真夏とペンギンとハイボール
風葉
プロローグ
うだるような暑さ。まぶしいばかりの光。スマホには、数日前から見慣れてしまった熱中症警戒アラートが表示されている。
早く帰って、キンキンに冷えたビールが飲みたい。
こんな猛暑が続いているんだ。休日だし、昼間からお酒を飲んだってバチは当たらないだろう。
実を言うと、私はそんなにビールが好きではない。
普段飲むのは、ハイボールかサワーかカクテルか、あるいは日本酒。たまにワインも飲むけれど、最初の乾杯はいつだってハイボールと決めている。お酒には強い方だと思うのに、なぜかビールだけはすぐに酔いが回るのだ。
それでも、今日みたいな日だけは、あの喉を焼くような苦味と炭酸を欲してしまう。
ビールの次は何を飲もうか。冷蔵庫には何があっただろう。つまみは、まあ無くてもいいか。
そんなことばかり考えながら、速足で家路を急ぐ。
最寄りの駅から自宅マンションまでは、歩いて十分ほど。その短い道のりですら、じっとりとした汗が背中を伝うのがわかる。
マンションの向かいにあるコンビニに駆け込む。
天国のような冷房を期待していたけれど、節電しているのか、空気はどこか生温い。それでも、外の熱気に比べればずいぶんとマシだ。
目的の酒類コーナーへ直行し、ずらりと並んだビールを眺める。銘柄ごとの味の違いなんてよくわからないので、とりあえず一番搾りという名前と、ちょっと値段の高いプレミアムなやつを2本カゴに入れた。
会計を済ませて外に出ると、再び熱気がまとわりついてくる。
いつもどおりエントランスのオートロックを抜け、エレベーターで自宅の階へ。そして、いつもどおり鍵を開けて玄関のドアを開ける。
「ただいまー」
返事はない。今日は夫も娘も一日中出かけると言っていた。気ままに一人、お酒を楽しもう。
この時点で、確かに少しの違和感はあったのだ。
水族館のペンギンコーナーを彷彿とさせる、独特の生臭さが微かに鼻をついた。
けれど、この暑さだ。思考力も鈍る。
そんな些細なことに気を留めることなく、私はいつもどおりリビングの冷房をつけ、いつもどおり洗面所で手を洗い、いつもどおりクレンジングで化粧を落とし、いつもどおり楽な部屋着に着替えた。
リビングのソファに深く腰掛け、早速買ってきたビールの一本を開ける。
ぷしゅ、という小気味いい音。缶に口をつけると、ひんやりとした金属の感触が心地良い。
あぁ、冷たい。
期待していたほどの感動的な美味しさはないけれど、まあ悪くはない。世の中のビール好きは、これの何がそんなに良いのだろう。
とりあえず、もう一本は夫にあげることにして、二杯目はいつもどおりハイボールにしようと決めた。
普段はつまみがなくても平気なのだが、飲み慣れないビールを相手にしているせいか、何か口にしたくなる。確か、冷蔵庫に昨日の夕食の残りが少しあったはずだ。ついでに、炭酸水とウイスキーも持ってこよう。
キッチンに足を踏み入れた瞬間、あの生臭さが強くなった。
水族館の、ペンギンコーナーの臭い。
……生ゴミに、魚でもあっただろうか。
そんなことを考えながら、冷蔵庫に手をかける。
冷蔵庫の中は、いつもどおり。作り置きの常備菜や調味料、牛乳。日曜に一週間分の食材をまとめ買いするから、週末の今日はほとんど空っぽのはずだ。
ゆっくりと、冷蔵庫の扉を開けた。
目に映った光景を、疑った。
私、そんなに飲んだっけ。まだ一口しか飲んでいないはずだ。
「あ! こんにちは! どうも、お邪魔してます。いやあ、この暑さで冷房がどこもやられちゃっているんですよ。うちの冷房もとうとう壊れちゃってね。新しいのが届くまで、十日ばかりお世話になりますね」
冷蔵庫の棚から、一羽のペンギンが流暢な日本語で話しかけてきた。
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