第32話 田の水に映る影
「やっと……やっと完成した……!」
稲夫は鍬を地面に置き、目の前の光景を眺める。
田んぼが、ようやく形を成した。
泥はまだ硬く、土の粒も粗い。現代の基準で見れば決して理想的な田ではない。
だが、この世界では――これでも上等と言えるだろう。
稲夫は取水口から水を引き入れる。
細い水の流れが水路を通り、やがて田を満たし春の温かな光を湛える。風が止まり、鏡のような水面に空と稲夫が映り込んだ。
ふと、水面の中の自分と目が合った。
(痩せたな……)
思えば、この村に来てから自分の食事はいつも他人優先だった。
腹をすかせた未成年の前で、満腹になるまで食べる気になれず、いつも半分以上を押しつけるように分けてきた。当然痩せる。
しかし、水面に映る自分の姿は、以前よりも生き生きとしていた。
あの廃業を決めた日、抜け殻のように虚ろだった自分より――今の方が遥かに活力が満ちている。
「やっぱり俺、稲作が好きなんだな」
目を閉じ、これからの光景を思い浮かべる。
稲を本田に植え、大きく育ち、穂がつき、黄金色に染まる。
その光景を思い浮かべるだけで、自然と温かい気持ちになれた。
「稲夫様っ!」
突然声をかけられる。声に振り向くと、こちらにタケルが駆けてくる。
その表情には焦りが滲んでいた。
「どうした?そんなに慌てて」
「調教していた狼が、縄を噛みちぎって逃げました」
「なんだって!?」
温かい気持ちで満たされていた心は一瞬で冷える。
あの狼はおとなしく、暴れたりすることはなかった。
だが、脱走した今、村人を傷つけるかもしれない――その不安が、じわじわと恐怖に変わっていく。
「安全のため、稲夫様は拠点に戻ってください。狼は、俺が始末します」
「始末って……いくらなんでも急じゃ……」
稲夫は言葉を詰まらせた。
危険なのは分かる。だが、あの狼はロウにとって家族のような存在だ。
危険かもしれないという理由で殺してしまうのは、ロウが余りにも可哀想だ。
「俺の力不足で調教できなかった。その責任を取らねばいけません」
タケルはそう言いと、矛を握りしめる。その声には決意がこもっていた。
その時――正面の藪ががさりと揺れた。
二人は同時に身構える。
——ガサガサと藪が音を立てて揺れる。
やがて、脱走していた灰色の狼が姿を現した。
首には噛み千切られたと思われる縄がぶら下がり、口には、別の狼の死骸が咥えられている。
咥えられた狼の首は不自然な角度に折れ、毛並みは血で赤黒く染まっていた。
「っ……!」
タケルは矛を構える。
狼は稲夫達にゆっくりと近づく。
そして、口に加えた血塗れの狼を地面に置くと、何事もなかったように腹を地につけて休み始めた。
——沈黙。
ただ、湿った土と血の匂いだけが漂っていた。
「……えーと、タケル。これは、どういう状況なんだ?」
稲夫は沈黙に耐えかねて問うと、タケルは矛を下ろしながら答えた。
「……おそらく、縄張りに入った別の狼を狩ったのでしょう」
「つまり……縄張りを守った?」
「はい。ですが――」
タケルは苦い顔をする。
「この狼は……賢すぎる。人の命令より、自分の判断を優先するような個体です。そういう獣は、いずれ誰の手にも負えなくなる」
「でも、危険を察知して、敵を排除してくれた。俺たちを守ってくれたんじゃないか?」
「そうかもしれません。しかし、指示に従わぬ獣は、いつこちらに牙を向けるかわかりません。危険なのです」
稲夫は泥の上にしゃがみ、狼を見つめた。
灰の毛並みが陽光を浴びて淡く輝き、その眼差しは静かで、どこか誇り高い。
「そうだろうけどさ……この狼は今まで誰も傷つけてない。それに、結果的に俺達を守ってくれた」
頭では分かっている。村を背負う立場として、危険な獣を放っておくのは間違いだと。
しかし、あの狼を殺してしまえば、ロウはどれほど悲しむだろう。
せめて、もう一度だけ。どうにかして“仲間”として共に生きられないか。
「だから、もう少しだけ様子を見てくれないか?」
稲夫の声は穏やかだった。
タケルは迷いを見せたが、やがて深く息を吐いて頷いた。
「……分かりました。もう少しだけ、調教を続けてみます」
「ありがとう、タケル」
稲夫が微笑むと、狼がこちらを一瞥した。
どこか誇らしげな目だった。
稲夫はその様子を見て、ふと思い出す。
「そういえば、この狼に名前をつけてなかったな」
「名前、ですか?猟犬に名前など不要では?」
「え、名前つけないのか?流石に野生の狼と区別するためにも、呼び名くらいは必要だろう」
稲夫は顎に手を当てて考え込む。
(縄張りを守って、仲間を危険から遠ざける……火のような存在……)
稲夫の頭に、ひとつの考えが浮かんだ。
「この狼は、いち早く外敵に反応してくれた。俺たちにとっては、狼煙のような存在になるかもしれない」
稲夫は地面に指で“狼煙”の字を描いた。
「そして、火のように危険を遠ざけてくれた」
続いて“火”の字を描く。
「この二つを合わせて――“狼火”。オウカって言うのはどうだ?」
狼がぴくりと耳を動かし、稲夫を見つめた。
「決まりだな。お前の名前はオウカだ」
「ヴォン!」
その名を呼ぶと、まるで応えるかのように狼――オウカは低く鳴いた。
その光景を見て、タケルは驚きに目を見開いた。
「今まで何を言っても無反応だったのに。名前を呼んだ途端、反応した?」
「え、そうだったのか?なら、名前で呼べば言うことを聞いてくれるかもしれないな」
稲夫は、ほんの少し胸が弾んだ。
ここまで苦労した狼が、もし名前で応えるなら——それは、信頼の証だ。
「オウカ、来い」
タケルの声に、稲夫も思わず息をのむ。
オウカは顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
(え、マジで反応した!?)
心臓がどくりと鳴る。
オウカはタケルの方へ、まっすぐ歩いていく。
「おお……本当に効果あった……!」
稲夫が感嘆の声を漏らす。
ゆっくり、ゆっくりと狼はタケルに近づく。
そして——そのままタケルの横を通り過ぎた。
オウカはそのまま歩みを進め、いつもの縄を繋いでいた木の下へ戻る。そこで腹を地につけ、毛繕いを始めた。
「……稲夫様。あの駄犬に知性などありません。猟犬は諦めましょう」
「タケル……本当に苦労をかけて申し訳ないと思うんだけど、そこを何とか頼むよ……」
こめかみに青筋を立てていたタケルは大きく息を吸い、深いため息をついた。
「……承知しました」
稲夫は安堵の息を漏らし、田んぼに目を落とす。
田の水には、稲夫とタケル。そして木陰に座るオウカの姿が映っていた。
形は違えど、どちらもこの村を支える命がそこにあった。
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