第2話



魯粛ろしゅくどの!」


「ん?」


 呂蒙りょもうが駆けて来る。

 その姿に、魯粛は苦笑した。

「お前、子供のように通路を駆けて来るなよ」

「はっ、申し訳ありません。その……、私が朱然しゅぜんを黙らせるべきでした」

 何を呼び止められたのかと思ったらしい魯粛は、腕を組んで頷く。


「まあ、そうだな。

 だがまあ気にするな。あのくらいのこと些細なことだ。

 しかし子明しめい

 軍とはな、戦っていても戦っていなくても、内部には不満が渦巻くものなのだ。

 それは仕方ないと諦めるしかない。

 大切なのは軍にとって本当に必要な人材を、その渦の中に失わないことだぞ。

 俺も張昭ちょうしょう殿には相当睨まれていたが、ことあるごとにそれを周瑜しゅうゆ殿に庇っていただいていた。だから陸遜くらい、俺が庇ってやらねばな」


 呂蒙が思わず笑いかけたが、聞こえて来た足音にそっちを向く。


「まあ有り難いって言うべきなんだろうが、でもあんまりこれ以上は下手に庇わない方がいいと思うぜ」


甘寧かんねい


「意外だな。お前からそんな言葉を聞くとは」

 魯粛が興味深そうに顎をしゃくっている。

 どこか面白そうな声音に聞こえたのか、甘寧の方が苦笑した。


「不満が出始めているのは事実だ。しかも事実を話せてない。

 陸遜が戻る見立てが無い以上、庇えばお前らの立場が悪くなる。

 それはあいつも望まないだろう」


「俺の立場はどうでもいいのだ。あ、いや、魯粛どのは大切なお立場だが……」

「はっはっは!」

 魯粛が笑っている。


「まあ確かに、朱然が食いついて来たのは悪い兆しだな。

 見ただろうあの暑苦しい真っ直ぐな眼差しを。

 さすが引退した朱治しゅち殿の置き土産。五月蝿そうな奴だ」


 言いながらも愉快そうな魯粛である。

 呂蒙は魯粛のこういう面を、最近知った。

 以前は夜、周瑜と碁を指しながら何かを話しているような場面には出くわすことがあって、あの周瑜とじっくりが話が出来るとはさぞや博識の御仁なんだろうな、くらいに思っていたのだが、副官として側で働くようになって周瑜が何故、魯粛を気に入っていたか分かるようになった。


 この人も、こういう時に笑える人なのだ。



【苦しい時ほど笑え】



 これは孫策そんさくならず、彼の父である孫文台そんぶんだいの幼い頃からの教えなのだそうだ。

 孫家の家訓と言ってもいい。

 孫策と兄弟のように暮らしていたという周瑜もまた、きちんとこれを遵守している。

 

 魯粛ろしゅく江東こうとう平定時代から孫策と周瑜に重用された人物だ。

 だな、とこちらも死線でも笑える甘興覇かんこうはが苦笑する。


「それに俺も、他人にやたら庇われる陸遜りくそんはあんまり見たくねえ。

 あいつは本来庇われたりしなくても自分で何とかして来る奴だからな。

 だからまあ、ほどほどでいいぞ」


 甘寧がのんびりと歩き出し、去っていく。


「あれをどう思う。子明しめい

「本心では、あるでしょうな。

 ただ甘寧はよく我慢していますよ」

淩統りょうとうの方が心配か」

 思わず呂蒙が魯粛の方を見ると、彼はまた吹き出した。


子敬しけいどの! 笑いごとではないのですから……からかわないでください!」


「最近大人しくなったと聞いていたが、淩操りょうそう殿の一人息子もさすがに気が強いな。

 あのまま机に飛び乗って朱然と殴り合いを始めたらどうしようかと思った」


「……淩統の方が事実、陸遜のことは堪えていますよ。

 あいつは父親のことで陸遜に恩義がある。

 陸遜が悪く言われる今の状況は内心穏やかではないでしょうな」


 ふむ、と魯粛は頷いた。


建業けんぎょうに置いておくのは得策ではないか」


 呂蒙はそこまで言ったつもりはないが、魯粛はそう呟いた。


「どうだ。呂蒙。お前が江陵こうりょうに戻る時、淩公績りょうこうせきを副官に連れて行くというのは」

淩統りょうとうをですか?」


 淩統は規律を重んじ厳格な所もあるが忍耐強く真面目なので、今は建業で新兵の修練を任されている。

 

「後進を育てるのが上手いからな。新兵修練を任せていたが、あいつの父親である淩操殿は前線部隊を率いられる勇猛果敢な武将でおられた。

 俺はいずれ淩統には一軍を預けたい。

 だが朱然の挑発に乗ってカッカするようではまだまだ……。

 お前の側で、軍の在り方を学ばせたいが」


「私も、淩統には軍を率いる才があると思います。

 戦場では覇気を見せるし、並の武将が恐れ躊躇うような場面でもそれならば自分が、と引き受けるような豪気さもある。戦場の兵にも慕われると思いますし。

 ただ軍の在り方を学ぶというのなら、魯粛殿のお側にいた方が良い学びが出来るのでは……」


「俺は嫌だ。あんな背の高い奴が側に張り付いていては、折角の俺の長身から来る威厳が目立たなくなる」

 子供のような主張をされ、呂蒙は目を丸くした。

「それにあいつは淩操殿に顔が似てる。側にいると公蓮こうれん殿を思い出して緊張するからヤダ。」


「ヤダ……と言われますと……こっちとしてもなんとも言えませんが……」


 魯粛がくっく、と笑っている。

 呂蒙はハッとした。


魯粛ろしゅく殿! だから、からかわんでくださいと……!」

「あははは! 許せ、呂蒙。肩の凝る地位に抜擢されてから、めっきり楽しみがお前をからかうことだけになったから、止められんでな」


「まったく……魯粛殿は冗談かどうかが判別しにくいのですよ」


「戦場では敵の策略を見抜いて味方を勝利で導かねばならんのに、魯子敬ろしけいの冗談くらい見抜けなくてどうする」

 魯粛はおどけて歩き出した。

「周瑜殿にもこういうおふざけをよく?」

公瑾こうきん殿にはせん。やったら百倍にして返されるからな」

 これには呂蒙が声を出して笑った。

「魯粛殿お帰りですか? それでは、お送りいたします」

「いや。これから寄るところがある」

 魯粛は振り返った。


小喬しょうきょう殿に会って、無事にお子が生まれたお祝いを述べてから江陵こうりょうに戻りたくてな」


 彼は小さく笑うとそのまま歩き出した。


 周瑜しゅうゆ夫人である小喬はつい二週間ほど前に子供を生んだ。

 にとってその存在を重んじられた周瑜の子供なので、方々から祝いの品が邸宅に送り届けられているという。

 呂蒙も勿論、報せを受けて真っ先に祝いの品を送った。


「あの……!」


 声をかけるともう一度魯粛が離れた所で振り返る。

「魯粛殿、ご迷惑でなければ私も一緒に訪ねてもよろしいでしょうか」

 魯粛は数度瞬きをした後、ニッ、と笑う。


「泣かないならいいぞ。今日の主役はあくまでも周瑜殿の御子と小喬殿だ。

 お二人に気を遣わせるような奴は連れて行かん」


 呂蒙りょもうは表情を明るくした。


「ありがとうございます!」


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