第4話 朝に溶けていくもの

朝の空は、やけに白くて、輪郭のない光で町を包んでいた。

窓の外では、まだ湿り気の残る風が植木を揺らしている。

セミの声も、夜の名残を引きずっているかのように、どこかまばらだった。


寝苦しかった昨夜の熱が、まだ体に残っている。

けれどそれ以上に、胸の奥に張りついたままの重たい気持ちが、布団を出るのをためらわせた。


──今日、陽翔が帰ってしまう。


分かっていたことだ。

最初から、今日で終わるってことは。


なのに、今になっても心が受け入れきれていなかった。


時計の針は、朝の八時を指している。

ふと、窓の隙間から覗いた町の景色に、見慣れない車が一台。


黒くて四角い車体。

近くで人の影が動いている。

荷物を運ぶ大人たちの間に、ひときわ大きな背中があった。


陽翔だった。


胸の奥が、きゅっと音を立てて縮む。

もう行ってしまう。


わかっていたのに、それでも、どこか信じてなかった。

昨日の夜、あんなふうに笑って、話して、昔みたいに並んで歩いて──

だから、少しだけ、ほんの少しだけ、今日もあの夜の続きみたいな時間があると、そんなふうに思っていた。


気づいたときには、玄関で靴を履いていた。

何を言えばいいのかも分からないまま、僕は表に出た。


夏の朝の空気は、夜よりもいっそう澄んでいて、

草の匂いと、ほんの少し冷えた土の匂いが混じっていた。

アスファルトの上には昨夜の祭りの余韻が転がっている。


陽翔の家の前まで来たとき、彼がふっと顔を上げた。


「──あ」


目が合った。

ほんの一瞬、僕の体のなかの時間が止まった。


「おはよう、ユウちゃん」


相変わらずの声。

でも、その声が今朝は、やけに遠くに聞こえた。


「……おはよう、ハルちゃん」


口をついて出た言葉は、昨日よりも自然だった。

けれど、その響きが、自分の耳にだけ寂しく反響していた。


「来てくれて、ありがと」


「……ううん」


言葉のやりとりは簡単なのに、そのたびに心の奥がきしんだ。

陽翔の鞄には、もう手がかかっていた。

その手が、僕の知っているどんな景色よりもしっかりと未来を握っているように見えて、

僕はどこにも手を伸ばせなかった。


「昨日、めっちゃ楽しかったよ。ほんと」


「……うん。僕も」


そう言いながら、なにかが胸の奥でざわついていた。

楽しかった。それは本当だった。

でも、いちばん覚えてるのは、あの夜がもう戻ってこないってことだった。


「また、来れるといいんだけどな」


陽翔の声は明るく、笑顔も崩れていなかった。

けれどその明るさの下にあるのが、どうしようもない現実だということを、僕はちゃんと分かっていた。


だから僕は、返事の代わりに、ほんの少しだけ首を縦に振った。


「……それじゃ、行ってくる」


陽翔が最後にもう一度笑った。

それは見慣れた笑顔で、でも、もうすぐ届かなくなる笑顔でもあった。


僕は、声を出す代わりに、小さく手を振った。

陽翔も、手を振り返してくれた。


でもそれきり、もう彼は振り返らなかった。


ドアの閉まる音、エンジンの響き、動き出す車体。

それらはすべて、静かに、けれど確かに、僕から何かを剥がしていった。


角を曲がって、車が見えなくなった瞬間、風がひとつ吹いた。

それだけで、涙がこぼれた。


朝の光の中で、僕はただそこに立ち尽くした。


泣いているのかどうかも、途中で分からなくなった。

ただ、胸の奥に沈んでいく何かがあって、

それが、少しずつ形をなくして、心のどこかにゆっくりと沈んでいくのを、僕はただ感じていた。


言いたかった言葉は、いくつもあった。

けれど、どれも言葉にならなかった。


きっと、それは言っても仕方のないものばかりだった。

「行かないで」とか、「もっと一緒にいたい」とか、

そんなこと、言ってはいけないって、僕はちゃんと分かっていたから。


──もうすぐセミが鳴き出す。

町は、何事もなかったかのように、また夏の日常に戻っていく。


でも、僕だけは、あの夜を知ってしまった。


陽翔が残していったあの声も、笑いも、足音も、

全部、僕の中にまだ残っている。


それをどうするかは、今はまだ、わからない。


だけど──きっとこの先、誰にも話さなくても、

僕は今日という日を、思い出してしまうんだと思う。


何度も、何度も。

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