第2話 あたしは、完全に恋に落ちていた

※初回二話分公開しています、ご注意ください。

――――――――――――――――――――――――



「あ、ごめん真奈美。イヤホン学校に持って行ってたわ」

「もう……それ私のだからね? 次からはちゃんと返してね?」


 そんな会話を交わしながら、真理佳はカバンからイヤホンを取り出して、妹の真奈美ちゃんに手渡していた。

 

 それを受け取った真奈美ちゃんは、ゆっくりとリビングのドアへと向かう。そしてドアの前でふと振り返ると、あたしに軽く会釈して――そのまますぅっと消えていった。


「……」


 何も言葉が出なかった。ぽかんと口を開けたまま、あたしはそのドアがゆっくり閉まるのを茫然と眺めていた。


 あの完璧な礼儀正しさ。あの透明感のある声。ポニーテールの揺れ。あどけないけど芯のある目。そして最後に向けられた、あの一瞬の視線。


 もうだめだ。完敗だ。初恋って、こんなふうに人の心を簡単に奪うんだ……。


 ぼーっとしたまま机の上の湯呑みに手を伸ばして、ほうじ茶を口に含んだ。


 ――あれ? なんか甘い?


 ほんのりと香ばしく、でもそれ以上に、喉の奥に残る甘さが妙に強い。まるで砂糖でも入ってるみたいな――いや、違う。これはお茶の味じゃない。


 たぶん、これが「恋の味」ってやつだ。……うわ、なに考えてんだあたし。甘ったるいにもほどがある。


「どう? 妹の真奈美、かわいいでしょ?」


 突然、横から真理佳の声がして、現実に引き戻された。


「……うん。真理佳の妹とは思えないくらい」


「あん? どういう意味だこら」


 そう言いながら、真理佳はあたしの頭をぐりぐりと押さえつけてくる。


 ……変だ。いつもなら「ちょ、やめろってば!」って騒いで止めるところなのに、今日は痛みを感じない。というか、抵抗する気力すら湧かない。


 それだけ、あたしの意識は別の場所――ドアの向こうにいる真奈美ちゃんに奪われてしまっていた。


 真理佳はしばらくぐりぐりしてきたあと、無抵抗のあたしがつまらなかったのか、手を離して隣に座ってきた。


「……どしたの由宇。世界がひっくり返ったみたいな顔してるけど?」


「うん……今まさにひっくり返ってるところ」


「え、なに、実は世界崩壊してんの?」


「うん……してる」


「私を巻き込むなよ?」


 真理佳のツッコミも、今日はどこか遠くに感じる。頭の中が真奈美ちゃんのことでいっぱいで、それ以外の音が霞んで聞こえるような感じだ。


 ――ほんと、どうしよう。


「……ごめん。あたし、もう帰るね」


「えっ? まだ来て五分くらいじゃん。マジで体調でも悪い?」


「悪いっていうか……なんかこう、ぐわんぐわんしてる」


「え、それ二日酔いじゃないの?」


「未成年だから……ダメだよ、それは……」


「うわ、ツッコミのキレが死んでる……こりゃ重症だ」


 重症……まさにそれ。たぶん、「初恋」っていうウイルスに、ばっちり感染したんだ。


 そんなあたしを、真理佳はちょっと困ったような、でも心配そうな顔で見つめていた。口調は軽いけど、本当にあたしのことを気にかけてくれてるんだってわかる。


 だからこそ言えなかった。言えるわけがなかった。あたしが恋に落ちた相手が、あんたの妹だなんて。


「途中まで送ろっか?」


「ううん……大丈夫、ありがと。また明日ね」


 真理佳は頷いて、玄関までは来てくれて、ドアを開けてくれた。


 外の空気は、少しだけ冷たかった。春先の空気がゆるやかに動く中で、あたしは両手を握りしめて、下を向いて歩きながら思った。


 ――なんで、あんな子があたしの世界に現れたんだろう。なんで、こんなに胸が苦しくなるんだろう。


 こんなにドキドキするのなんて、人生で初めてだった。



 ◇



 帰宅したあたしは、玄関を開けるなり靴を脱ぎ捨て、リビングのほうから聞こえてきた「おかえり」というお母さんの声に反応することもなく、そのまま階段を駆け上がった。


 部屋のドアを開けて、すぐにベッドへダイブする。枕をぎゅっと抱きしめて、顔をうずめて、心の中に溜まりに溜まった思いを、思い切り吐き出した。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」


 本気で叫んだ。

 胸の奥が燃えるみたいに熱くて、もどかしくて、どうしたらいいのかわからなくて。そんな感情が全部、喉を突き抜けて音になって飛び出した。


「なんでこうなったぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 叫んだところで、誰かが答えてくれるわけじゃない。でも、言わずにはいられなかった。心の中に湧いたこの気持ちを、黙っていられるはずがなかった。


 同性があたしの恋愛対象になるなんて思ってもみなかった。女の子にときめいたことなんて、今まで一度もなかったのに。


 でも、今日あの子に出会って、目が合って、心臓が跳ねて、頭が真っ白になったあの瞬間――――


 あたしは、完全に恋に落ちていた。


「……っ、でも……でもなぁ……!」


 枕を抱きしめたまま、今度はじたばたと手足を動かす。布団を蹴って、枕に顔を押しつけて、叫びそうになるのを必死で飲み込んで――そのうち、身体中の力が抜けて、へなへなとベッドの上で溶けたみたいに崩れ落ちた。


 だって……相手は真理佳の妹。つまり年下、しかも中学生。


 そう、あたしとどうこうなることは絶対にない存在。高三と高一ならありえるかもしれないけど、現実は高一と中二。それにそもそも同性だし、恋愛的には見向きもされない可能性が圧倒的に高い。


「はぁ……なにやってんだろ……」


 一回深呼吸して、目を閉じて、現実逃避でもするように思考を遠ざけてみる。


 でも無理だった。頭の中には、あの黒髪のポニーテールと、あの透き通るような声と、最後に向けられたあの目が、ずっとずっと、何回も何回も再生される。


「いやいや……きっと気の迷いだよ……!」


 うん、きっとそう。あまりに可愛かったからちょっとドキッとしただけ。そういうのってあるじゃん。芸能人見て「可愛い!」ってなるみたいな、ああいう一時的な憧れ、ね?


 オーケー、落ち着いて絶対ありえないシチュエーションを考えてみよう。たとえば、あの子があたしの名前を呼んでキスしようとしてきたとして――


『由宇さん』


 ――――!!!!!


『キス……しませんか?』


「っ……だめ、だめだってばぁあああああ!! あぅぅぅぅ!!」


 反射的に枕を叩いた。

 顔が熱い。耳まで真っ赤になってるのがわかる。こんなにも心臓がバクバクしてるのなんて、生まれて初めてかもしれない。


「あー……あたし、ほんとに真奈美ちゃんのこと好きなんだ……」


 その言葉を口にした瞬間、なんだか胸がぎゅっと締めつけられた。


「……でもさ……たぶん、叶わないよね……」


 真奈美ちゃんは、きっと男子が好きだ。明るくて、優しくて、部活でモテそうな、そんな同級生の男子。もしかしたら、もう付き合ってる人だっているかもしれない。


 ――やだやだやだやだやだ!! なんで知らない男子に嫉妬してるのあたしは!!

 存在するかどうかも分からない相手に勝手にイライラするなんて、めちゃくちゃダサいんだけど!!!


 頭を抱えて、ベッドの上で転がる。そして、また枕に顔を埋めて、声にならない声をこぼす。


「……ぅぁー……」


 ため息がやけに重かった。そして、一番苦しい現実が胸にのしかかってくる。


 真理佳にバレたらどうしよう……って。


 親友のあたしが、自分の妹に恋してるって知ったらどんな顔するんだろう。引く? 怒る? 笑って応援してくれる? わからない、わかるわけがない。


 だから、今はまだ言えない。


「……このまま失恋しちゃうのかな……あたし」


 ぼんやりと天井を見つめながら、そんなことを呟いた。


 恋ってこんなに切なくて、どうしようもなくて、頭がおかしくなりそうになるものなの? 夢に見てたのは、もっとキラキラしてて、甘くて、可愛いものだったはずなのに――。


 逃げるように目を閉じれば、真奈美ちゃんの笑顔が浮かぶんだ。


 それが苦しくて、でも――どうしようもなく嬉しかった。

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