Chapter-05 泥中の蓮(1)
皐月賞── 一週間前 最終追い切り
皐月賞が三日前に迫った木曜日。今日は取材陣を入れての追い切りが行われる。私はロジェの背中で細かく震えながら死ぬほど緊張していた。
いやぁ取材陣がおかしいぐらいおる。めっちゃ写真撮るやん。「白綾さん目線お願いしまーす」やないねん。なぁ。自分らこないだ私が負けとったとき「全戦全敗の騎手、また黒星」とか書きくさったやろ。口にこそしなかったが、その恨み節が腹の中でぐるぐると渦巻いていた。
向こうからどよめきが起こる。ダートコースを悠々と走っていたのは『鉄骨娘』フジサワコネクト。銀色に輝く芦毛の馬体に、額に流れる流星が特徴的な馬だ。
そんなフジサワコネクトの背に乗るのは今最も注目されている騎手・瀬川迅一。私の同期であり──天才と持て囃される望まれた騎手。
「白綾!」
「げっ……」
「皐月賞、ロジェールマーニュと出るのか!? 嬉しいよ、俺お前とGⅠで戦いたかったんだ!」
おお、と記者陣が周辺で写真を撮り始める。おいコラ、私知ってんねんぞ。どこぞの新聞が「同期でもここまでの差……」とかクソみたいな煽りで私の連敗記録書いてたの知ってんやぞ。
ほんまにこの男も記者らも、と思いながら私は必死で怒りを飲み下して──
「けど同期でもここまで違うもんかね」
飲み下して────、
「確かにな。GⅠ勝率八割越えの瀬川と、全敗の白綾。何の差だよ?」
「白綾は身長がな……一八〇ぐらいあるだろ? 高すぎるんだよ」
「あ~~……それはあるな。騎乗能力はまぁ、って感じだけど……」
「ロジェールマーニュの膂力に振り落とされそうだよな」
飲み下して────、飲み下そうとして──飲み下せなかった。
「~~~~…………い」
「? ……どうした、白綾。腹痛いのか?」
「うるっっっさいねんどいつもこいつも!! 皐月賞はロジェールマーニュが勝つ!! いいから黙って走れやこのドテカボチャ!! バーカバーカ!! ハゲ!!」
私はロジェの腹を軽く足で押して走るように合図する。その合図と同時にロジェは加速しウッドチップコースを蹴り飛ばしながら背後で控えめに「えっ……ええ~~~~!? あっ、ちょっ、待てよ白綾! なぁ~~!」と叫ぶ瀬川の声を聞いたが全部無視する。
悔しかった。何度も負け続けるたびに忘れかけていた、馬を勝たせてやれないというやるせなさを突然思い出した。
もう負けたくない。あの無自覚嫌味天才騎手を、一発どついてやりたい。後ろをちらりと見れば指でグッドマークを作っている国美さんが目に入った。
騎手である私にできることは、この大逃げ馬を皐月賞で勝たせること。国美さんを、皐月賞を勝った調教師にすること。渚ちゃんに勝利の味を知ってもらうこと。
そして何より私自身の為だ。
『おい、后子』
ぶっきらぼうで滅多に笑わん私の親父が、道頓堀を飛びだした時──口元に柔い笑みを浮かべて言った。くたびれた白衣に、なぜか白衣の下はスウェットかカーキ色のツナギを着ていた。
ドクタースクラブなんざ着てるとこは見たことあれへん。ぼさぼさの髪を適当にくくって、無精髭が生えていて。横に並ぶと似ても似つかん親子やとよく言われた。
『お前……GⅠ勝つまで帰ってくんな』
負け続けている私が、苦労かけた親父に返せるものは勝利だけ。皐月を超えて、ダービー獲って、菊を制覇する。そうやって──ロジェを、最強の馬にしてみせる。
✤
現在
中山競馬場の地下馬道をロジェに跨って歩く。今日は国美さんも渚ちゃんもスーツ姿で普段とは違う印象を与えられた。特に渚ちゃんの表情が硬い。
そう、厩舎の人間は総じて若い故に空気に飲まれている。私含め。国美さんなんかロジェがGⅠに初めて出す馬やし、厩務員──
二人引きでゆったりと、微塵も緊張を感じさせない風に歩くロジェだが、流石にGⅠレースともなれば多少は気が散ってしまうようで忙しなく耳が動いている。ぴこぴこと動く耳はかわいらしくもあるがそれだけ気になるものが多い事やストレスがかかっている事も伝わってきて、私は一度息を吐き出して飲み込む。
枠番は二番。内枠が与えられた。いつも通り、私が……白綾后子が乗るから勝てないだろう、という諦め。だが実力があるからこの皐月賞という舞台に立っている。登場はもう少し後だが、このタイミングで雨が上がって太陽が照り始めたという。
「こ、后子さん!」
「ん? どないしたん?」
意を決したように渚ちゃんが馬鞍の上にいる私に話しかけた。緊張しかしてないと顔に書いてある。私は軽くヘルメットのベルトの位置を正しながら渚ちゃんの言葉を待った。
「あの……その。ロジェも。た、楽しんでき、きてくだしゃい!!」
「……うん。おおきに、渚ちゃん」
歓声が聞こえる。GⅠ独特の熱気が身体を包み、眩しい光に瞳孔が驚いて激しく収縮する。先ほどまで大荒れだったはずの天気は好転していた。雲の隙間から太陽が差し込み、なんとも言えない神々しさを放っている。
馬道の出口から坂を登って行けば、まだ雨が上がったばかりの中山競馬場の芝が目に入った。国美さんと渚ちゃんが頭絡に付けられていた二人引き用の手綱を外す。私が軽く合図を出せば、ロジェは濡れて露がまだ多く残る、泥濘んだ芝へ掛け出していった。
歓声も罵声も、今はどうだって良い。自分でも驚くほどに心が落ち着いているのがよくわかる。私は軽くロジェを歩かせて枠入りのためにゲートまで、元きた道を通って向かった。
(……始まる……始まって、しまう)
今まで落ち着いていたのが嘘のように緊張の凄まじい波が襲ってくる。
会場には皐月賞のファンファーレが鳴り響き、観客席の熱気も人馬たちの気合いも最高潮に達している。それらが遠く感じられるほど私の心音は煩かった。
次々に枠入りする馬たち。視界の端で見えた瀬川とフジサワコネクトはさすがと言うべきか驚くほど落ち着いていた。手が……小刻みに震えている。私の肉体ではないようにぎこちない動きで手綱を握り直してみたが、冷や汗が流れ落ちてさらに焦る。
(落ち着け。落ち着くんや……私の乗っとる馬はロジェールマーニュやぞ……!? この脚の速い子ぉが、負ける筈がないやん……!!)
「…………しゅ。……騎手。白綾騎手!!」
「っ!? は、はい!?」
「大丈夫ですか? ……真っ青ですよ」
「え…………」
枠入りを待っている外枠の鹿毛の馬はちらりとこちらを見て、係員に誘導されゲートへ入っていく。じっと待っていたロジェはその場を動かず、私が落ち着くのを待ってくれていたらしかった。
……馬に気を遣われとる。信じられん。騎手として恥や。
息を吐き出して首を回し、もう一度手綱を握り直す。
「すみません。大丈夫です、お願いします」
「……お気をつけて」
係員がロジェを二枠へ導いて、ゲートは閉められた。
ただ、見つめるのは先頭の景色だけ。他の事は気にせず私はロジェールマーニュの方向指示器に徹する。
集中しろ。己を研げ。
そう叱咤した瞬間、ゲートが勢いよく開いた。
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