Chapter-02 アスコットゴールドカップ(1)
──アスコットゴールドカップ前日 夕刻
土砂降りの雨がイギリスを覆っていた。
滝のような雨が地面に叩きつけ、パッと止んだかと思えば今度は静かにしとしとと地面を濡らすような雨が延々降り続いている。
アスコット競馬場もその雨には抗えず、芝はどんどん雨を吸い込んで馬場状態が悪化していた。
私は死んだ魚のような目で渚ちゃん、国美さんとロジェールマーニュ、ナヴィアヴェラが滞在する厩舎から共に外を見つめていた。
音を立てて雨が滑り落ち、厩舎の入り口には大きな泥濘が形成されている。
「……ただでさえ重い欧州の芝が」
「さらに重馬場に……」
国美さんと渚ちゃんが絶望感漂う言葉を吐いた。
前言撤回や。運もいる。運を実力でひっくり返すにはある程度条件を整えなあかん。
この土砂降りの雨よ。いやどないなってんねん。どんだけここ一番で大雨降らしたら気が済むねん私は。しかも調教やってる間はずっと晴れてたさかい、ほんまにここ何時間かの間に降ってきた雨やからな。ほんまどないなってんねん。
「~~~~どないなってんねん!!」
頭抱えて私は呻く。大雨の欧州競馬は途端にドイツ馬が強くなるというのは有名で、今回のアスコットゴールドカップにも二頭が出走を予定している。この馬場やったら直前に回避をする馬も出てくるやろなぁ、と私は思いながら寝藁を齧っているロジェに目を向けた。
そんな事は些事だとでも言うような落ち着きぶりは見ていて安心するが、四〇〇〇メートルという長丁場のレースをこの重馬場で? 何かあったらどないすんねん。怖いくらい調子がいいらしいロジェは、顔を上げてじっと私を見た。その様子を見ていた隣の馬房のナヴィアヴェラも顔を出してこちらを気にする。
「ロジェ、ナヴィ……ごめんな、私が雨女なばっかりに…………」
ナヴィアヴェラは何言ってんだこいつ、と言いたげな顔をして馬房に引っ込んでいった。そしてすぐに寝始める。
図太いなほんま、と思っていればロジェは私の方へ顔を寄せ、私が着ているジャージの上着を少しだけ噛んで引っ張った。かまえ、ということらしい。
特段駄目だと言っても機嫌を損ねることはないのだが、甘えられたら構ってやりたくなる。私は両手でロジェの顔を撫でまわしながら考えた。
欧州という全く日本と異なる環境で、これほどの高パフォーマンスを発揮するロジェ。
ロジェと一緒に行動し、帯同馬としての役割を十二分に果たすナヴィアヴェラ。
そんな馬たちが挑むゴールドカップという大舞台で、私がすべきことは唯一つだ。重馬場だろうが私の全力を以ってすべての馬を蹴散らす。それぐらいの気持ちで挑む。
いや、勝つ。
私がここにいるのは単なる挑戦者としてではない。日本代表としてロジェールマーニュは送り出され、様々な人たちから「ロジェールマーニュ = 白綾后子」と思われ、期待されているからこそ。
応えなければならない。プレッシャーは大いにある。
四〇〇〇メートル近い長距離で私自身の体力が先に尽きないかという懸念もある。
それでもやはり私の心は間違いなく燃えている。
私は勝ちたい。その思いに嘘をつくことはできない。
(勝つよ、后子。──僕は君を乗せて、地の果てまででも駆け抜けてみせる)
そんな声が、聞こえた気がした。
✤
地面の芝は深く、踏み込むたびにずしりと重い。日本の芝と全く違う感触に僕は驚きながら地面を踏んだ。前日に降った雨が地面に吸収されて水分を含んでいる。それのせいでさらに重たくなるのだと思う。
調教で走っただだっ広い場所はここまで重たくはなかった。思うように速度が出ないのがわかる。后子は僕が芝の感触に驚いている事には気づいているようで、鞍上で「大丈夫や」と声を掛けた。
日本のように十数頭で競う訳ではなく、このアスコットゴールドカップは僅か七頭で競われる。僕は内側の二枠、背負う番号は三番。
帯同場として一緒に出走してくれるナヴィアヴェラは三枠五番と一つ離れている。係員に導かれて僕はゲートの中へ足を踏み入れる。すぐにすべての馬が収まり、ゲートが開いた。
後ろ脚で芝を蹴って推進力を生み出し、僕はゲートから飛び出す。后子は比較的芝が綺麗な外側の進路を選択するために手綱を引き、僕は従って後ろへ下がった。外側の後方に位置取ってスタミナを温存しつつ前を狙う──という戦法へ切り替える。
后子には僕が驚いたのを感じ取られているのだろう。確かに調教で走った芝と競馬場の芝の質がこんなに違って、足元の違和感が凄まじいというのは想像外だった。
(……確かに、これはキツイものがあるな)
国美によると、僕は本来追い込みやら差しの脚らしい。だが余りにも脚が速すぎて逃げる形になっているというだけで──実際の走りは、序盤後方から中盤にロングスパートをかけて前へ進出していくということらしかった。
僕の隣で少し前を走るナヴィアヴェラも僕同様にこの馬場に苦戦を強いられているようで、本来の先行といかず位置取りが後ろになっている。結果的に僕と伴走するような形で走っているが、ペースを崩すことなく落ち着いて走れているとは思う。
欧州勢にはここまで無敗の牝馬──スワンレイクリターンズや英国ステイヤーレース三冠をかけて挑む強豪などの顔ぶれがそろっている。
彼らも僕たち日本勢がいることには特段警戒はしていないように見えるが、僕がロングスパートをかけて上がろうとすれば確実に前をふさぎに来るだろう。何時でも他の馬は外に持ち出せる位置にいるわけだし、馬場の綺麗な場所を選択して走りたいというのは誰もが同じことを考えている。
しかもこのアスコット競馬場は日本に比べて上り坂がかなりきつい上、最初は直線を走りきったところで一つ目のコーナーへ突入する。そしてその一つ目のコーナーまでの距離が凄まじく長い。
前を引っ張っている馬は馬郡から一頭分ほど抜けて走っており、僕は馬郡の後方からそのすべてを伺った。この展開は日本ダービーの時と同じだ。あの時はぼんやりしていて出遅れたが、結果的には二着まで持って行けた。ただスピードが乗りきらずトップスピードに入れなかったのが悔やまれる。
だが、この四〇〇〇メートル近いレースであれば。徐々に進出し一気にスピードを上げて前も狙える。幸い脚の感覚は最初こそ違和感があったものの、だいぶ走って慣れてきた。深く踏み込むよりも細かく足を動かせば、ずしりとかかる重さを軽減することができる。特段今のところ后子から飛んでくる指示もないので、僕は今の位置を維持したままスタンド前を駆け抜けた。
ナヴィアヴェラは無理、きつい、と文句を言いながらも僕に伴走する形で内側を走る。一つ目のコーナーを視界でとらえ、前の馬が通過し始めたのを合図に后子は手綱を軽く前へ動かした。僕は銜に伝わる感覚を合図に少しずつ位置を内に入れる。ここら辺から馬郡が縦長になり始め空隙が生まれるからだ。長距離レースはそういう風になることが多いらしく、内側のほぼ真横にいるのはナヴィアヴェラだけになっている。この時点でも先頭の馬はまだ先頭をキープし、ある程度のリードを保ってはいるものの三番手四番手につける馬たちが虎視眈々と前を狙っている。
「これは、キッツいなぁ……」
ぼそり、と誰にも聞こえないような声で吐かれた、后子の珍しい弱音は僕の耳を確実に拾う。僕の前に開いた内側の馬場に后子は、僕を誘導しできる限り短い距離を走らせようと試みた。僕は指示に従ってさらに内ラチ側へ入り脚を転がす。
完全に馬郡がちぎれている現状であれば、徐々にスパートをかけていきつつ前を狙うことも可能ではある。しかし先ほど走った一コーナーまでの直線と比べて、今走っているこの場所の方が脚に伝わる感触が重いのが気がかりだった。
縦長の中団まで僕とナヴィアヴェラは移動して第二コーナーへ向かう。少し上り坂になっているようで、僕は坂を上りながら前にいる馬たちへ近寄る。ナヴィアヴェラもそれについていく形で走り、第二コーナーを視界でとらえた。
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