第三部 褪色、花散りて──なお

第五章 三冠馬の遺伝子

Chapter-01 その先へ

 四月。桜が咲き誇る季節。そして春のGⅠ連続開催。

 大いに競馬が盛り上がる季節だ。

 天皇賞・春まで残り一か月となった。私は自室の床に片手をつき、腕立てをゆっくりとしながら、己の騎乗について今一度考える。


 馬の肉体に溶け込むような騎乗をし、極限まで無駄な動きを減らすことを心掛けてきた。


 京都競馬場で開催される、天皇賞・春──芝三二〇〇メートル。国内最長距離GⅠ。


 ロジェにとっても私にとっても未知の距離。今までのように逃げさせてくれるとは到底思えない。

 何せ異母兄のラヴウィズミーがおるわけやし。

 しかも彼は天皇賞・春を二連覇中で、今年は三連覇がかかっている。既に『兄弟対決』というふうに煽られているだけでなく、あのシャルルを勝利へ導いた柳沢俊一騎手がラヴウィズミーの鞍上。注目されるには十分すぎる材料がそろった舞台になるだろう。


 昨年クラシックで目覚ましい活躍をしたロジェ、そのロジェに迫りダービーを掻っ攫った芦毛の牝馬フジサワコネクト、そして連覇中のロジェの異母兄ラヴウィズミー。とんでもねえ豪華メンツのそろい踏みである。

 ……私大丈夫やろかいな。ロジェはいい意味でマイペースやから、相手が何であれ泰然自若としているはず。

 けど鞍上の私といったら古馬の戦場には今まで足を踏み入れたことあれへんし、ぶっちゃけ経験不足も経験不足。

 いやここで腰引けてたらあかん。あと一か月しかあらへんのに迷ってる場合とちゃう。



「っしゃあ気合いやボケェ!! 騎手は度胸!! 馬も度胸!! ゲートが開いたらルパンよろしく一目散に逃げる!! 以上!!」



 誰もいない自室に向かってシャワールームから叫び、下着姿のままキッチンに入って冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。

 そのまま風を切って飲み干せば、ふとちゃぶ台の上に置かれていたスマホの通知が目に入った。LINEではなく電話番号経由のメッセージ。発信者は『おやじ』。『春天がんばれ。観に行く』の文字が画面に表示されていた。



「……言われんでも頑張るわ。アホ」



 なんとなく気合いが充填された気がした。スマホの画面を消して、私は荷物をバッグへ放り込んでいく。今年は忙しいのだ。春天だけじゃなく桜花賞やらもある。無論二度目の皐月賞も。あの日抱いた誓いを果たすために、私は今日も馬に乗る。


〝馬が誇れる騎手としての矜持〟

〝誰もこの馬の前を走ることは罷りならん〟


 まずは明日の一戦をきっちりこなす。天皇賞のことを考えるのはその後でええ。私はそう思い、スマホの電源を切った。




 ✤




「ほんまにすいませんでした……」


 シワシワでくしゃくしゃの犬みたいな顔をして、馬装を片付けた私は馬主さんに謝罪する。渾身の九十度お辞儀をしたまま死んだ魚のような目で床を見つめた。本日のメインレース・桜花賞は十六着に馬を沈めてしもうて。騎手負傷の乗り替わりと言えどこれは酷いで。

 しかも踏み出して三歩目で掛かりだして走る獅子舞みたいなことになってたし柳沢さんの乗ってる馬に体当たりかますし最悪や。うっ……馬のつぶらな瞳から向けられる視線が痛い……。


 しかもこの牝馬GⅠ阪神ジュベナイルフィリーズ二着だっただけにダメージがえげつない。なおジュベナイルFは私の騎乗ではなく先輩ジョッキーの騎乗だったのだがそれも申し訳なかった。そのまま先輩が乗ってたら勝ってたかもわからんでこれ。

 もういやや。遺書書いたる。


 あ~~もうわかる、もうわかるで今後の展開。絶対掲示板で「白綾負けてんじゃねえか」「やっぱロジェールマーニュに勝たせてもらってんのか」とか「負け確健在で草」「マジで去年の皐月賞もそうやけど雨女やん」とか「不良馬場を作り出すプロフェッショナル」とか書かれんのやろ。

 見えてる。見えてんで今後の未来が。それに私ちゃんとスノーホワイトともGⅠ勝ってるやん、まぁあの子なぜか放牧先で怪我して療養中やけど……。どうしたらそうなるねん。


「いやいや、白綾騎手のせいじゃないですよ! 急な頼みだったのに……今日は馬場が重になっちゃいましたし……この子、重馬場苦手ですから……あと、距離もちょっと合わなかったみたいです」

「意地でも……オークス……勝ちますんで」

「そ、そこまで気負わなくても……」

「オークス絶対勝ちますんで!!」

「アッハイ……」


 よっぽど悔しかったんだな、そう思われているのが微妙な表情から察せられた。

 なおこの桜花賞で勝馬になったのは言わずもがな藤澤レーシングの牝馬で、驚くのはまだ早い──桜花賞馬になった牝馬はフジサワコネクトの妹である。馬体はフジサワコネクトみたいに薄いグレーではなく、全体は濃いめのグレーで右耳が白い。めちゃくちゃ珍しい、耳まで伸びる流星が顔に入っている馬だ。

 なお鞍上は瀬川迅一。めちゃくちゃ笑顔でインタビュー答えてんの死ぬほどむかつくけどまぁ……瀬川はああでないとこっちも調子が狂う。

 ……とにかく切り替えていこう。これ引きずったらあかん気がする。


 桜花賞から中一週挟んで次の大舞台は皐月賞だ。騎乗するのは新馬の時から一緒に戦ってきた牡馬だが──私にとっては二度目の皐月賞。

 ロジェのような大逃げ馬という訳ではないにせよ、最初から粘り強く前目に着けて走るのが得意な馬で、前哨戦となったGⅡは二着と好走している。その前のGⅢは一着、新馬戦も一着という成績だ。


 全てのレースが終わった後、タクシーの中で少し体を休めながら、私は自筆の馬ノートを繰った。

 通算成績は皐月賞に出る馬たちと比較してもかなりいいと思う。二月頭に行われたきさらぎ賞で皐月賞と同じ二〇〇〇メートルは経験済み。

 競馬場こそ違うがスタミナに余裕があることはきさらぎ賞の時点でわかっている。反応も悪くないし、何よりも素質がある馬。今後さらに飛躍するであろう光るものを持っている馬だ。ロジェと比較するのはあれやけど、仮にロジェと勝負することになったら迫るやろな、とは思う。



 だが──今の私は。

 私が乗る他の馬たちが〝ロジェールマーニュを超える〟という結果を全く想像できないでいた。




(……平等に、馬を見てるつもりでも……やっぱ無意識にロジェのこと贔屓してるよなぁ……)


 オレンジ色の付箋が貼られたページには、ロジェとの調教やレースを通して気づいたことが事細かにメモされている。ところどころミミズみたいな字もあるにはあるが今年や去年の秋ごろから担当になった他の馬のことも、とにかく気づきはメモするようにしているものの、どうにも量の差があるように思えてならなかった。

 考えるな感じろタイプのせいか、メモも要領を得ないものが多いが。

 なんや「坂路 ぐわ~~~~上がって だ~~~~」て。できたら苦労せん。「スタートはさっとでてびゅんて走らす。いきおい」て。長嶋さんか。


 そんなことを思いつつ栗東に帰り着いてみれば瀬川がいた。栗東所属やからおって当然なんやけど、今まで以上に自信に満ち溢れた表情で一発ぶん殴ってやりたくなる。


 だがしかし、瀬川迅一は腹立つくらい自信満々で傲慢不遜なぐらいがちょうどええ。天才ジョッキーやのは絶対に否定できひんし。


 周囲から望まれてここにいる。それが瀬川迅一だ。



「重馬場じゃなかったらお前らが勝ってたかもな」

「仮定の話は好かん。結果が全部や。……次は?」


 瀬川は自販機から出てきた冷たいお茶を私に投げ渡し、もう一度自販機を操作してスポドリを購入した。服装から察するに走り込みしていたのだろうと思う。

 瀬川は私の質問に聞くまでもないだろ、とでも言いたげな視線を向けて呟いた。


「ダービー」

「やっぱりか。私らはオークスに行く。ちゃんと勝て。……私らも、オークス勝つんやから」


 私が勝つと断言したのが意外だったのか、瀬川は目を丸くした。そう──確かに、私にとって「勝つ」と宣言することは珍しいと思う。


 勝ちたいと思うこと、勝てるという確信を掲げること。その自信や勝ちたいという意欲を拾い上げてくれたのがロジェールマーニュという馬なので、私が好戦的になったとすればそれはロジェのおかげだ。


 まぁ、こうもほぼ毎日朝から晩までレースやと体力的にも精神的にも結構しんどいけど。去年と状況が違いすぎんねん。ついて行かれへんぞ。



「その前に天皇賞・春がある。フジサワコネクトとロジェールマーニュ……五度目の直接対決だ。次こそは負けない。お前らを超えて俺たちは先に行く」

「ラヴウィズミーも忘れたらあかんで。……旧世代の伝説には負けられん。なんせロジェから見たら兄貴やしな。同じ手は二度も食らわん」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る