あたらしい爆弾のために

青木雅

N/A

 大学の同期で、失踪して連絡が途絶えていたという大須が突然目の前に現れた時は、さすがにいくらか動揺した。「きょう泊めてよ」と覗き込むように言って、こちらに断る余地などまるで与える気のない口調で詰め寄ってくるので有耶無耶にしきれず、結局家にあげる運びになった。見た目こそ学生時代と変わらない長めのくせっ毛にTシャツとデニムだったものの、雰囲気にはどこか違和感がある。

「ちなみに、カルトとかねずみ講に誘うようなら即座に叩き出すことになるけど」

「ないない、俺にいちばん縁がないものだよ」

 嘘をついているような雰囲気ではなかった。だからそれほど詮索をする必要も感じず、それにとにかく仕事で疲れていたからさっさと家に帰って休みたかった。

「ならいいんだけど、それでなんで俺がここにいるってわかったん」

 と俺が聞いたら、

「え、インスタでだいたいこの辺の駅って分かったから、いるかなーってこの辺でボーっとしたら本当に来たって感じかな」

 という風に飄々と答えた。その時わずかに上がった口角には確かに見覚えがあって、あの頃のことがありありと思い出される。

「そうか、そんでもってなんで俺だったんだよ、もっと他のやついただろ」

「それはまあ、なんとなく?」

「失踪してたっていうのは」

「誰にも告げずに去ったら、失踪になるか、そりゃまあ……。なんかこう、定期的にリセットしたい衝動に駆られるんだよね、一個でもミスったなあってなる度に」

 なんの躊躇いも無く滔々と彼は言う。そういえば、就活もせずフリーターをしながら中野かどこかに住むと言い出したあたりから距離ができて、それ以降はまともに話をしていなかった。そこから三年ばかり経っていて、まったく質の違う時間がそれぞれに流れてきたのかもしれない。だから今更おなじ空間に共存することに不安を感じざるを得なかった。

「それで、うちにはどれくらい居るつもり?」

「考えてない! 今夜泊まることまでしか」

「ええ。じゃあ失踪するたびずっとこんな風に転々としてんの」

「そうだね」

「フリーターっつってもその感じだとバイトもそんなに続くタイプじゃないだろ、そんな生活で不安にならん?」

「無いね、なんて言ったっていま目の前の瞬間に没入してるから」

 大須は悪びれる様子でも奇をてらう様子でもなく、あくまで超然としている。

「はあ?」

「未来の自分に対して、なんの配慮もしないんだよ」

「それは果たしてどうなんだ?」

「俺は、この国のみんなが俺みたいに没入したらいいと思ってるよ」

「一瞬で崩壊するだろそんなの」

「案外そんなことないと思うけどな。ていうか別に崩壊したっていいんだけど」

「やばすぎ、そんな人を泊める俺の身にもなってくれよ」

「はいはい」

 学生時代の仲間の中には、情報商材を売りつけようとしてきたりする人間もいたしそれに比べたら大須はこれでも幾分かマシだった。ただやはり、会話の端々にお互いの話すことが通じてはいるのに別の言葉を話しているような異物感がある。けれど思い返してみるとこれは自分の貧乏学生時代の精神性と似ているもので、それに気づいたら違和感の理由が一気に腑に落ちた。あの頃は、不思議と近い精神性の人間とばかり自然と交流が深まっていって、いつでも言外にかすかな連帯感があった。とはいえつかの間のもので、今となっては失われていることだろう。みんなそれぞれ形は違ってもどこかで捨てたものだ。

 大須と話しながら、懐かしい気持ちにさえなった。それでも大須とてまったく同じであるはずはなくて、だからみんな未来になんの配慮もせずにいればいいとか、あの頃からしても客観的におかしなことを言っているに違いない。いずれにしても距離の取り方がわからなくて、一定の距離感を保つためにやや冷たく振舞うことしかできないのが少しもどかしかった。

「てかもしかしてめっちゃ疲れてる? 目の周りの感じやばいけど」

「ああ、まあそうかも。職場が最近ちょっと荒れてるから」

 大須の方は、俺の懸念など気にせずに距離を詰めてくる。俺より一回り背が低く、上目遣い気味に俺の顔を覗きこんできて心配し、それから俺のバッグを半ば強引に「いいから、いいから」と持って「コンビニでなんか買ってく?」とか「明日も早いん?」と聞いてくる。こういう所は昔から同じで、馴染みのある人懐っこい仕草だった。

 仕事の帰りなのに手ぶらでいることに不安感を覚えつつ、アパートまで歩いた。Tシャツにデニムでスニーカーな上に長髪の大須が、俺のビジネスバッグを持っている様子がちぐはぐな感じがして面白かった。

 本人の口から聞いたところによると、大須は知人宅やネットカフェ、時には行きずりの酔っ払い、マッチングアプリでマッチした相手なんかのところを転々としつつ日雇いバイトで最低限の収入を得て暮らしているらしかった。実家とは実質的に絶縁状態で、もう三年以上帰省もしていなければ連絡も取っておらず、頼る気も期待もまったくないという。そんな状態であるため海や川に落ちて底に沈むとか売り飛ばされるというような誰にも見つからない死に方をしたら永遠に不明な存在になる、と笑いながら言ったのにはひどく狼狽えてしまい、その反応を見て更に不気味に笑う表情にはなんだか底知れない恐ろしさがあった。

 大須いわく、俺のように都市圏に住んで消耗している人間たちの苦しみの根源はすべて定住生活にあるらしい。人間は誕生してからずっと移住生活をしていて、定住生活をしている時間は未だ人類史の一割にも満たない。そのため移住生活で培った能力を持て余しており、生きることの他にあれこれしなければならなくなっているのだと。もっともらしいようで疑わしいことを突然言い出すのも大須の癖だった。

「俺、東京にずっといるし出ていくつもりも無いっていうかそもそも出たら生きていけないわけだけど、みんな苦しそうでしんどいんだよ。それでよく思うんだ。東京に埋もれちゃってるみんなの骨を拾ってあげたいって、全部……」

 少し間を取ってためらいがちにそう話す大須の目には熱っぽい力が宿っていた。今日を生きるので精いっぱいな生活をしているはずの大須に何がそうさせるのか、原動力が分からなくて得体の知れない恐怖を覚えた。

 そうしてようやくアパートまでたどり着いて、いつもの家路よりも長かったようでも短かったようでもあった。玄関とキッチンを抜けてリビングのドアを開けると一緒に暮らしているオス猫のハナがキャットタワーの一番上からこちらを見る。大須を警戒しているのだろう、降りてくる気配はなかった。ハナが来てからはこの部屋に他人を招いたことはないから仕方がない。

「何にもないのな」

 大須が言う。確かに必要最低限のソファ、小さめの机、それにキャットフードや掃除道具をしまう戸棚以外にはハナのためのキャットタワーやトイレ、クッションがあるだけでリビングにはほとんど物を置いていない。基本的に閉ざしている隣の部屋にベッドやクローゼット、本棚などがあるが最近はもっぱらリビングで寝起きしているから物置状態になっていた。

「ハナがいるから、散らかせないだろ」

「もう、お猫様じゃん。空調も入れっぱでしょ」

「そういうものだから、どこの家も猫飼ってれば」

「仲良くなれるかな、俺も」

「保護猫で引き取ってるから最初は俺も引っかかれたりしたけど、一か月くらいで慣れて手からごはん食べてくれるようになったな」

「なるほど、可能性はあるな」

 ハナはいつまでもじっとこちらを見下ろして大須のことを観察していた。なんだか悪い気がして、大須にも更に申し訳ない気持ちだったけれど、もう遅いからと俺のベッドに促した。大須も素直に納得してくれて、

「恋人かよ! 俺も眠いし別にいいけど!」

 と言ってぼすんとベッドに飛び込んで「おやすみ」と小さく手を振ってドアを閉めた。

 それでリビングに二人きりになってからしばらくして、ようやくハナはキャットタワーから降りてくる。フローリングの匂いを注意深く嗅いで回り、確認作業が済んだのか警戒を解いたらしく、にゃあと軽く鳴いてソファのクッションに来て丸くなった。真っ黒で細かい光沢のある愛しい毛玉。体重をかけない程度に、身体を屈めて腹から胸のあたりに顔をうずめ、両腕で囲い込むように抱きしめる。ハナはこれを少しの間だけなら許してくれた。不安に襲われたり何も考えたくないという時には、いつもこうしてソファに沈んでハナを抱き、その穏やかな温かさへ逃げ込むように一方的な抱擁をした。この緩慢な時間だけが、いくらかの罪悪感はあっても、張り詰めた緊張をほぐし、つかのまの安らぎを与えてくれる。しばらくするとンニャウ、とハナが鳴いて、制限時間だと告げられたので顔を上げてそれからしばらく撫でて俺も眠った。

 家の中に自分とハナ以外の何者かがいることに、思いがけず嫌な感じを覚えた。大須のことが嫌だということはなく、ハナと自分だけの空間として認識が固まっていたからだろうか。ハナのことを取られるかもしれないといった懸念があったわけでもなく、強いて言えば自分以外の者同士の関係があることに不安とわずかな苛立ちを感じているような気がする。もっともハナはまだ大須に触れさえしていなかったけれど。

 翌朝、目を覚ますと寝室のドアが半開きの状態で大須はもう起きているのかと思ったらそこにはおらず、キッチンの方からハナのすずの音が聞こえた。そちらを見ると仰向けで四肢をまっすぐピンと伸ばしている大須の周りをハナが歩き回っている。

「なにしてんの」

 と声を掛けてみるが返事はなく、ハナが手足を乗り越えようとしてぶつかったりしてもなんの反応もない。それで寝ぼけながらも奇妙に思い近づいてよく見たら呼吸をしていなかった。それどころか脈もなければ心臓の鼓動もまったくなく、シンクに吐しゃ物にまみれた空のカフェイン錠の瓶を見つけたときにようやく事態を察した。その横にはジャムを塗ったトーストと目玉焼きが無造作に皿に乗っていて、どちらも冷めてすでにかたくなっている。

 危機感のない目でこちらを見てナァンと暢気に鳴くハナを、とにかく大須から離したくて急いで持ち上げようとしたら手の甲を引っかかれて血が出た。

「ごめん、ごめん」

 と何度も繰り返し、半泣きで謝りながらなんとかハナをリビングへ隔離して、それから流しにめいっぱい水を流した。大須のゲロが水の流れに引き裂かれながら排水溝に吸い込まれ、瓶はシンクの底にぶつかってはゴン、ゴンと低い音を立てて回転する。その様をじっと眺め、とにかく大須のことを見ないようにしたが、警察を呼ばなければならないのに現場をいじってはならなかったと気が付いて慌てて水道を止めたら、一帯に沈黙が走ってまざまざと目の前の現実に意識を向けなければならなくなってしまった。

キッチンとリビングを隔てるドアの磨りガラスにハナの形がかすかに透けていてかわいい。さっき引っかかれた傷から血がひとすじ垂れていて、舐めたらじんわり鉄の味が口の中に広がって気持ちが悪かった。カチャカチャと、ハナがドアを叩く音が聞こえる。

これで警察を呼んだなら、なんらかの罪には問われることになるのだろう。そう考えた時に、駅から家まで歩いていた時に彼が言っていたことを思い出した。

「こんな生活だからさ、海とか川に沈んだり、売り飛ばされたりして誰にも見つからない死に方をしたらそのまま永遠に不明な存在になると思うんだよね」

 そう話す大須の顔に不安の色は見えなかった。むしろそうなることをどこかで望んでいるかのような話しぶりですらあった。

「そんなら、わざわざここで死ななくたっていいじゃん……」

 今度はふつふつと怒りが湧いてきた。どうして俺がいきなりこんな、とんでもなく割を食う役割を押し付けられなければならないのか。「東京に埋もれちゃってるみんなの骨を拾ってあげたい」とか言ってたのはだれだよ、と、怒りにまかせて大須の死体の腕のあたりを軽く蹴ったら、死後硬直のせいか想像していた人間の硬さではなく骨にじんと痛みが走った。この痛みに、歴然とヒトではなくモノになったのだという事実を思い知らされ、そのままその場にへたり込んだ。

もし俺が捕まったりしたならハナは一体どうなるのだろう。一日以上家を空けるときはペットホテルに預けていたが、身柄を拘束されかねない以上は無理がある。ということはつまり、いずれの場合にもハナとは離ればなれにならざるを得ない。それに今ここで呼んだらどうなるか分からなかった。どこかに預ける暇もなく連れていかれる可能性が高く、かといって預け先を探してから警察を呼んだならそれ自体が罪の根拠になることもあり得る。

 ひどく震える手足を少しでも落ち着けようと、リビングに戻ってソファにぐったりと身を委ねてみても鼓動はいつまでも速いままで、ハナを抱き寄せようとするもするりと抜けられてしまう。そのまま首にかけた鈴をちゃりちゃりと鳴らしながらハナは開けっ放しのドアを抜けて大須の死体の隣に座り、しばらく眺めたあとその胸の上に飛び乗ってさながら心臓マッサージのように揉みだした。まさかそのつもりでやった訳ではないだろうが、その様子はどことなく神秘的な何かに見えて、ベッドでうなだれている姿勢のままで気が付いたらスマホのカメラを構えていた。

 どうしたら一秒でも長くこうしていられるのだろう。心の底から思った。思いながら、できるだけそんなことは考えずにいられたらいいのにと、心のまったく同じ部分で二重の気持ちが微塵もちぐはぐさを感じることなくあることに自分で困惑した。顔のあたりに熱があつまってきて、涙が滲んで視界が霞んでくる。時計を見るともう少しで家を出なければならない時間になっていた。

 ゆっくり立ち上がり、まだ吐しゃ物のこびりついた流しで顔を洗って水を飲み、それから皿の上の目玉焼きを手づかみで一口かじってみた。黄身が固まりきっているし白身はゴムのようで食べ物を食べている気がせず、そのまま皿の上に戻す。けれどハナがちょっかいをかけたらいけないと思って皿ごとゴミ箱に放り込んだ。ハナは気に入ったのかまだ後ろで大須を構っている。

 これからどうするかを思案してはいられず、出勤してから事情をでっちあげて半休を取り、そのあと落ち着いて考えることにして支度をして家を出た。ハナは大須の上に乗ったまま小さくにゃあと鳴いて、家を出る俺を見送ってくれて、それが本当に嬉しかった。

「行ってきます」と言いながらなけなしの丁寧さでハナの頭を撫でて、ついでに大須の額にデコピンをした。プラスチックの板のような感触だった。

 満員の通勤電車の中で、どうにかスマホを見る体勢を確保して今朝のハナの動画をひたすら繰り返し再生した。何度も見るうちにハナの下で伸びている大須からどんどん人間という認識が褪せてモノになっていく。そしてそのプロセスがどうしてか心を軽くした。どうしてそんなことがあろうかと不思議でならず、他の乗客のギュウギュウという圧力に身をまかせながら考えてみたが、頭の中がずっと混乱していてままならなかった。

 出勤してすぐ主任に体調が優れないため午後休を貰いたいと話したら、いつもなら嫌味たらしく小言を言われるはずなのに「おう」とあっさり承諾を得られてしまって拍子抜けした。なんであれ楽でありがたいと思いながら仕事をした。ひたすらExcelをいじりながら困らないと分かる場所のセルを結合してみたり、見た目では分からないように枠線に重ねて線をたくさんいれたりしていたら、人間の死体も腐敗するのを失念していたことに不意に気が付いて途端に冷汗がどっと出た。それで人間の死体の腐敗がどのように進むのかをこっそりスマホで調べると、丁寧に説明されているサイトがいくつも見つかって、どうやら死体現象という腐敗までのプロセスがあるらしいと知った。血流が止まるために血が下に沈んで、仰向けならば顔面が蒼白になり血の溜まった部分が皮膚の上から死斑といって黒ずんで見えるようになる。それから二十数時間の死後硬直を経て消化器系から腐敗が始めるという。ハナのために気温はいつでも一定にしてあるのが不幸中の幸いで、ひとまず異臭がしはじめたりする前には帰れそうだった。

 とりあえず安心して仕事に戻った俺の顔を見て同期が眉間にしわを寄せる。

「顔色やばいよ、ド貧血っていうか死んでんのかって感じ」

 言われた通りにスマホのカメラアプリで顔を見ると確かにそうで、本当に血が通っているのか疑うほどだった。なるほどあの主任も簡単に半休を許すわけだと納得したけれど不思議と調子は悪くなく、むしろ普段より好調だと言っていい。もう何のためのものかすら分からないデータをExcelで処理し続けることに普段ならいつでも気が狂いそうになっていたが、今日はむしろそのことが面白く思えて、さっきの焦りを忘れて退勤まで生き生きと働くことが出来た。

 帰りの電車の空き具合には電車の中で思わず爆笑してしまいそうだった。帰ったら為さなければならないことへの不安は、それが大きすぎるのか真っ白な自分の顔を列車の窓に見て、なにもかもが面白くて仕方がなくエネルギーがあふれている。大須の死体のことを考えても、具体的な措置は何一つ思いつかなかったけれど楽観的な気持ちに傷ひとつ付かなかった。人目が少なければスキップでもしたかもしれない。家のドアを開けて依然としてそこにある大須の死体の顔が俺とは対照的に健康的な赤みを頬に帯びているのを見つけるまでは、みなぎる高揚感ではちきれて死んでしまうのではないかとすら思った。

 さっき調べた通りならば、血が巡らないのだから仰向けの死体の顔面は真っ白であるはずだった。確かに鼓動はないしもちろん微塵も動くことは無いのに、精悍な様子で大須はそこにいる。触れてみると冷たく、死後硬直が終わったのか硬くはなくむしろブニブニしていた。いずれにしても生きた人間のそれではないが、けれど人間の死体でもないのだ。異臭もしていない。

 ハナが来てナアと鳴いた。リビングに戻ってキャットフードの皿を見ると今朝からまったく減っておらず、死体よりもそのことの方が不安感をもたらした。昨日以前からも特に体調不良らしい症状は見られていなかったから単に飽きただけなのかもしれないと、とりあえずおやつチュールを差し出してみるも無視されてしまう。心配する俺を横目にハナは大須の方に向かって歩いていき、首の付け根あたりに顔を突っ込むとかみちぎって食べ始めた。見るとその周辺に何か所もえぐった痕があって、どうやらキャットフードの代わりに大須を食べていたらしい。ただ、血が垂れた様子がまったくなく、ハナの顔の毛にも赤っぽいものがまったく見えないのだ。とりあえずハナを死体から引き剥がそうとする。が、今朝と同じように抵抗されてまた手の甲を引っかかれてまた血が出た。なんとか抱き上げてリビングに置いてドアを閉じ、傷口から垂れるひとすじの血を舐めながらドアを叩く音を背後に死体を観察する。

 大須の傷跡はどうみても肉の傷口ではなくグミのようなゼラチン質で出来ていて、表面はタンパク質の皮というより肌のテクスチャが印刷されたビニールに近いものだった。腕を持ち上げてみると人間よりも明らかに軽い。顔が白くなるような死体現象が見られないのはどうもこのせいであるらしい。

 俺はいてもたってもいられなくなり、ハナのかじった部分から続けて爪で小さく大須の肉をえぐり取って、その光を反射してきらきら光る深い赤色の何かをしばらく見つめ、それから口に放り込んで力強く咀嚼した。血の味がすると思ったのにそんなことはなく、かすかに甘かった。それは心地よい自然な甘さなどではなくむしろ不快で、けれど吐くほどでもない。すぐに飲み込んで、喉を下っていく感触に意識を集中する。果たして消化されるのだろうかという心配はあったが、きっと大丈夫だろうと、何の根拠もなく信じることができてしまい、むしろそのことに恐怖した。

 ひとまず即効性の毒などは無いらしい。ハナも特に体調が悪いようには見えない。もしもハナがこれで死んだなら潔く警察を呼ぶことになっただろうが、後先考えずに大須を食べ、そして平然と生きている以上はことの異常さと自分のしたことを鑑みても警察や司法には頼りようがなかったから、俺は結局のところ通報はしないことにした。一旦そう決めると動揺も高揚もなく平坦な気持ちになって、今度はハナと同じように直接大須の首に噛みついて、噛み切ってもう一口食べた。やはり不快な甘さだった。


 大須をリビングの方まで引きずって、テーブルの上に持ち上げて置いた。軽くて弾力があり、人間かそれに類するものだとはまったく思えなかった。触った感じでは全身がグミになっているようで、服と一緒に体表のテクスチャも剥がしたらすっかり大須と判別できなくなった。

 それからは、俺とハナは毎日少しずつ大須を食べながら過ごした。首の右側からはじめて右腕、それから対称的に首の左側から左腕を。途中で食べにくいからと腕を包丁で切り落としたとき、なんのためらいもなく刃を入れられたことに後になって気が付いて、もう大須と呼ぶのは適切ではないのではないかと思った。大須というよりもっと別の何かだ。けれどちょうどいい呼び方も見つからず結局それのことを大須と呼び続けた。

 朝に大須を食べると、その日は元気に過ごすことができたし、夜に食べると寝つきが良くなった。かすかな甘みの不快さをできるかぎり深く噛みしめながら眠ると不思議と夢見もよくなり、低血圧からくる起き抜けの怠さもこころなしか改善された。その分ハナとのあの一方的な抱擁はなくなり、大須を共有することでこれまでより深くつながれたような気がする。

 そして何より、漠然と頭の中にあった、空をいちめんに覆う鉛色の雲のような不安が無くなった。これまでは、自分がこのまま暮らしていればいつの日かハナが死に、場合によっては自分が先に死に、この部屋の黒い大きなシミになって管理人か誰かに見つかるか、下の階に死液が染み出すか、大地震で部屋もろとも粉々になるまで誰からも顧みられないことに不安を感じていた。けれどそこに大須が現れて、先に死んだ。そして決して腐らない永遠の死体となったのだ。こうして、いつでも俺とハナは彼のことを顧みて、食べて、そうしている限りこの不安を免れることができた。だからどんなに意味不明で役に立たない仕事でも熱心に取り組むことができたし、むしろそうであるからこそ頑張ろうと思った。上司に嫌味を言われても、どれだけ徒労感に苛まれても、脇目も振らず目の前のいまこの時に没入すること。それだけが、それだけで、情熱を恢復したのだ。

 テーブルの上に鎮座する大須は家具の少ない部屋に不思議と馴染み、そして日に日に小さくなっていった。俺もハナも飽きることなくかじりついて、一か月足らずで首、両腕、胸、腹まで食べきってしまった。ここまで来ると首から上と腰より下だけがバラバラになっているだけになり、表面部分はすべて剥がしてしまったから見た目はただの大きな深い赤色のグミでしかない。そしてこの頃に少しだけ変化があった。

 食べ始めてからは人間としての、切れば血が出たころの大須のことをあまり考えなかったのに、学生時代のやりとりなんかを頻繁に思い出すようになったのだ。

 思えば俺たちは二人で何かをしたことはなく、食事でも何でも、いつでも他の同期や共通の友人を合わせて三人以上で会っていた。何となく、一対一では上手く振る舞えないような気がしていた。その原因には心当たりがあって、まだ出会ったばかりの頃にゼミの歓迎会か何かで飲み会に参加した時のことだった。大須はほとんど下戸で、レモンサワーを一杯か二杯飲んだだけでぐらついて隣の席の俺にほとんど掴みかかるようにして抱きついてきて「オアー」と低く唸った。その時の、人間の身体の重さや形、熱が渾然一体になって伝わってくる感覚が気持ち悪くて、かなり力を込めて無理やり引き剥がしたのだった。そのまま勢いで大須はテーブルの角で額を切って、傷自体は大した事はなかったものの血がダラダラと垂れた。ヘラヘラしているのも相まってか場が凍り付き、俺ともうひとりで大須を店から連れ出して血を拭き絆創膏を貼った。着ていた白いTシャツには何か所も血が付いていて、それは帰ってから丸めて捨てた記憶がある。別にトラウマでもないのに、この時のイメージが執拗に蘇ってくる。突発的な異変で、何か原因があるのではないかと考えたが、それは明らかに大須を食べていることだった。

 それからは、ことあるごとに、自分の身振りや言動に大須の影を見てしまうようになった。ハナに対しても同様で、ちょっとした仕草の中に似た部分があるように見える。不気味に思って大須を食べるのをやめようかとも思ったが、もうずっと水やコーヒー以外は大須以外のものを摂取しておらず、別のものを口に含む気がまるで起きなかった。ここで初めて、俺は大須に関すること以外にもあらゆることの引っ込みが効かなくなっていることに気が付いた。けれど自分でも理解しがたいほどに楽観的でいられた。いつも通りに起きて大須を食べて仕事をして帰ってまた食べてハナと過ごす時間は、あの一方的な抱擁の延長上にあるような、それでいてお互いを尊重し合えるような時間だった。

 実は他のみんなのところにも大須みたいなものが来ていて、それぞれそのことを秘密にしながら同じように少しずつ消費して生きているのかもしれない。都心を歩けば無数に漂っている、守るべきものもなくどうしようもない孤独を引き摺っている人間たちのもとにふらっと現れては、無くなったらどうなるか不明で、でも少なくともそれまでは何の根拠もない安らぎをくれる、つかのまの祈りのような、やさしい時限爆弾が。先週から仕事に来なくなって連絡のとれない先輩も、もしかしたら大須を食べきったのかもしれない。

 目まぐるしくすばらしい日々の中で、仕事はいつでもヘラヘラしているせいで上司の反感を買い、いつの間にか日陰部署に飛ばされ給与も減ったがこの心地の代償としては小さすぎるくらいだった。いまはただ、大須の身体が尽きるまでの残り時間をどのようにやり過ごすか、それだけが問題なのだ。大須がある限り自分は守られている存在だ。それを思うとそれだけでもうすべてがヨシとしてしまえるのではないかと、ほとんど確信めいた爽やかな気分に支配された。

 そうして下半身も食べ終え、最後に残された頭部も大半を食べつくすところまできた。もう指折り数える程度の日数分しかないのが一目でわかる。けれどこの時間がもうすぐ終わるのだと分かっても感傷に浸る暇もなく目の前の大小さまざまな幸福を見逃すことなくいられることがひたすらに喜ばしくて、毎秒飛び跳ねたいくらいだった。

俺に与えられた選択肢はふたつ。大須を残してここを出て再び以前のような生活に復帰するか、最後まで大須を食べてあたらしい大須になるか、そのどちらかだ。首だけになったころに、自分やハナの中で大きくなった大須がもたらす記憶やイメージからそう悟った。

 頭部の鼻回りをハナと分け合って食べ、とうとう大須の残りは最後の一口になった。明日の俺はどんな選択をするのだろうかと考えても、不思議とまったく不安ではない。どちらを選ぶかはもちろんわからないが、けれどこれ以上ないくらい明晰に判断を下せるであろうことだけは確信を持って言える。それに今はただ目の前の瞬間がただただ眩しくて、かつてない自由の浮遊感の前に立ち尽くすばかりなのだ。

 おもむろに横で丸くなっているハナの胴体に顔をうずめてみる。その暗闇の果てしなさが漫然と心地よく、このまま飲み込まれてしまいそうだと思った。うにゃう、というハナの煩わしそうな声と肉球の感覚を額のあたりで感じてゆっくり顔を上げ、それからばたんと寝転がる。深い息を二度ほどして、眠ってしまおうと思ったらハナが腹の上に乗っかってきた。見下ろす眼差しをじっと見つめて、「夕方までには起きるから」と伝えて目を閉じた。ナア、とかすかな声が聞こえて、ハナもあくびをしたようだった。そうして体重と一緒にハナの体温が少しずつ身体に広がっていくのを感じながら、俺たちはゆるやかに眠りに落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あたらしい爆弾のために 青木雅 @marchillect

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る