Chapter-02 

 私がロジェの背中に跨れるのは残り僅かだ。

 六月の末──春のグランプリ、宝塚記念。


 そこがロジェールマーニュのラストランとなる。ロジェはずっと思うように速度が出ない自分自身の体に憤りを感じていて、最近は随分苛立っていた。

 そのせいかここのところ成績が低迷しており、勝てるレースで勝利を取りこぼしている。阪神大賞典も──天皇賞・春も、勝てたレースだった。

 私がもっとロジェに寄り添っていれば勝てたレースだった。

 その確信は後悔となって、錆のように私の身にへばりついている。


 もっとロジェの思いを汲み取れていたら。

 私がもっと──巧い騎手であったら。


 馬装を済ませているロジェの顔を優しく撫でる。目を細めて喜ぶロジェは、猫のように大きな体を私に寄せて「もっと」となでなでを要求する。

 撫でてやりながら、ふと頭に過るものがあった。

 私のせいでロジェを栄光から遠ざけてしまったではないか──という、根拠のない不安。

 今日は乗り運動だけのメニューが組まれている。私はロジェの背中へ体を乗せて、厩舎の前をぐるりと一周歩かせた。

 特におかしい所はない。軽症だったのがよかったか、脚の状態は良くも悪くも変化してはいなかった、と国美さんには聞いている。実際歩様はおかしくないし、普段通りにしっかりと地面を捉えて歩けている。


(私の仕事は、ロジェのラストランを無事に終わらせ、故郷へ無事に戻すこと)


 宝塚記念の勝ち負けにはこだわらない。それは以前から国美厩舎の中で話し合われ、神代さんとも共有されていることだった。


 重要なのは、ロジェールマーニュという名馬の血を次代へつなぐこと。

 無事に競走馬としての馬生を終わらせ、故郷へ帰すこと。

 私は騎手だ。馬が誇れる騎手になりたい──そう思ってきたけれどそれだけでは駄目だった。


 足りないものがある。

 志と、技術と、あとひとつ。


「私は……」

(……? 后子?)


 不思議そうにロジェは私の方へ首をぐい、と回して気にする。なんでもあれへんよ、と首筋をぽんぽんと叩いてやり前を向かせた。だが片方の耳はずっとこちらを向いているので器用に私を気にしているらしい。


「私は…………」

(后子)

「ロジェ?」


 ロジェは地面を左前脚でざり、ざりと引っ掻く。地面に一筋の線がうっすらと描かれた。私はその様子をぼんやりと眺めながらロジェの首筋を撫でてやる。


(何を憂いているの)

「心配してくれてるんやね。ありがとう」

(僕がもう、あの頃のように走れないから気を揉ませているのはわかっている。僕は、もう)

「ごめん、ロジェ。私、もっと頑張るさかい、もうちょっとだけ付き合ってや」


 私は言う。それは私の願いだった。


「────宝塚記念が、最後やから」


 あまりにも身勝手で、ロジェの心を置き去りにした私の夢だった。

 ロジェールマーニュは十分頑張ってくれた。もう頑張らなくてもいいぐらいに頑張って走ってくれた。私の激に応えて只管に走り、先頭を駆け抜けた。

 相棒を名乗るなら「もう頑張らなくてもええんよ」ぐらい言えたらよかった。

 私はロジェの首筋を撫でながら思う。


 それでも私はロジェールマーニュという馬に夢を見た。ロジェールマーニュは、シャルルが最初に見せてくれた夢の景色を見せてくれた。

 だから何度でも夢を見てしまう。またあの速度で駆け抜けることを。


 風よりも速く──音よりも軽く、そして全てを置き去りにしていく。


 そういう圧倒的な速度を持った、正しく〝理想のサラブレッド〟だった。

 逃げて良し、追い込んで良し。何でもできる。どんな馬場でも速度は落ちない。そして何より、どんな戦法をとっても最速の末脚を伸ばす。



『后子』

「へ?」

『勝つよ、后子』



 私の耳を叩く、声がある。ついに幻聴が、とか考えたが、その声は間違いなく私の耳を叩いていた。鼓膜を揺らし、内耳へ音を伝達していた。



『勝つよ、后子。──君の夢だというのなら、僕がそれになってみせる』



 ✤



 一枠一番。最内枠が与えられたが、阪神開催最終週とあって内側は所々芝が剥げている。といってもロジェはそこまで枠は関係ない。積極的にハナを取りに行った方がいいやろなぁ、と思いながら私は己の足で芝を踏んだ。足の裏に伝わる感触で馬場のクッション性や固さを確認しつつ、どのように競馬を行うかを考える。


 逃げるか否か。

 私は最初、逃げずに中団から差す形で戦うことを想定して考えていた。


 最終追い切りのタイムが、突如ベストを超えるまでの間は。


 競馬は科学だ──というのは私の師匠の言葉だが、科学では推し量れないものもある。

 ロジェは最後まで私にそれを教えてくれる。


 全体時計──六ハロンが八三秒四。ラスト一ハロンが一〇秒一。

 これが今までのロジェの自己最高タイムだ。

 しかし木曜日の追い切りでは、六ハロンが八十三秒二、ラストが一〇秒丁度。ロジェは己の限界をこじ開けるような走りを見せ、ついに自己ベストをこのラストラン直前というタイミングで更新した。


 ラストランでの復活。

 あまりにも出来過ぎたドラマの実現を、誰もが待ち望んでいた。

 それは鞍上で手綱を取る、私の願いでもある。



「『そしてみんなの愛馬になった』か……」

「キタクニシローのポスターか?」


 同じように馬場状態を確認しに来た瀬川迅一が問う。私はのんびりと、私の瞳と似たような色の空を見て答えた。


「そうそう。あれ考えた人天才やわ」

「今年の頭にフジサワコネクトのポスターができたんだけど、キャッチが『繋』の一文字だけ。しかも字の感じもさ、凄い達筆で。洒落てるよな」

「何でフジサワコネクトのポスターがあってロジェールマーニュのポスターがあれへんねん」

「俺に言われてもなぁ……」


 雲一つない青空が広がっている。私は音が響く地下通路を抜けて来た道を戻る。ありがたいことに今日は、第十レース以外最終レースまで騎乗依頼が入っていた。私は背筋を伸ばして無造作に解いていた髪の毛を右手に付けていたゴムで括る。

 引退式が行われるかどうかはわからない。なくてもロジェールマーニュの功績は誰もが知るところだ。誰もの心に蹄跡を遺した名馬。〝紳士〟と謳われる漆黒の名馬。それが、ロジェールマーニュという馬だ。私は控室の時計を見ながらぼんやりと今までの出来事を思い返した。

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