初めてだった。一面、いやそれ以上に広がっている空を細くて単調な線で無理矢理切り取ってしまうことのおこがましさと言ったら! そんなに強引にやったら、果たして空が破けてしまったりしないのだろうかという俺の懸念など意に介さないように空は悠然と明度を上げていく。俺はやっぱり空が好きだ、と何度も何度も感じながら歩いていたら額にぽつんと水滴が当たった。でも雨ではないらしかった。そしてそれ以上は一滴も降っては来なかった。


深志は映画の撮影のために


 深志は映画の撮影のために、彼の地元である松本へ行くと言った。新宿まで出れば乗り換え無しで簡単に行けると聞いたが、そういう彼自身は大学に入ってからまだ一度も帰省していないという。そして果たして彼がどんな意図で地元で映画を撮ろうというのかは不明だったが、それは少なくともあたしを彼の実家に連れて行き自分を両親に紹介するだとか、そういう類の企みではないことだけは明らかにした。それは正直あたしだってわかっていたけれど。「そういうんじゃ、ない」という、やはりこちらを直視しなければ嘘をついているような後ろめたさも感じさせない不思議と誠実に見えるその振る舞いは、面白いと思った。もっとも彼が両親に紹介するなどと言ったらその時点で断る気でいたのだけれど、起きないことは起きないのだ。


 あたしたちには相変わらず身体を交えないピロートークのような、暗闇の中での会話が習慣となっていた。彼が妙なことを言うのに対しあたしが真っ当な返事を返すことでその場が成立して、あとはお互い伝えたいことがあるわけでもなく淡々と言葉が連なってゆくのを二人して傍観しているような……。あたしたちは、少なくともあたしはこれを楽しんでいた。それは毎回違う音の鳴る箱を叩いているような気分だった。


「松本で、何撮るの……」とあたしが尋ねると彼は照れ臭そうに「別に、あのあれ、川とか、田んぼ」と答えた。


「田んぼ。自分のルーツをどうこうみたいなそういう……」


 あたしが反応すると深志がいきなり「うおあー」という控えめなうめき声をあげる。


「おお俺は、俺のええ映画をなあー」


 前髪に遮られて目元の表情が見えないがおそらく目を輝かせて素敵な何かを見ているのだろう、ほとんどあたしのことは眼中に無い。


 深志は明かりの消えた、スクリーンや様々な電化製品のランプが鈍く光る部屋の真ん中にそびえたつ塔か何かのようにぼうっと立ち尽くし、窓の外を眺めている。


「ここから、良い星が見えるよ……」


 そういうと、そのまま後ろに三歩ばかり下がり、ベッドにどすんと身体を投げた。殺意にも思える鋭いまなざしで、見上げるようにやはり窓の外をじっと見ている。少しうねった、目元を隠すくせ毛と部屋の暗さがかえって彼の眼光をあやしく強調していた。逆にそれ以外の、口元やその他の動きは全く見て取れないまま、深志は眼球の光だけの存在となり微小な光をあつめている。


「星って、どこ? 全然見えないし、そもそもあたし星座とかもわかんない」


「星は、星だから……。今は見えないだけ。だから大丈夫……」


「そう……」


「大丈夫、だよ……」


「うん」



俺が俺のことを「俺」と



 俺が俺のことを「俺」と言うようになったのは一体いつからだろう。何か決定的な契機になる出来事は特になかったと思う。けれど気が付けば俺は「俺」だった。もちろん場合によって「僕」や「私」も使うけれどカジュアルには「俺」で、でも「俺」という響きに昔からどうもしっくりこない。もっと俺に合った一人称があれば、もしくは一人称なんて一つに統一してしまえばいいなんて、そんなことを何度も考えた。「俺」では少しいかつくて、でも「僕」や「私」と言っている自分も違和感だらけ。ならいっそ自分を一人称にふさわしい人間に仕立て上げてしまえばいいのかもしれないが、それでは本末転倒だ。そういえば挙句の果てに「おいら」なんて使っていた時期さえあった。


俺の実家には、俺の一人称が存在しない。遅くも小学校高学年に上がってから、俺は家の中で一人称を使った文を発話していないのだ。つまり一人称を使わずに済むような文章でしか会話をしていない。


小さい頃は、家族からふーくんと呼ばれていた。俺も自分の事をふーくんと呼んだ。しかし一人称ふーくんは保育園の内にどこかに消え失せてしまった。当時の事をはっきりと覚えてなどいないが、おそらく同世代の子どもたちと話す時は既に一人称は俺じゃないと気恥ずかしかったのだと思う。それから家で俺が俺をどう呼んでいたのか、それが既に不明瞭なのだ。恥ずかしいと思いつつふーくんと呼んでいたのかもしれないし、単語だけ発してそれとなく察させたりしていたのだと思う。家族も、俺が成長して気が付いたらふーくんを深志に改めていた。ただし祖父母は未だに俺をふーくんと呼ぶ。二十歳を過ぎようが、孫は孫で小さいままなのだと思う。祖父母の見ている俺も、両親やきょうだいの見る俺も、俺の見る俺も、おそらく全く違うのに。それでも自然と在れているのだから、俺のちぐはぐさを世界は許してくれているということになるだろうか。


そういう風にしてこられたのも、俺がおそらく苦労が少ない人間だからだろう。親に虐待されることもなく、食事もちゃんと与えられたしひどいいじめに遭ったこともない。奨学金を貰っているにしても一浪で大学に通わせてもらっている。そしてその分、大きな挫折というものを味わったことがない。持っているリソースをすべてつぎ込むような努力をしたことがないからそうやって獲得した物も失った物も無い。そういう人生を送ってきたせいなのか、俺は何かを賭けるということに対して恐怖をずっと抱いている。


 コミュニケーションは、業務的なものを除いてノーベットでやろうとすると大抵上手くいかない。コイン一枚でも良いから何かしらを賭けるべきなのだ。例えば麻雀などがいい例で、賭けるものがないとみんなが無責任に鳴きまくってロクな役がそろわない無秩序な麻雀になってしまいがちだろう。俺はそういう人生を送ってきたから、長続きする友だちなどというものが出来たことがない。クラスが同じ間は仲良く話しても、それ以降は廊下ですれ違ったら挨拶をする程度になっていた。そういうコミュニケーションは相手にも自分にも失礼だと今の俺は思う。だから俺と同じように賭けることをしたがらない人間を見るとつい問いただしたくなってしまうのだけど、実際にそれをやるとドッヂボールの外野か何かを見るような目で見られてしまう。そういうものだ。


深志には未来が無い


 深志には未来が無い。ただどこか定まらないに向かって歩みを進めているだけで、生まれてから死に至るまで、という人生に対する認識がもとより欠落している。だから彼は自分の事さえ他人事のように語るし、他人の事を自分の事のように語る。そのことに対して疑念さえ抱かない。その様子は傍から見れば、彼のあらゆる欲求は大概好奇心にのみ基づいていて、たまたま今までは生存に関心があったから生きているだけ、とでもいうようなある種の捨て鉢な印象を受ける。しかしその捨て鉢さに大胆な行動が伴わないことが不思議で仕方がない。もちろん彼も実際には人間の母親から生まれて他の人間に囲まれて育っていて、学校に行き子どもや大人と少なからず関わりながら成長してそれなりの成績を取ってこの大学に合格しているわけで、ある日突然地球に生まれ落ちた異質な生命体などではないのだが。


 彼のやがてたどり着く、というより流れ着く場所とはいったいどんな場所なのか。何も死だとか、そんな安易なものではないとあたしは思う。肉体や思考の死に特別な意味合いがあって、生とはそこに至るまでの何らかである、などという浅はかなものを、彼ははっきりと覆しうるという期待があたしを惹きつけたのだった。だからあたしは深志の歩みを出来るだけ観測したいと思う。何よりもあたしの好奇心のために。こう言ってしまうと、案外あたしは深志という人間それ自体には大して興味が無いのかもしれないけれどそこには色々と複雑な問題がある。


 たとえば、川は基本的に海に向かって流れるように出来ているが、ならば、川の水というのはそれ自体であると同時にこれから海になる水ということになるだろう。深志はちょうどそんな川の水のようで、あたしが関心を持っているのはつまり海なんじゃないか、というか。あたしは別にそれを悪いとはあまり思わない。どんな関係だってそんなものだから。


物心


 物心ついたのが、自分の場合十九歳くらいだったのではないかと疑っている。実家を出てはじめて人間になったというか。別に、それまでの経験や人間関係を忘れたいということではなく、骨のない、薄っぺらい生き物として辺りを流れに任せて思考さえなく漂っていたらここに流れ着いていて、ハッとした時には世界が出来上がっていたような気がしてしまうというだけ。生まれて、育って、いつの間に高校を卒業して、大学受験に一度失敗して一年間予備校に通い、何とかこの大学に合格してから一人暮らしを始め、生活を最低限の両親の金銭的支援を受ける以外自分で生活をどうにかこなすようになるまでの時間。物心がつくとか、おかしな表現をするまでもなく俺は自分の人生が他人事のように思えて空虚で仕方なく、何かに熱を入れるということがどうしても出来ない。けれどいつでも理想、といっても必ずしも大成を目指すものではなかったが、そんな自分の像だけは、言葉にして明確に表現できたためしはないけれど確かに胸の内にあった。そしてそれは、俺のあらゆる動作に意味を持たせた。何をしてもそこに近づいてしまうような、歯がゆさと安心感の同居した感情が俺を悩ませるようになったのがまさに俺が実家を出た頃で、今でも拭えずにいる。ただし取り除く必要があるという気もせずひたすら成り行きにまかせている。それは川に似ていると思う。どうしても最後には海に流れ着いてしまうところだとか、常に変化し続けているところが。それに海といってもそれはあまりに大きいから定点と言うには曖昧過ぎるだろう。俺の性質のそれも案外そんなものなのかもしれない。むしろそうであって欲しい。でなければ俺は人生というものを信じる羽目になってしまうから。


早熟な子どもとして地方で生まれ育つこと


 早熟な子どもとして地方で生まれ育つことの地獄みたいなものがあって、中学、高校時代のあたしは学校の図書館で同級生をやんわり見下しながら「何か違うな……」とずっと思っていた。周囲の異性が、この前まで小学生だったようなガキがぶかぶかの制服の下に身体を成長させてさらに色づき始めてきたあの頃は何もかもが気持ち悪くて仕方がなかった記憶がある。かといって年上の何だかわかってくれそうな男には恐怖感が強く、そして高校に上がってもそれは変わらなくてむしろ小賢しく欲を隠す技術を身に着けはじめて自信を持ったつけあがり方が、いっそうあたしに対して否応ないまなざしを強く意識させた。もうどこにもあたしの居場所はないのだろうか、とずっと考えていた気がする。最大の関心事があまりに低次元で、どうしてこうも自分は損ばかりさせられるのだと腹立たしくなるたび、あたしは授業を抜け出して近くの喫茶店に逃げ込んでいた。そこはあの高校の生徒たちにとっては避難所のような場所で、不良ぽい生徒が来るわけでもなく物静かな一部の生徒と近所のおばちゃんがいるだけの素朴な空間だった。


 そこで出会った一人の女の子がいた。桜ちゃんという、深い黒で真っすぐなボブヘアで小柄な子で、あたしと同じように学校から逃げ出してはここに来ていた。お互い示し合わせるようなことはせず、ただそういう機運が高まったら店に来て、そこで出会ったら同じ机に座るという具合で自然と打ち解けていった。桜ちゃんは見た目は子リスのような子なのでしばしばちょっとしたいじめに遭っていたらしい。内実は彼女は芯の通ってしっかりした、どちらかというとタフな子であったのだけど。本格的なものではないだけに届け出るほどでもなかったし耐えられてしまうからこそむず痒くてここに退避してくるのだと言っていた。


「もうさあ、やんなっちゃうよねえ。別に、これくらいいいんだけどさ、なんていうか、じわじわ私のいられる場所が削られてるみたいな感じ? でもいられないわけじゃないし向こうもそのつもりがないんだよね。なんかこう、すっごいシンプルに『なんかやだ、と思ったものにちょっとそういうオーラを出してるだけですけど?』みたいな……。もっと、彼氏を取ったとかならまだ私にも申し訳なさ持てるけど、そうじゃなくてどうしようもなく素朴にじりじりやられるとなるとさすがに心がざらざらしてくる……」


 桜ちゃんは学校では無口だったが、喫茶店では見違えるように饒舌だった。そして人並みに傷ついていた。だから好きだった。


 桜ちゃんとは色んな話をした。教師はみんな嫌いだとか、将来はどうだとか。あたしが恋愛だとか性の話が嫌いであることははじめに話しておいたから、彼女のそのあたりの事情は聴こうとしなかったし向こうから話すのも遠慮していたようだった。しかし彼女にとって性は上位の関心事であったらしく、あたしと同じように同級生たちには目もくれず、年上の訳の分からない男と付き合っていたらしい。あたしはそれに言及することはしなかったのだけど、ある時から桜ちゃんは喫茶店でもまったく会わなくなって消息を絶ち、連絡しても返信が来なくなった。そしてある時突然退学したことを教師から聞かされた。教師は尋ねても何も教えてはくれず「大変な事情があって」の一点張りだったが、しばらくしてから喫茶店のおばちゃんからこっそりとそれを聞かされた。


「あの子はね、ほら年上の男と付き合ってたとか言ってじゃない、それでね、そいつとのプレイがアレだったんだかで大けが負って挙句の果てに男に逃げられたんだとさ……」


 あたしはそれは嘘だと思った。ただおばちゃんが嘘をついているような気はしなくて、ならば嘘をついたのはきっと桜ちゃんの方だった。けれどあたしは桜ちゃんがそんな、みだりに他人の同情を誘うような嘘をつくタイプだとは思えなかった。おばちゃんもそう思うと言っていた。だからもしかしたら本当のことだったのかもしれないが。


 あたしは桜ちゃんの、究極的には他人など必要としないかのような強さにあこがれていた。同時に、恋愛に対する幻想をかなり深い部分で持っていて、少女のあどけなさへの信心を捨てられずにいるところは根本的にあたしと彼女が違う人間であることの証明で、それこそが愛おしかった。彼女がいくら美しいセックスをしようとあたしはそれを一切気にせずにいられて、はじめて交感というものを経験したのだと今でも思っている。けれど結果的にはあたしの前から彼女はいなくなってしまった。別に彼女は悪くないと思う。あたしのことが必要だったわけでもなかったのだから。むしろあたしが彼女を必要としてしまったゆえに離れていってしまったのかもしれない。そういうものだ。


食事をするたび、もう二度と食事などしたくないと思う


 食事をするたび、もう二度と食事などしたくないと思う。だから最小限しか食べなかったら身体がちゃんと反応して栄養失調になってすごく嫌だった。そんなことばかりだ。できれば食事も排泄もせずにずっと眠っていたい。けれどそれなら生きることはわざわざやることになってしまう気がする。食事や睡眠や排泄が重要で面倒な動作だからこそ生きているというか生かされているのではないか。だったらどちらでもないものを作り出すか模索できたらいいのにと思う。それに人生を賭けたっていい。いくらかはおつりが返ってくるくらいのことだろう。


 近頃はあまりにわいせつな時間ばかりを過ごしている気がする。起きてはマスターベーションをして眠り、目覚めたらもう一度、というような一日を過ごすと意識がある間は常に混濁していていよいよ自他の境界が曖昧になってくる。そうなると誰かをひどく傷つけてしまいそうになるから俺はいつものように散歩に出る。そしてしばらくぶりに荘蔵さんに出会うことができた。今度はいままで来たことのない少し離れた住宅街の中にある小さな公園だった。


 荘蔵さんは、赤ん坊を抱いていた。深夜だというのにつれ出していいのだろうか、とは思ったがぐっすり眠っているようなので聞かなかった。この子は頭にタオル地の太めのリボンのようなものを巻いていて、荘蔵さんの身体に結んだ抱っこひもに支えられてまだ据わっていない首を傾けている。


「ほら、この子ね、頭にハチマキみたいの巻いてるでしょう。これ取るとね、この子ばらばらに崩れちゃうんだ……んふ……」


 荘蔵さんはまるで誕生日を迎えたかのように嬉しそうだった。普段から嬉しそうではあるが、小刻みに揺れている感じがそう思わせた。


「誰の子ですか」


「あなたです」


「本当ですか」


「そうですとも」


「はあ」


「ちょーかわいいんですよ、んふふ……」


「へへ……」


「ところで桜ちゃん、前に出した問題の答えはわかりましたか?」


「あっ」


「わかりませんでしたか?」


「はい、やっぱりわかんないです……」


「正直でよろしいですね、んふ……」


「すいません」


「いいんですよ。じゃあ、もう一回穴を見せますから考えてみましょう。ちょっとあなたを預かってもらえますか」


「え、はい」


「ありがとう。ではでは」


「……」


「どうですか」


「やっぱりわからないですね」


「そうですか。ではヒントを」


「お願いします」


「ええ。ではこの子のために、やさしい寄生虫をください。そうしないとまともに生きていられないのです。だから鉢巻きも巻いてます。そういうことです。お願いします。そして、これは同時にヒントでもあるんですからね」


「はあ。そうなんですか」


「そうなんです。さあ、さあ」


「えっ、俺はどうすればいいんですか、そのやさしい寄生虫のために」


「あなたの持っている寄生虫を移し替えればいいんです。あなたはそろそろ寄生虫なんて無くても大丈夫ですよ」


「俺って寄生虫持ってるんですね。で、それって本当にヒントなんですかあ?」


「あくまでヒント、ですからね。答えではない。ま、とりあえずやってみてからですよ……」


「へ。その、吐くとかで出てきますか、寄生虫」


「やさしい寄生虫は、そういうものじゃないんですよ桜ちゃん」


「じゃあどうすれば」


「簡単です。あなたはあなたを本気でぎゅーっとしてください。あなたもあなたも、費やしている日々ですから、本気でぎゅーってすれば潰れます。それで大丈夫です。そこで混ざります」


「死にませんか?」


「死にません……」


「本当ですか?」


「ほらほら、生きてまで自分を愛する必要なんてないですよ、早く早く、んふ……」


「どういうことですか、実は死ぬんでしょう?」


「死ぬわけないでしょうがっ」


「ひっ」


「なんなら僕がやってもいいんですよ、あなたもろとも包み込むように、ぎゅうー、と」


「いや、それならさすがに自分でやります」


「よろしい!」


「うー。まじですか……」


「いいいいい! 五、四、三……」


「ええ、んんんん。何だかなあ。……えいっ」


ぐちゃ。俺は強く目を閉じた。温かい、緩めの粘土のようなものが胸の内でつぶれる感覚がして吐き気がこみ上げてくる。


「おっほ」


 荘蔵さんの声を聞いて、俺はゆっくりと目を開ける。見ると確かに俺はすやすやと眠る赤子の形をした赤子を自分は抱えていた。


「よかったですね」荘蔵さんが満面の笑みで俺に言う。「あなたもヒントを得られて「一石二鳥!」


「そうなんですか」俺にはまだヒントがどんなものであったかさえわからなかった。「結局、やさしい寄生虫って何だったんですか。本当にわからないです」


「あなたは寄生虫をあなたに譲り渡したではないですか。さっきと今とで何が違うかわかるんじゃないですか? そういうことです。もうそろそろこの子が起きてしまいかねませんからね、ほらあなたを返してください」


 俺は荘蔵さんに俺を返した。「それでは。引き続き、宿題頑張ってくださいねえ」と言って荘蔵さんは嬉しそうにして何処かへ帰っていく。その後ろ姿を、セーラー服とコートが揺れる様子をじっと見つめながらやさしい寄生虫について考えた。それでもわからず間もなく諦めて帰ったらアパートの前あたりで早朝にランニングをしているであろう若い女性がお化けか何かを見たとでもいうような形相で俺を避けて通って行った。今からあの人を捕まえて首を絞めることだってできるんだろうなと思ったら、俺は生きていない方が良いのかもしれないしその方が俺としても良いだろう。俺は自分が加害性を有することに敏感になりすぎてしまっているから。


 また雨の気配がしてきた。びしょ濡れになったらすべて洗い流されて奪い去られる気がして、そそくさと脅かされた気分で部屋に戻った。


最近


 最近、深志の部屋に住み着き始めてから久しく見ていなかった夢を見るようになった。


あおむけで眠ろうとすると、木々に囲まれた森の湖に静かに身体を浮かべている気分になる。その時のあたしはあらゆる性質が溶け出して、つるつるとした、掴みどころのないものであらゆる網の目にもかかることなくひたすらにすり抜ける。果たして湖岸にたどり着くことはなくバスボムのように消えすぼみ、やがて泡となり消えてなくなるという予感で頭の中がいっぱいになると目が覚める。そういう夢だった。


起き抜けにまだぐちゃぐちゃの頭の中をかき分けて見ていた夢を追う。辛うじて掴み取ったイメージをスマホのメモに簡単に記し、シャワーを浴びて一日を始める。夢の内容を日記に付けるのを続けると次第に現実での存在が曖昧になり、やがて霊的な領域に近づいてゆくなんていう話があるけれど、それは世界五分前仮説とかこっくりさんみたいな、そういった類のものに過ぎないと思う。だからあたしはふんだんにこれを利用するし、もし奇妙な体験をしたならそれはそれでよいと感ずる。


必ずしも幸福は現実に縛られていなければならないとは思わない。けれどあたし自身は、己の幸福のためと言って、政治やその他もろもろの社会の一員としてなすべきことを降りる態度はあまり感心しない。あたしは構造だとか、そういったものにフリーライドすることが気に入らないから。個人の自由だと言えるかもしれないが、フリーライド出来る人間と、そうでない人間の二つに分かれることが問題だ。そのことを理解せず己のエゴばかり垂れ流す振る舞いは、まさしくあたしの敵だと思う。あたし自身も含めて。


こういうことを言うと、大抵の人間に距離を取られる。あたしは必ずしも正義の心からこう言っているわけでもないのだけれど、どうも傍からはそう見えるらしく、「きれいごとばかり並べても、現実はそううまく出来ていない」という具合にあたしが諭されてしまう。


もしかして、あたしは幻想を持ち続けるために、それと同じだけの強度のを現実を求めているのだろうか。その結果が裏目に出て、現実性の延長にある幻想に取りつかれているというのなら、あたしはもっぱら幻想に生きる人間ということになるのだろう。


では、深志は、まるで自分にしか見えていない世界と他の人間の見えている世界があの真っ黒な眼に二重写しになっているようなあの男は一体どうなのか。依然尋ねたら、


「おれ、おれは、心の全共闘に敗退してるから、ノンポリだね、へ、へ……」という答えしか返ってこなかった。おそらく何も考えていないし、たとえ考えていたとしても行動に結びつくようなものではないと思う。


 そんな深志の、あたしを引き留める要素は必ずしもあたしの諸々の嫌悪に寛容であることに限らないが、案外こういうところにいくらかの好ましさをあたしは感じていると思う。


彼はどうしようもなさを引き摺りながら、すべてを掬い取ろうとする。それは思うに、人類全体の救世主になりたい、というものであるというより何一つ見逃したくないというようなけち臭さの延長にあるものだ。その果てに一体何があるだろうか。そんなことはわからない。もちろん深志とてそのはずで、最終的な結末などどうでもよいのだ。始まりがあって終わりがあるのではなくてたとえ終わってもそのたび否応なしにまた始めてしまうに決まっている。そういうものだ。


ようやく他の人間も生きているということが分かってきた


ようやく他の人間も生きているということが分かってきた気がする。今日、スーパーのお弁当を見に行ったらおじさんが三人並んでいてとても邪魔だったのだけど、何がそんなに気になるのかと思って視線の先を見たら、どうやら寿司に値下げシールが貼られるのを待っているらしく目の前でシールを持っている店員をじっと見つめているのだった。その様子が何か儀式みたいで、俺も興味本位からそこに加わったのだけど妙な連帯感を感じて心が温かくなった。同じ獲物をこれから争う敵同士なのに。


結局その寿司に値引きシールは張られることはなく、おじさんたちはそれぞれ代わりに弁当を買って散ってしまったのだけど、あれは傍から見ればみんな怪しい人たちだったに違いない。それは街を歩いていたらいばしば見かける人と変わらない、それぞれ生活があるのだろうけどまったくそれが見えない人たちだ。現実にはそういう人たちはいくらでもいるわけで、それなのに俺たちはいともたやすく捨象して生きてしまっている。だから排除アートのようなものを作れてしまうのだろう。俺はあれを見るたびに都市の自意識的な側面を垣間見てしまった気がして腹が立つ。


俺は自分が「街で見かける怪しいおじさん」になるのは時間の問題だと思っている。それは仕方のないことだ。もしそうなったら俺に出来ることはいよいよない。何かが出来なければならないということ自体が、社会通念上のもので、そこからあぶれてしまえばそんなものは課されないからだ。それは俺にとっては理にかなったものだ。社会も、それを構成する人間もそうなるべきだと思う。そうすればきっと美しさや正しさに惑わされることなく生きられるはずだ。



小さい頃



 小さい頃、悪者の大きな鳥に連れ去られてそれを勇者様が救い出してくれる、というような妄想を何度もしていた。童話の見過ぎだと、父や兄にはからかわれていたけれど、母は優しくあたしに同調してくれた。今にして思えば、母も父や兄と同じようなことを考えていたのだろうと思う。でも、そうあって欲しいと、もしかしたら願っていたのかもしれない。少なくともあたしにとってあの家は悪者の住処であったから。間もなく自分を救ってくれる理想の他者像のようなものは自ら捨て去ったが、今でも自分の根っこにそういうものが微小でも存在しているのかもしれないと思うとやるせなくなる。あたしはそのたびこれは母から受け取った幻想なのだと自分に言い聞かせて誤魔化していた。


 母はあたしが高校二年生の時に交通事故で死んだ。もともと身体が弱かったし、そう遠くないうちにうっかり逝ってしまいそうな雰囲気があったから、身体の弱さに関係のない死因とはいえ、覚悟とまで言うと大げさだけどそれに近いものが出来ていてあまり悲しくならなかった。あたしはこの時、無意識的にとはいえ、そんな準備を行っていた自分を憎んだ。自分を守ることを母を悼むことよりも優先したのだから、薄情者だと言われても仕方がない。このことを一生引き摺ろうと心に決めたけれど、結局そのあとの生活の忙しさからいつの間にか忘れてしまっていた。あたしという人間はつくづく生きやすい性質だ、と事あるごとに痛感する。


 桜ちゃんは少し母に似ていた。基本的に堂々としてるけど時々は人前で弱音を吐いていたことだとか。あたしが桜ちゃんを信頼したのは何もそれだけのことではないけれど、中枢を占める部分に母に似ていたことがあったは確かだった。彼女には割と何のことも明け透けに話していたけれど、死んだ母に似ている、なんて伝えてしまえば桜ちゃんは余計に悩まされるに決まっていたから決して話さなかった。


 友だちを死んだ母親に重ねて愛してしまったのだから、もしかしたらあたしは桜ちゃんを救いだしてあげたかったのかもしれない。何から? という話だし、もう何もかも今更ではあるのだけど。救われたいという思いを捨てようとしたら逆に救う側を夢見てしまったのだろう。


 だとしたら深志は。あたしは深志を救いたいなどと思っているのだろうか。そうかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。


何気ないものの集積みたいなもの


何気ないものの集積みたいなものが好きだ。思えばそれを形にしてみたくて映画を撮りたいなんて考えるようになったのだった。SNSで見かける、「海」の一字のみの極めて短いほとんど意味をなさないぶやきだとか、暇に任せて書く落書き、外に出てくることさえなく頭の中に浮かび上がっては消えてしまう断片的な思考のような……。かといって別にそういうものをアーカイブして管理したいというような欲望はなくて、一瞬で過ぎ去って忘れられるのならそれでいいと思う。そういうものが、具体的なものの隙間を埋めるようにあふれていること。俺はそれが好きであるとともに、忘れるべきでないものであると思っている。だから時には写真を撮るし自ら生み出してみたり映画にしようとさえする。


そうでもしないと俺は生きられないのかもしれない、と考えることもあった。俺は自分が社会の中で何らかの具体的に定まったものであるとは思えなかったし思いたくもなかった。そういうところで、自分の名前がちょっと変わっていることは気に入っている。何をしても多少のリアリティに欠けていて、現実と物語どっち付かずみたいになるのが心地よいと思う。もちろんそれを過剰に頼りにするようなことはないのだけど、そのおかげでずいぶん生きるのが楽しくなった気がする。


思えば映画はそんな俺にとってかけがえのないものだった。再生すればいつでも同じものに出会える。とりわけ好きだったのは静かな長回しのシーンで、その静止しているものにこそ時間の持続が感じられて、俺は時間そのものに触れた気になった。時間なんてものは基本的におかしくて悩ましいものだと思う。絵を描いてから筆を持つような、食べ終わってから調理を始めるような時間の流れ方があってもおかしくないはずだと小さい頃から素朴に考えていた。実際に自分はそんな体験をしているような気がしている。記憶も同様に信用ならないから思い出す、思い出さないというのが大して有効でないというだけでそのはずなのだ。


いつの間に話が逸れてしまった。つまり俺は断片的で意味のない、定まった何かを持つことのない存在が好きで、自分もそういうものでありたいと感じる。でもそうなったらもう誰からも気に掛けてもらえなくなる気がする。


そうなったとき、果たして俺は悲しむのだろうか。


ようやく


 ようやく深志が映画を撮ろうとする理由がわかってきた気がする。つまるところ、深志の人生には深志がいないのだ。それを念写か何かをするみたいに、一種の儀式として追い求めて映画を撮っていた……。しかしここのところそれが停滞しているらしく普段以上にうなだれている。


 深志はあたしに「行為は、それをやろうと頭の中で考えた時点で完了してるんだよ。実際に身体がそのように動かなくても……」と言った。おそらくあれは帰省をやめたということだと思う。あたしはそれでもなにも困らないし、深志そんな風にして頻繁に帰省していたのだろうか。そういうことなのだろう。これはおそらく彼の中では理屈をこねて言い訳しているというよりも言葉で構築するイメージに集中しているのだと思う。そうなると楽しくなってくるらしく饒舌さが増して来る。


「き、きっと、大団円が近いんだよ」深志は更にへらへらした口調で言う。「そんな気がするんだ……」


 あたしはそんなことは無いと思う。最近の深志は前より多少人間らしくて、その分苦しそうだ。まず散歩に出る時間がほとんどなくなり編集作業とネットサーフィンに没頭して部屋から出る機会さえ減っていった。そして元からろくに出席さえしていない大学のことについて今更焦り出したり、代り映えしない食事に小言を言いさえした。ユーモアをやりすぎてほとんど道化になっていた部分が皮肉屋っぽい部分に取って替えられつつあるという感じがして、なんというか、これでいいんだよなと思う。もちろんまたもとの怪しさを取り戻すことだってあるだろう。そうして怪しいままお金が無くなって怪しいおじさんになり街中を歩き回る可能性だって捨てきれない。


 すべてが他人事のような空虚さが今度はすべてが自分であるかのような過剰さになってしまったのだと深志は自らについて言った。自身もそれでいいのだと思っているらしい。


「でもそうなったら映画は撮っても撮らなくてもよくなっちゃうんじゃないの」


「ううん、ふふふ……。そうかもね」


「それでいいの?」


「びしょ濡れの映画の俺」


「は?」


「び、びしょ濡れの映画の俺は大丈夫」


「びしょ濡れって」


「俺が、先に行ってあげるから……」


「それなら安心なのかな」


「そうだよ」


 びしょ濡れなら、大事なものまで洗い流されてしまっているのではないかと不安になる。でも大丈夫であるらしい。


「でもそれは、映画の俺だけで映画じゃない俺は大丈夫じゃないんじゃないの」


「大丈夫。全部大丈夫になるよ」


「嘘だね」


「わからないよ」


「わかるよ」


「きっと大丈夫だよ」


「自分の人生だろうがっ。自分で決めなよ」


「いいいいいい!」


「あ、壊れちゃった?」


「いいいいいい!」


「雑魚が」


「いいいいいい……」


「だんだん落ち着いてきたね」


「……」


「電池切れちゃったのかな」


「そんなことないよ」


「これはお前の物語だろうが」


「ふふ……。びしょ濡れの映画の俺だよ……」


「このままだと本当に怪しいおじさんになっちゃうよ」


「そうなったら、天使だね」


「天使。それはそうかもね。見えないけどいつでもそこにいる、みたいな……」


「死ね、天使、死ね」


「そんなセリフあったね」


「死ね、天使、死ね」


「わかったわかった」


あたしたちは会話をやめない。その果てにどこか、考えもしなかったような場所が広がっているような気がする。たとえあったとしてもそれは思考の中の、言葉でしか表現できないものだけど、そんなものにあたしたちは期待を感じずにはいられないのだった。


本屋でレジに並んでいたら


 本屋でレジに並んでいたら、前にいた足の悪いらしい老人が中年の禿げかけた頭をした店員(名札に店長とあった)に何かを強い口調で言われていた。話を聞くに、定期購読か何かで大量に雑誌を注文して、それを数か月ため込んで一度に買いに来るのは迷惑だからやめてくれということらしい。面倒なのはわかるが、その様子が客と店員というより悪さをした子供をしかる保育士のようで、老人がすっかり委縮して何も言えなくなってうつむいてしまっているのが切なかった。


 ああいう、いわゆる「変なおじさん」的な存在は思えばいつでもいた気がする。子どもが指さして親に尋ねればやめなさいと言われるような。そういう人に対して強くあたるあの店長はどんな気持ちなのだろうか。自分が正しくて、相手が悪い、みたいな単純な思い込みとは限らない気がする。むしろそういうものの良くない部分をわかっているゆえに頭の中で詭弁を立てているような、そんな目をしていた。


 そんな空気の中で、隣のコミック売り場で子どもがいきなり金切り声をあげた。母親の服の裾を引っ張って駄々をこね、「買ってくれなきゃいやだ!」と言う代わりに「キャー」と。それに店内の全員が一瞬びくっとして動きが静止した。その時、店長も老人も、そしてなぜか自分も誰かを殴りそうな雰囲気になった。けれどそうなったことにめいめいが恐怖したのか熱が引いた後のだるさがこみ上げてきて、さっきまでの動きを再開するといつもの儀礼的な客と店員になった。結局自分は店長と老人とは別のレジが先に空いたからそちらで会計を済ませてそそくさと店を出たけれど、あの瞬間は一体何だったのだろうとしばらくたっても時々考える。


 その一週間ぐらい後に、俺は再び荘蔵さんに会った。初めての明るい時間での邂逅であり、最後の対面でもあった。


 俺が映画館の帰りの駅のホームに降りて、階段の側面の壁に寄りかかってスマホを見ていたら、階段の真下あたりでゴトッという音が聞こえたのだった。それはまさしく人間の頭部が硬い床に強く打ち付けられる音で、皮があってその下に脳を覆う頭蓋骨がある思いのほか重量のある、人体のアレの構造が脳裏をよぎった。俺はその音を聞いてもそれほど動揺はしなかった。きっとこけてそうなっただけである程度手を付くような受け身は取っていれば大事にはならないと思っていたからだ。けれど音のしたあたりに向いている人間たちのまなざしがざらざらしていて、一大事であることを悟って俺も様子を見に行った。


 そこに倒れていたのはスーツ姿の荘蔵さんだった。見守る人間が一定の距離を取って半円を描いていて、一人の中年男性が真っ先に駆け寄って気絶している彼に声を掛けているという状態だった。俺はその時点では倒れている人間が荘蔵さんだとは気が付いていなかったのだが、介抱している男が「誰か手伝ってください!」と言ったので近づいたら「あなたはちょっとこの人の鞄を漁ってもらって、保険証とか個人を特定できるものを探してください。そっちのあなたはAEDを、あなたは駅員を読んできてください!」と言われて俺は鞄を漁ったところ出てきた健康保険証に「大木荘蔵」と書かれているのを見てしまった。蔵荘、荘蔵。顔を見るとやはり宮崎駿のような髭で俺は確信した。顔面蒼白ではあったが眠っているようにしか見えない表情で、呼吸はあるらしかった。


そしてAEDと駅員が到着するころに荘蔵さんは目を覚ました。何が起きているのかわからず、はっきりしない意識の中で困惑しているような顔をしていた。声かけをしていた男が「ここがどこかわかりますか?」と荘蔵さんに尋ねたが返答はなかった。男は声を掛け続けた。駅員とAEDを持ってきた別の男に「発汗があるので、もう一度意識を失う可能性があります。ですからAEDの準備をしておいてください!」と言って、それから俺の持っていた保険証を奪い取って確認し「あ、あなたはもう大丈夫です。ありがとうございました」とだけ言って荘蔵さんの方に意識を戻した。もうこのまま帰ってしまってもいいような気がしたのだが、荘蔵さんがいきなり「いいいいい……」と歯ぎしり交じりにうめき声をあげだしたのに驚いて去るタイミングを見失ってしまった。「荘蔵さん……?」と俺は声をかけてみたが、聞こえていないようだった。「いいいいい……」。「大丈夫ですか?」と男もすかさず声を掛けたがやはり返答がない。


「荘蔵さん、桜ですよ……。わかりますか……」とは言えなかった。荘蔵さんはセーラー服にコートを羽織ったいつもの恰好でしか俺とは会いたくないと言っていたから。だから早めにこの場を去るべきだった。けれどぐずぐずしているうちに荘蔵さんは俺を発見してしまった。さっきの「いいいいい……」はつまりそういう事だったのだろう。


もう命の危険はなさそうだが、癇癪を起して手が付けられない子どもをみんなで見守っているというような状況になってしまった。AED持ってきた男と駅員も棒立ちでこちらをじっと見ている。介抱していた男は「とりあえず命に別状はなさそうですが、こんな感じなのでどのみち病院には行った方がいいですねえ」と冷静に腕を組んでいる。見物している人間の中にはスマホを構えてにやにやしながら動画を撮っている若者さえいた。荘蔵さんに向けられている眼差しが、この前の本屋の老人に対するものに重なって、俺さえ今にも叫び出しそうだった。やめてくれ、と小さくつぶやくので精いっぱいだったが。


俺は恐る恐る荘蔵さんに手を伸ばした。が、寸前で「いいいいいっ!」と手で弾かれてしまった。もう何が何だかわからない。やめてくれ、やめてくれと荘蔵さんに祈るような姿勢でうつむいてつぶやき続けたが、断続的に続いている「いいいいいい……」の低音がすべてかき消してしまう。俺は混線してほとんどノイズみたいな思考に囚われながら、不意に荘蔵さんに出されたクイズのことを思い出した。そういえばまだ回答を出していなかった。荘蔵さんの胸にぽっかり空いた穴の中にはめるものは何か。


その答えはあまりに単純だった。荘蔵さんの言っていた通りだった。俺は荘蔵さんの胸のあたりに触れようとした。はじめは激しく腕を掴んで抵抗されたが、どうにかボタンを取って穴の開いていたところに触れると急におとなしくなり、とても安心したような恍惚とした表情になってぱたりと腕をおろし唸り声も止んだ。穴はあの時からそのままだった。俺は荘蔵さんの穴の内側をやさしく撫でる。荘蔵さんから息が漏れる。俺はそこを覗き込む。そこはとても暗くて温かかい。俺が顔をすっぽり穴にうずめると、荘蔵さんの「んふふ……」といういつもの笑い声が聞こえた。そして荘蔵さんとは、もうそれきりだった。


深志が最近になって女装を始めた


深志が最近になって女装を始めた。もうずっと映画の撮影はしていなくて、三脚に据え付けられたビデオカメラがうっすらと埃を被り始めてさえいる。服だとか本だとかでごちゃごちゃになった部屋に宝箱みたいなちんまりとしたスペースを作って、そこに小さい鏡を立ててありがちなナチュラルメイクを顔に施す様子を見て、あたしは初めて深志に対して深志らしいな、と思った。経緯は不明だけれど、あっちの深志とこっちの深志がようやく統合されてきたということなのかもしれない。こうなると、もうあたしは必要ないんだろうなと思った。あたしは深志だった、あるいはあたしは深志じゃなかった。そういうものだ。


これまでの深志は実に曖昧な存在だった。ほとんど自壊してしまっていたと言ってもよい。何というか、マリオネットを操る手が丸見えになっているような赤裸々さだった。それがこうして自身の形態を自ら確かめていられるようになったのだ。自分も相手も全部ひっくるめて自己であるかのような、会話していても相手を独り言に巻き込んでいるかのような、そういう雰囲気はもうどこにもない。


今までのあたしたちは、お互いが不在の深志を求めていた。それを深志は自力で見つけ出したか、取り返してきた。どこからか。映画を撮っていた時にあたしが実家から引っ張り出して持ってきた高校時代のセーラー服を着て、華奢な身体を通して、地味なメイクで、まるで高校時代のあたしだった。


 これ以上一緒にいたら、今度は深志があたしになり始めるような気がする。あたしは深志のもとから離れるべきなのかもしれない。前に深志が「大団円が近い」と言っていたのを思い返すと、もしかしたらそれはあたしをはじめ周囲の人間が関わるべきでない秘めやかな祝祭か何かなのではないかという気がしてくる。


 うっすらとした予感の繭のようなものが内からほろほろと突き崩されて、次第に恐ろしい何か露わになってくるような。それはメタモルフォーゼとも言えるかもしれない。


「僕たち、私たちのきれいな性嫌悪は瀕死です」深志は言った。いつもと同じように、真っ暗な部屋で立ち尽くして、身体を交えないピロートークが始まる。


「そうだね」とあたしが答える。


「うん」


「もし死んだら生き返ったり、するかな」


「しません」


「よかったあ」


「僕たち、私たちのきれいな性嫌悪は瀕死です」


「うん!」


「へへ……」


 深志は嬉しそうだった。あたしもなんだか嬉しくなって高揚感が湧いてきて、ずいぶんかわいらしくなってしまった彼のうっすらと外からの明かりに照る唇のわずかな光沢に神聖さを感じてすらいた。彼は照れ臭そうに、セーラー服の襟の部分を摘まんでぱたぱた言わせている。あたしは、あたしの動画は全部消してしまって欲しいとお願いした。深志はそれに「そうだよね」と言って少し残念そうに承諾してくれた。


「最後の大団円には来てくれる? これから始まるんだけど」うつむきながら、ちらちらとこちらを見て深志が言う。「こ、これで終わっちゃうから、また始めたいから……」


「ごめんね、それもできない」


「そっか……」


 深志は控えめに泣き出してしまった。あたしはもうこれ以上声を掛けることはせず、ゴミや服の散乱している部屋をのそのそと歩いて出口に向かった。彼は「えーん、えーん」と冗談みたいな泣き声であたしのセーラー服の袖を濡らしている。あたしはドアを閉めた。そうしたらもう何も聞こえなくなった。深志とは、もうそれきりだった。



最後には



最後にはみんなが来てくれて、俺を囲みながら楽しそうに手を繋いで踊る。でも俺はそこには入れてもらえなくて、それがすごく嫌だった。両親、きょうだい、学校の先生、友だち、コンビニの店員から街ですれ違った怪しいおじさんたちまでみんながいた。輪の中は温かくて、嬉しくて、俺はその場に仰向けに倒れ込んで眠ってしまう。けれど次第にやわらかい光が顔に当たって眩しくなって、どうしてもそっちに引き戻される。目が覚めるとき、暗い所から明るいところへ誰かに手を引かれて、どうしようもなく救い出されてしまう。そう思った俺はあわててビデオカメラを取り出してそれを映画にしようとした。しかしいともたやすくその手にカメラを弾かれてもといた場所に気が付けば立っていた。そういうものだ。手はどこかに消えていた。俺はもうちょっとだけその手をよく見ていたかったのにと思った。


外がずいぶんと騒がしくて起き抜けの頭の中をかき乱す。散らかりきった部屋の中ではすべてが静止していて、息をひそめて今にも俺に牙をむこうとしているような不安に襲われた。それで癇癪まじりに腕を振り回したら、ベッドの脇の水が残っていたコップが倒れた。俺は「ちくしょう」と小さく呟いて立ち上がりカーテンを開けて、しばらくは飛び込んでくる光に目をしばたたかせていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

深志のこと 青木雅 @marchillect

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る