Chapter-02 光へ(2)
イギリスへ遠征するのは俺だけではない。欧州からも乗ってほしいと期待される騎手──武内秀吉も一緒だ。秀吉さんが乗る馬は欧州の馬だが、日本人が一緒にいるというだけで安心感が段違いになる。
俺の海外遠征の経験といえば、香港とドバイの二カ所のみ。欧州はまだその地を踏んだことがなく、経験不足もいいところだった。本来ならば欧州に自分一人で修行に向かい力をつけてからフジサワコネクトに乗る、というのがいいのだろうが、今そんな事を言ってもどうにもならない。
白綾だってぶっつけ本番でアスコットゴールドカップに挑んだ。俺と彼女の条件は同じだ。だからこそ尚のこと勝利が欲しい。白綾とロジェールマーニュが一歩手前で攫われ辿り着けなかったその栄光を手中に収めたくて仕方がない。
「迅一。大丈夫か? 顔やばいぞ。すげえ険しい」
「……いえ、問題ないです。体調もいいですし」
「そ? まぁそうならいいんだけど。あんま無茶すんなよ」
秀吉さんは俺の背中を叩いて出国ゲートへのんびり向かっていく。妙に古臭いキャリーケースには無理やり補修したのか、『無事是名馬』とマッキーで書かれたガムテープが貼られていた。
誰もがなりたい騎手像があり、描く目標がある。
だがそんな大層なものは俺にはない。
どうしてそんなにも一途に己の思う姿へ近づくために必死になれるのか。
その答えに辿り着くために、俺は勝たなければならない。フジサワコネクトと一緒に俺は、俺が求めるものを手に入れるために全ての馬を蹴散らす。それが今の俺がすべきことだ。
だがその答えを得たとして、俺はここから先の歩みに何を見据えていけばいいんだろう。燃え上がる嫉妬心や羨望を混ぜて、燃料にして。それが枯渇したら、次は。
俺はどうあっても──白綾のようにはなれないのに。
「迅一! 早く来い、飛行機くんぞ!」
「……っ、はい」
秀吉さんが俺を呼ぶ。慌ててキャリーケースを転がし、俺は秀吉さんの方へ駆け寄った。頭の奥で白綾の声が反響する。
『ちゃんと勝て。……私らも、勝つんやから』という白綾の声が鼓膜を揺らす。
その声に眩暈を覚えながら一歩踏み出す。流れてくる空気に打たれ、俺は手荷物だけを持って飛行機内へ向かった。意味ありげに投げられる秀吉さんからの視線が俺に突き刺さっている。
日本からイギリスまでは大体十二時間程度のフライトだ。横で珍妙な柄のアイマスクを装着して爆睡している秀吉さんは、時折寒そうに俺が膝にかけていた毛布まで奪い取ってくる。
確かに機内はかなりエアコンが効いているし、俺も何となく肌寒い。捲っていたシャツの袖を下ろし、俺はスマートフォンの画面に視線を遣った。
機内にWi-Fiが飛んでいるので過去のレース映像も視放題。とにかくアスコット競馬場でよくあるレースの展開や勝ち筋をできるだけ頭に叩き込んでいく。
欧州は日本と芝の質も違い、序盤の展開から日本とかなり差がある。差し馬を前に行かせスタミナを削ったり、逃げ馬が追い込みのような動きをしたり──。
そういった意味では、アスコットゴールドカップでの白綾とロジェールマーニュの戦い方は欧州における正攻法なのかもしれない。
ロジェールマーニュの持つ武器を存分に生かした戦い方をしても、欧州が誇る名牝──スワンレイクリターンズには僅かに届かなかった。
自在の脚質と生まれ持ったスピード。そしてその加速力を生み出す化け物じみた強靭な心肺機能。
だがその一方で、レース直後は大した変化はないもののじわじわと彼を激闘の疲労が蝕む。体重が落ち続けているので長期放牧に出してリフレッシュさせる、という話はトレセン内でも随分広まっていた。
それぐらいに彼の道行には、多くの人々が目を光らせている。
そしてその視線は白綾にも強く向けられている。
(三十四年ぶりに、牝馬のダービー馬が誕生したのに──)
フジサワコネクトは運が良かっただけ、運の良い馬が勝つというダービーで偶然を勝ち取っただけ──。雑音が俺の耳を何度も叩いた。コネクトの能力は間違いなくロジェールマーニュをも凌ぐ。だが、それを世間は認めない。
ロジェールマーニュができることは、フジサワコネクトにもできる。
間違いなく互角の勝負ができる。いや、コネクトは牡馬相手でもずっと互角以上の勝負をしてきた。
コネクトにも備わる自在脚質。一番得意な追い込み走法では、芝を抉るほどのすさまじいパワーで最後方から馬郡をごぼう抜きして見せる。
あの瞬発力とスピードはずっと乗っている俺でも驚くものがある。
そんなことを考えていれば、突如隣から弱弱しい声が聞こえて来た。
「迅一ぃ……毛布……くれ……寒い……」
「風邪ひいたんじゃないですか?」
「なんか俺に冷房直撃してんだよ。風口どこからなのか全くわからん」
「……ちょっと待ってください、風向き変えるので」
俺は立ち上がって荷物入れの真下にくっ付いているエアコンの口を全部閉じた。機内全体が程よい温度に保たれているので、座席のエアコンが無くても特段困らない。秀吉さんは「さんきゅ」と言って再び眠り始めた。俺も寝よう──そう思い、座席の後ろには誰もいないのでできる限り座席を倒して目を閉じる。
ぼんやりと瞼に浮かぶのは追いつけなかったロジェールマーニュと白綾后子の遥かな背中だった。
けれど、今度は超えていかなければならない。スワンレイクリターンズを超えて、ロジェールマーニュを超えて。フジサワコネクトが本当に強い馬だと証明しなくては。それが主戦騎手の責任だ。
「俺さ、ちょっと勘違いしてたかもだわ」
秀吉さんは事もなげにそう言った。
イギリスの地を踏んで数刻後、アスコット競馬場近くにあるホテル。そのホテル内にあるカフェスペースで向かいに座る。俺はホットチョコレートを飲みながら「勘違い、ですか?」と問いかけた。
「逆なんだな。お前、后子ちゃんが羨ましくて仕方ないんだろ」
「急ですね。……仮にそうだとしても」
「仮にィ? ハァ。超えたい背中があるのはいい事だけどよ、度が過ぎると大変なことになんぞ。特にお前、自分の意志でこの世界に入ってきたわけじゃないからな」
秀吉さんはそんなことを言って、マグカップにお湯を注いで紅茶を飲み始めた。俺はぼんやりと彼の顔を見ながら残っていたマグカップの中身を胃へ流し込む。
「俺はさぁ、お前の親父さん……優作さんに憧れてこの世界に入った。でも俺が騎手としてデビューした年に、あの人は落馬事故で騎手辞めちまった。迅一、あの時いくつだっけ?」
「生まれていません。父が騎手だったことは記録でしか知らないので」
俺は受け応える。俺が知る父の姿は、車椅子に座り穏やかに笑っている姿だけだ。騎手だったことは殆ど知らない。母も騎手だった。同期で結婚したとだけ聞いている。
「うわ、年齢感じる……ってそんなことはどうでもいいんだよ。優作さんが、目指してきた背中がいきなり消えて──騎手として誰を指標にすりゃいいのか、あの時は本気で途方に暮れた」
「それは……」
「まあ、億が一にも今のとこねえだろうがよ、后子ちゃんが騎手やめちまったら──お前その時どうすんだよ」
説教くさくて悪いなぁ、と秀吉さんは言った。俺はいえ、事実ですから、と答える。
どうあっても白綾のように、一途に理想の姿へ突き進めるような性格ではないことは知っている。何もかも真逆なのに、同じになれるわけがない。
理解してはいる。納得もしている。だが、俺はまだその光へ手を伸ばしていた。
「何でもいいんだよ。迅一、お前は周囲の人たちにそうあれ、って望まれてここにいる。だからどんなにくだらない理由でもいい。何か一つでも、お前が譲れないものがあるなら」
そう言い残し秀吉さんは自室へ帰って行った。静まり返った空間に俺だけが残される。俺が吐き出すため息の音だけが響いた。
明日になれば、もう本番。ゲートが開いて走り始めれば、もうあとには引けない。勝つ──それ以外の選択肢が用意されていない戦場へ、俺とコネクトは足を踏み入れることになる。
秀吉さんが跨る馬も侮れない。前走のフランス二〇〇〇ギニーで快勝している牡馬だ。
そんな有力馬たちの中でも一番警戒すべき相手は、欧州が誇る歴史的名牝スワンレイクリターンズ。
彼女の強さは既にアスコットゴールドカップで証明されている。
(子供っぽい理由でも、いいんだろうか)
ぱっと思いつくのはそれだった。不世出の天才と呼ばれた瀬川優作の息子だからと期待され、その期待に応えることだけをしてきた。それを選択したのは自分自身だ。だがそれでも一言でいいから、たった一言かけて欲しい言葉のために、騎手を続ける。
そんな自分勝手で子供っぽい理由でも、いいんだろうか。
そんなどうしようもない理由でも。
「海外GⅠ……勝ったら、さすがに……誰か…………」
ぽつりと誰もいない空間に俺の日本語が解けていく。今頃白綾は何をしているだろうか。
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