東京異界十三番通りの境界ルール

黒羽ユイ

第一章 記録者たちの継承

【プロローグ  名を失くす夜】

夜の気配がゆっくりと街を包み込もうとしていた頃、桂木仁は、静かに車を降りた。

足元に伸びるのは、舗装もされず草の間から石が覗く細道。その先に、今では誰にも見向きもされぬ、苔むした鳥居が立っている。かつて小さな祠があったこの場所も、今や再開発の看板が四方を囲み、地図からも、記憶からも消えかけていた。


だが――

桂木にとって、ここは特別だった。

二十年にわたり、記録を重ね、見守り続けてきた「接続点」。

異界との境界を、この手で何度も結び直してきた場所だ。


 詠月区画、第七十二番。

 異界との接触は五回。裂け目の確認は三度。封印の術式は、最新のものに更新済――


通常なら、次の巡回まではしばらく間があるはずだった。

だが、今回は事情が違う。


「……名を呼ばれた、のか」


老眼鏡越しに覗いた記録簿の一角に、見慣れぬ文字が踊っていた。

それは、どこか歪んだ筆跡で、こう記されていたのだ。


『夢にて名を呼ばれし者、翌朝より所在不明』


記録に記されたのは、近隣に住む少年――小学生の男の子だった。

普段であれば、夢の話など記録に残すことはない。

だが、問題はその「夢」が、一人ではなかったという点にある。

複数の人間が、同じ内容の夢を見たとすれば、それは裂け目の“兆し”だ。


「……やはり、動き出しているか」


桂木はゆっくりとしゃがみ込み、祠の跡地に手をついた。

土の温度は生ぬるく、指先にじんわりと痺れのような感覚が走る。

その微細な変化を、彼の身体は確かに感じ取っていた。


――ここはもう、境界の“こちら”ではない。


記録者としての本能がそう告げていた。


彼は慎重に、封印札のひとつ――名守札を取り出した。

小さな木札に、自身の名をしたため、かつての祠の跡にそっと差し込む。


「……まだ、こちら側に戻せる」


だが、札はすんなりと土に沈んではいかなかった。

まるで異界そのものが、それを拒んでいるかのように。


桂木は肩で息を整え、手帳を取り出すと、確かな筆跡で次のように記していく。


《裂け目、夢を介して拡大中。

 “名を呼ばれる”ことで接触が始まる。

 封印、長期維持困難。次回以降、後継者を検討すべし――》


書き終える直前、不意に背後から音がした。

それは足音のようだったが、土でもアスファルトでもない、乾いた、何か別の音。

この場所に、誰かが踏み入れるはずはない。


「……返事を、してはならない」


小さく呟く声は、自分自身への戒めでもあった。


ゆっくりと立ち上がったその背に、ふと、長い影が重なるのを彼は感じた。

振り返ることはしなかった。それは、記録者の鉄則――決して“応えぬこと”。


彼はそのまま、影に背を向けて歩き出した。


―――


数日後、桂木仁は都内の病院で静かに息を引き取った。

死因は交通事故による頭部外傷とされたが、現場に車の痕跡も、凶器のようなものも発見されなかった。

事故とは名ばかりの“何か”に呑まれたのではないか――関係者の間で、密かにそんな噂も囁かれた。


そして、その日を境に、詠月区画では再びこんな噂が浮かび上がるようになる。

「夢に迷い込んだ人が、帰ってこないらしい」と。


まるで、それがかつて封じられていた“何か”の、呼び声であるかのように――


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