Chapter-05 忘れ得ぬひと

 明後日がこの国を出ていく期日だ。僕は疲れて動きたくないので、だらしがないことこの上ないが──横になったまま后子が差し出してくれる梨を齧った。

 隣のナヴィアヴェラは、先日のアスコットゴールドカップで走るのを途中から完全に諦めていたらしい。

 そんなことから元気が有り余っているようで、飼い葉を食べては馬房をうろつき先ほどからひとりで遊んでいた。時折様子を見にやって来る渚がニコニコしながらナヴィアヴェラと遊んでやっている。


 しゃり、しゃり、と自分の口の中から梨を咀嚼する音が聞こえる。

 ぼーっとしている后子は、どこか悲しそうに僕の顔を見つめていた。流石にだらしなさ過ぎただろうか、と思って首を起こし、顔を后子の方に寄せた。


「……ん? どないしたん? まだいる?」


 差し出された梨を再び齧る。流石にアスコットゴールドカップの翌日なので、后子も疲れているのだろうと僕は解釈した。


 本当に激戦だった。

 ハナ差三センチという単語を繰り返し言う国美と渚が示すように、一着とほぼ同着である事は間違いない。だがそれでも負けは負けだ。次走は秋──天皇賞・秋。そこでは恐らく再びフジサワコネクトと激突することになる。


 このアスコットと同じような負けを喫する事はない。

 后子はぼーっとしたまま虚空を見つめている。流石に心配になってきたので、僕は彼女の手に鼻を乗せて自己主張してみる。それでもどこかぼんやりしているので、僕は首を動かして彼女の体に頭を乗せた。


「うお。どないした?」

(こっちの台詞だよ、それ)

「……ロジェ、心配してくれてんの?」


 后子は一瞬だけどこか泣きそうな表情を浮かべて僕の額を撫で始めた。柔らかい指先が僕の顔を撫でる。一定のリズムで撫でられるのが心地よくて、僕は数回瞼を動かした。


「……二十年ぶりかなぁ。……久々にお母さんに会ってん。最初は、誰かわからんかった」

(母親に……?)


 僕は耳を立てて傾聴する。后子は僕を撫でながら複雑な感情が入り乱れた声音で続ける。


「小さいころに別れてそれっきりやった。顔も朧げにしか覚えてへんし、思い出したいとも思わんかった。……どうでもええ思ってた。せやのに」


 言わんとすることはぼんやりと理解できた。后子は母親に捨てられたと思っているのだろう。だが、実際は違ったのかもしれない。そんな風に考えている。複雑な心持だろうという事は容易に理解できた。

 普段の后子からは考えられないほどに苦し気な表情を浮かべている。言いたいことがたくさんあったのだろう。話したいことや、問いただしたいことも。きっと多くあったのだと思う。


 ヒト同士の問題には、僕は何もできない。

 人間の心は僕らより複雑にできていて、僕らは人間のように言葉を操ることはできない。

 きっとこういう時、后子の傍に彼女の求める言葉を話せるヒトがいたならば、もっと違うはずだ。


 僕は言葉を返せない。

 簡潔な意思を伝えるすべは持っていても、彼女の欲しい言葉をかけることができない。



(……どうすれば)


 心から困惑していた。彼女の思いはわかる。だが何もできない。何も言えない。

 わかっても、何も返せない。

 もぞもぞ足を動かして、僕は態勢を少し変えた。じっと彼女を見つめながら后子が何か言うのを待つ。


「ごめん、ロジェ。……困らせてしもたね」

(后子──)

「でも大丈夫。私は大丈夫。……だってこんなに寄り添ってくれる仔がおる。言葉が無くてもわかる」

(……でも、何も返せないんだ)

「優しい仔。寄り添ってくれて、背中に乗せてくれて……私の思いを汲み取ってくれる。そんだけでもう、私は十分や。ロジェ」


 そういって優しく撫でられ、額になにか温かいモノが触れた。口付けられたと気づいたのは少し経ってからだ。僕は首を伸ばして后子の体を巻き込むように引き込む。そのまま図々しく彼女の太腿の上に首を乗せた。笑いながら后子は僕の鬣を指で梳く。

 いつも通りの笑顔に戻った后子は、再びどこからともなく梨を取り出した。それをだらけたまま齧って、僕はまた后子に擦り寄った。



 ✤



 同刻── 日本



 ロンドンで白綾后子とロジェールマーニュが遊んでいるころ、栗東市は夕方の七時を回っていた。全休日の月曜といえど、俺──瀬川迅一に休みという概念はないに等しい。今日もテレビ番組の収録に駆り出され、ようやく帰路についたところだった。


 栗東トレセンへ向かうタクシーの中でスマートフォンを確認し、検索エンジンに「アスコットゴールドカップ」の文字を打ち込んでみる。競馬新聞は挙って『ロジェールマーニュ ハナ差三センチで敗れる』と報道していた。だがその悔しさは実際にテレビでゴールドカップを見ていた俺たちも、戦った白綾も経験済みで最早大したことではない。

 現在話題になっているのはロジェールマーニュがあの欧州の怪物的強さの名牝──スワンレイクリターンズを敗北寸前まで追い詰めた、という功績だった。


 スワンレイクリターンズは現在四歳。ロジェールマーニュ、フジサワコネクトと同世代である。


 そして次走が既にキングジョージ六世&クイーンエリザベスステークスと明言されており、同レースに出走するフジサワコネクトと激突する。

 俺は同時にゴールへ飛び込んだスワンレイクリターンズとロジェールマーニュの姿を思い返していた。二十分近い審議を経てつけられた決着。七戦七勝となったスワンレイクリターンズ。そのスワンレイクリターンズを追い詰めたロジェールマーニュ。


 そして──そのロジェールマーニュに、日本ダービーで勝利したフジサワコネクト。


 ならばスワンレイクリターンズにも勝てる。そう思いながらスマートフォンに映るスワンレイクリターンズの口取り写真を睨んだ。だが、一つの懸念が頭に浮かぶ。


 フジサワコネクトに振り落とされた昨年末の有馬記念。

 もう知らない、嫌い、そんな声が聞こえる気がしたあの後ろ姿。

 天皇賞・春ではなんとかいう事を聞いてくれたものの、フジサワコネクトの背中から伝わる俺への嫌悪感は嫌というほどに伝わっていた。


 腑抜けた騎乗をしたら許さん、と怒った白綾からの付箋を思い返す。馬を見ていなさすぎる、己の実力に胡坐をかいていると叫んだ彼女の声を再び聞く。



(俺はお前のように──お互いに思いを通わせて、強くなるわけじゃない)


(なら、どないすんの?)


 脳裏で白綾后子の声が響く。

 競馬学校の制服姿の后子がこちらを見ている。今のように笑うことはなく、常にどこか冷めた表情で俺たちを見ていた。理由はわからない。


 いや、わかっている。わかった上で目を逸らしてきた。


(どうしたいんだろうな、俺は。……流されてきたままだよ)


 そんなことを彼女に言えばスリッパで引っ叩かれる気がする、と俺は思った。だが今はそれ以外の言葉が出てこないのも事実。延々フジサワコネクトとの距離感や自分のあり方に思い悩んでいる。


 このままで本当に勝てるのか。どうすればいいんだ、と何度も自分自身に問いかけるが一向に答えは見つからないままだった。だが答えはすぐそばに転がっているはずなのに、掴めたと思ったら砂のようにすり抜けていく。

 フジサワコネクトと共にキングジョージで勝てば、その答えに辿り着けるのか。俺は焦燥感に駆られてアスコットゴールドカップの記事を再び読み返した。スクロールしていけば、下の方に二着に入線した白綾后子のコメントが載っている。


 曰く、


『気づいたら横にスワンレイクリターンズがいました。でも最後までどっちが勝ったかは、わからなかった。写真判定で漸くです。ロジェールマーニュはよく頑張ってくれていました。敗北の原因は私の技量不足です』と。



「……そうか」


 ぽつりとタクシーの中で独り言つ。運転手がその声を拾い、少し不思議そうに瀬川へ視線を遣った。

 俺はぼんやりと──勝つために必要な『何か』の輪郭を捉え始めていた。

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