第六章 Only for Her Majesty
Chapter-01 遠き黒の黎明
『うるっっっさいねんどいつもこいつも!! ────皐月賞はロジェールマーニュが勝つ!! いいから黙って走れやこのドテカボチャ!! バーカバーカ!! ハゲ!!』
そんな罵声を瀬川に浴びせて、私はロジェールマーニュと共に皐月賞へ向かった。
そしてロジェールマーニュは私の手綱に従って応え、直向に走って逃げて後続を突き放し皐月賞を楽勝した。
ダービーでは出遅れが響き二着となったが、菊花賞では本来の走りを見せてフジサワコネクトを下し一着。差されても差し返す力を持って、最強を証明して見せた。
最も速く、最も強い馬。
それがロジェールマーニュという馬だ。私が憧れた青毛のシャルル。その憧れが遺した血脈に生きる馬。
私は今憧れの遺した背にいる。それがどれほど幸運なことか。どれほど幸福なことか。
何もかもから逃げ出そうとした昔の私の横っ面、引っぱたいて聞かせてやりたい。
アスコットゴールドカップまで残り一週間。
私は早めに日本を出国し──人生で初めてイギリスへ足を踏み入れた。
自分の道具を持って、ロジェが待つ厩舎地区へ向かう。
国美さんの話によると全く動じておらず体重増減なし、と聞いているので、相当調子はいいのだろう。ロジェはかなりマイペースで自分の世界があるタイプやから安心できる。帯同馬のナヴィアヴェラも随分リラックスしているようで、ずっと青草を食べていると聞いていた。
特別な馬たちだ。私に往くべき道を作ったロジェールマーニュ。そして無敗のままダービーに挑んだナヴィアヴェラとこんな形で再び一緒に走ろうとは。アスコット競馬場の厩舎地区で、既に準備を完了させている二頭が私の足音で顔をこちらへ向けた。
ナヴィアヴェラに跨るのは現地の騎手。私は騎手──リンデンに挨拶を済ませ、ロジェに近づいて首筋を軽く撫でる。
顔を寄せて擦り寄るのは今までと同じで、変わらないことに安堵した。もしかしたらさすがのロジェでも、知らない場所ではストレスがかかって苛立っているかもしれないという私の考えは杞憂に終わった。
「待たせてごめんな、ロジェ。行こうか」
そう声を掛けてやれば顔を上げ、私からすっと離れる。
驚いた顔のリンデンはナヴィアヴェラの鞍上で「マジか」と声を上げた。馬が私の声を聞き行動したように見えたからだろう。事実、ロジェは人の言葉を十分に理解し、心情を察しているのではないかと思うような行動をすることがある。
私は渚ちゃんに手伝ってもらってロジェの背に跨り、先を歩いていくナヴィアヴェラの後をついて行った。
優しい子。黙って背に乗せてくれるだけでも十分に優しい。私は今まで乗ってきた馬の中で、これ程に優しく──強い馬を他に知らない。
「……ロジェ、ありがとう。ここまで連れてきてくれて。私はもう、ロジェの誇りを地に落とすような真似はせん。必ず……〝紳士〟の名にふさわしい勝利へのエスコートを約束する」
(──……后子。……でも、君をエスコートするのは僕の仕事だと思うけど?)
「ふふ。なぁ、今ちょっと笑った? どっちでもええねん。男女同権の世なんやから」
(そうだね。じゃあ──それでいこう)
珍しくロジェは嘶いた。普段は全く鳴かないので本当に珍しい。私の言葉に反応するようなタイミングで嘶くので、横を歩くナヴィアヴェラと鞍上のリンデンがまた目を丸くする。馬と喋ってるのか、とでも言いたげな視線を投げてくるので、私は微笑むにとどめた。
ホームの栗東、調整で立ち寄った美浦──そして本番のイギリス。馬は繊細な生き物だ。輸送で最大十キロ近く体重が減ることもある。だがそんな変化する環境の中で、体重の増減が一切ないロジェ。その背中は天皇賞・春の時よりさらに柔らかく柳のようなしなやかさを兼ね備え、尚且つ走りはのびやかで力強い。短期間で急激に成長しているのが跨っただけでわかる。
どうなってんねんこれ、こんな馬知らんがな。
まるで自分で、自分の体を強制的に──どこにさらに力をつけるべきか知っていて、それを反映させているような──
広いコースに入って、先にナヴィアヴェラが軽く走り始めロジェもそれを追いかける。どんどん速度を上げながら真っ直ぐに走るナヴィアヴェラも、ダービーの時より遥かに成長してはいる──が、ロジェは簡単にそれをあっさりと抜き去った。凄まじい風圧と速度が私の身体に叩きつけられ、慌てて私は体を折り畳み太腿に力を込めて手綱を握る。
(凄い──)
他の言葉が見つからなかった。私はそれを心に留め置いたまま、走り続けるロジェの背中に乗っかっていた。鞍上にいるだけを意識して必死にならなければ速度に振り切られそうになる馬は、きっとロジェールマーニュだけ。
(ロジェ、本当に凄い馬や……)
何て速いのだろう。ナヴィアヴェラの足音が全く聞こえない。併せ馬が併せ馬にならない。そんな経験は初めてだった。引っ掛かって最高速度以上の速度を出している訳ではない。単に、本来持っている脚の速さが──積んでいるエンジンの火力が他の馬とはやはり桁違いということだ。
向こう側まで行って、手綱を引いて速度を落とさせる。ロジェは指示に従ってゆっくり速度を落として常歩に切り替え、ポカンと口を開けているリンデンとナヴィアヴェラの元まで側道を通って戻る。
「──レディ白綾、一体この馬どんな怪物なんだよ!」
実に楽しそうにリンデンは笑った。ロジェの顔を撫でながら「一体どこまで行っちまうんだ?」と声を掛ける。私も首筋を数度ぽんぽんと叩いてやりながら考えた。本当にどこまで行ってしまうのだろう。驚くほどに強い馬だ。諦めがつくほどに速い馬だ。あと一つ、運さえあればすべてが揃う。
運は多分、お互い出逢った時点で使い切っている。でもそんなことはどうでもよかった。運なんてなくても私は終生の相棒に出逢えた時点で幸運で、そういう要素は実力でひっくり返せると確信していた。
──この時までは。
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