第5話 やばい……好き……
玄関で靴を脱ぐとき、あたしは自然とそれをきちんと揃えていた。いつもなら適当に揃えて置いちゃうのに、今日に限って妙に几帳面だ。
これから好きな人の家に上がる。きっと、そんな大きな一歩を踏み出す気持ちがそうさせてくれた。
そうして真奈美ちゃんのあとをついて進むと、とたんに背筋がぴんと伸びた。
だって、前を歩いてるのがセーラー服の真奈美ちゃんなんだ……。
揺れる黒髪とチラチラ見える首元。細くてまっすぐな脚。そのひとつひとつが目に入るたびに意識をかき乱してきて、なんかもう……歩くたびに心臓がうるさい。
「そ、そういえば、真理佳の部屋ってどこなの?」
意識を反らそうと話をふると、真奈美ちゃんはピタリと足を止めてこっちを振り返った。
「宮ノ森さん、その前にちゃんと手を洗ってくださいね。洗面所はそこです」
「……あ、はいっ」
びっくりして、思わず声が裏返りそうになった。
今、「宮ノ森さん」って言った……! 名前呼ばれた……! ついに覚えられた!! なんか、ちょっと優しいトーンだった気がする……! うぉぉぉぉぉぉ……!!
……なんて、思考が一瞬爆発しそうになる。
だけど、すぐに冷や水を浴びせるような気づきがきた。
いや、待って。"手洗って"って、これ……注意じゃん!? 「手を洗ってください」ってそうだよね!? つまりあたし、病人の部屋に上がり込もうっていうのに、手すら洗わずにのこのこ行こうとしてたってことで――やば、最低だ……! しかも中学生に言われた……なんかもう……めっちゃ恥ずかしい!
「お、お借りしまーす……」
小さく頭を下げて、言われた通りに洗面所へ向かう。
扉を開けると、そこは広くて整った空間だった。洗面台は白くて、縁ひとつ汚れていない。鏡はピカピカで、思わず映った自分の顔を二度見する。
(わっ……浮かれてるなこの顔……)
頬が赤いのは多分、さっきからテンパりすぎのせい。目元も熱っぽい。冷静なフリして、全然冷静じゃないのがよくわかる。
ふと視線を落とすと、歯ブラシスタンドらしきコップの中に、ピンクと水色の歯ブラシが並んでいた。
(これ……どっちかが真奈美ちゃんのだったり……? ……って、なに見てるんだあたしはーっ!!! バカ! 変態! 歯ブラシ見てときめくな!)
「はぁぁ……ダメ、ほんと落ち着け」
顔を横にぶんぶん振って、気持ちを切り替えるためにハンドソープのポンプを思い切りプッシュする。泡がもこもこって出てきて、手のひらに広がっていく。泡の感触に集中して、指の間、手の甲、爪の隙間まで丁寧にこすり合わせる。
(落ち着け……落ち着け……真奈美ちゃんの前で変な動きしたら終わりだぞ……)
そうやって自分に言い聞かせていた、まさにそのときだった。
「失礼します」
「っっっっ!!!」
小さくて、でもよく通る声がすぐ横からして、あたしの手が一瞬止まった。
横を見れば、すぐそこ――本当に肩が触れるか触れないかの距離に、真奈美ちゃんがいた。鏡を見れば、あたしと真奈美ちゃんが並んで立っていた。
(ええええ!? なんで!? ここ、ふたり入るスペースあった!?)
視界の端に入る横顔。白くてなめらかな頬。長いまつ毛が影を落として、鼻筋がすっと通ってて、ほんの少しのほくろが、やけに印象的。
その近さに頭がクラクラして、呼吸が浅くなる。
……そして、ふわっと甘い香りが鼻をかすめた。
シャンプー? 柔軟剤? それとも真奈美ちゃん自身の香り? なにこの匂い……やばい……好き……こんなの冷静でいられるわけがない!
続けて指先が視界に入る。真奈美ちゃんの細くて長い指が、泡をふんわりとなじませている。
……きれい……繊細……ってやめろってば! でも見ちゃうじゃん! だって目の前なんだもん! あああああ好きすぎるぅぅぅ……!!
「あの……流さないんですか?」
「へ? あ、あっ、わあああっ、ご、ごめんっ!!」
真奈美ちゃんの不思議そうな顔に我に返って、泡をあわてて洗い流す。
そうして手を洗い終えたあたしは、洗面所の横に掛けられていたタオルを「借ります」と小さくつぶやいて手を拭いた。タオルは柔らかくて、ふわふわしていて、ほのかに石鹸の匂いがした。それだけで、また心がざわつく。
(このタオル……真奈美ちゃんのお気に入りだったり……? いやいやいや! だからそういうの考えるなってば!)
顔を一度手で覆って、深呼吸する。今度こそ気持ちを落ち着けて洗面所から出ようとした――その瞬間。
「あ、お姉ちゃんの部屋がどこか知らないんですよね?」
「う、うん。この前来たのが初めてだったから……」
正直に答えると、真奈美ちゃんは微笑んで言った。
「階段を上がって左がお姉ちゃんで、右が私の部屋です。プレートがかかってるので間違えないと思いますけど」
(プレート!? それってもしかして……名前書いてるやつ!? 真奈美ちゃんの名前が!? 筆記体っぽいやつとか、可愛いフォントとか、ハートとかついてるやつかも!)
「ありがとっ!」
パニック寸前の脳みそを無理やり押さえ込みながら、なんとか言葉を絞って頭をぺこっと下げた。
心臓の鼓動がまた早まる。顔が熱い。頭もくらくらする。
ヤバいヤバいヤバい!! この空気、やばすぎる!! このままだとあたし、本当に変なこと言い出しそう! 早くこの空間から離れないと……でも、でも……!
(もう一回、名前呼ばれたい……)
そう思ってたら、心の中の天使と悪魔が壮絶な口論を始めてた。
(由宇、冷静になりなさい。今は真理佳のお見舞いに来たんでしょう?)
(ダメだよ由宇、この千載一遇のチャンスを掴まないと!)
(真奈美ちゃんは由宇のこと、宮浦だと思っていたんですよ?)
(それでもちゃんと宮ノ森さんって呼んでくれたじゃん! 今が攻め時! 当たって砕けちゃえ!)
(砕けてどうするんですか! だいたい――――)
ああもう、うるさい!
言い合いをする天使と悪魔を頭の隅に追いやって、あたしは軽く小走り気味に階段を上り始めた。
(よし、右が真奈美ちゃんの部屋♪ 右が真奈美ちゃんの部屋♪)
いざというときに間違えないために、必死に念仏みたいに頭の中で繰り返す。というか無意識に見に行きそうだから、先に抑制をかけておく必要があった。
階段を上りきると、両側に並ぶ二つのドアが視界に入った。
そこで、あたしは自然と右側に足を運んで、ドアノブに手をかけ――――
「……いやいやいやまてまてまて!!」
危なかった……! 今、普通に真奈美ちゃんの部屋に入るとこだった! 左って聞いたのに、脳内で「右が真奈美ちゃんの部屋」しか再生されてなかったせいだ……!
バカかあたしは……いや、バカだった……。
右側のドアには、可愛らしいデザインのドアプレートが掛かっていた。小さなハートが散らばったピンクの枠に、淡い青の文字で「真奈美」と書かれている。
(うわぁ……本当に名前入ってる……)
見ただけで、胸がぎゅっとなった。ドアの向こうにある彼女の世界を想像するだけで、頬が熱くなる。
「いつか入りたいなぁ……」
つい小さく漏れてしまった独り言にハッとして、慌てて首をぶんぶん振った。
(なに言ってんの!? そう簡単に入れるわけないでしょ! バカバカバカ!)
頭の中で自分を全力で叱る。おかげで少し正気を取り戻せた。
左のドアの前に立てば、こっちも小さなプレートが掛かっている。「真理佳」と書かれた、ポップで明るい字体。なんとなく真理佳らしい雰囲気を感じる。
気を取り直して、そっとノックするように声をかけた。
「真理佳? あたしだけど、入るねー」
ドアノブをゆっくりと回して、静かに扉を押し開けた。
あたしの初恋は、思いがけない形でまた一歩進んでしまった――そんな気がした。
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