第11話:胎動、神の帰還、そして決着

桜の最後の抵抗により、祭壇の術式に大きく、

そして致命的な亀裂が入った。

石が砕け散る、耳をつんざくような音が響く。

その音は、まるで世界が裂けるかのようだった。

その亀裂からは、異界の神聖な力が、

滝のようにこの世界へと漏れ出し始める。

それは、この世界の理とは異なる、清らかで圧倒的な力だった。

祭壇の石壁が、微かな音を立てて震える。

壁の表面に、新たな亀裂が走り始めた。

その亀裂からは、白い光が、

まるで生命の輝きのように滲み出した。

光は、祭壇の隅々にまで広がり、闇を押し返す。

冷たい、しかし清浄な風が、桜の肌を撫でた。


鬼の家の眷属たちは、これまで経験したことのない

異質な力に触れ、混乱と恐怖の悲鳴を上げる。

彼らの肉体が、その神聖な力に触れて、

じりじりと焼かれているかのようだった。

皮膚が焦げ付くような、不快な匂いが祭壇に満ちる。

その悲鳴は、祭壇の地下深くまで響き渡り、

桜の鼓膜を震わせた。

蛟は、自身の支配が揺らぐ可能性に、

明確な苛立ちと、予期せぬ事態への深い動揺を露わにした。

彼の顔が、憎悪に歪む。

唇が、血の味を帯びる。

その瞳は、怒りで燃え盛る業火のようだった。

体中の血が、逆流するのを感じた。


異界の力が漏れ出す場所は、

呪縛の楔が最も強力な力を放つ祭壇の中心だった。

その光の中に、一人の青年の姿が浮かび上がる。

蓮自身も、なぜ自分がこの力を得たのか、

なぜこの場に現れたのか、完全には理解できていない。

神隠しに遭ったのは偶然。

幼い日の私を置いて、彼は突然、別世界へと引きずり込まれた。

その時の恐怖は、彼もまた感じていただろう。

その記憶が、彼の瞳に、かすかに宿っている。

だが、異界での長い戦いの中で、彼はその力を使いこなす術を身につけ、

そして桜の危機を本能的に察知したのだ。

彼をこの場所へと導いたのは、何らかの運命だったのかもしれない。

彼がその光の中を進んでいくのは、使命感ではない。

ただ桜を守りたいという、純粋で揺るぎない想いだけだった。

彼の心が、桜の守り札と共鳴し、奇跡の扉を開いたのだ。

彼の瞳には、遠い異界の光が宿っていた。

その光は、桜の瞳の紅い闇を貫く。

まるで、闇に差し込む一筋の希望の光。


蛟は、この事態が彼の想定外であることを悟り、

焦りと怒りに顔を歪ませる。

彼は桜を完全に掌握したはずだった。

その完璧な計画が、突然現れた「異物」によって

崩されようとしている。

祭壇に集まった鬼の眷属たちも、原因不明の異変に怯え、

混乱の渦に巻き込まれる。

彼らのざわめき、恐怖の叫びが、祭壇に満ちる。

その混乱の中、祭壇の中心、呪縛の楔が最も強力な力を放つ場所に、

まばゆい光と共に一人の青年が姿を現す。

その姿は、神々しいまでに力強く、

しかし、桜がずっと待ち望んだ、紛れもない幼馴染、蓮そのものだった。

彼の目には、長き旅路の疲労と、

桜を救うための強い決意が宿っていた。

桜の目から、希望と安堵の涙が溢れ出した。

その涙は、熱い。

喉の奥が、震えた。

心臓が、跳ねる。激しく脈打つ。


蓮。


蓮、ほんとうに…?


蓮、私を見て。


私を抱きしめて。


私を――


心臓が早鐘を打つ。血が荒く逆巻く。

肺の奥が焼けるように熱く、吸うたびに喉が切れる。

吐く息に血の匂いが混じった。

痛い。痛い。全部が痛い。

けれど、その痛みすら、蓮の存在の前では消え去る。

彼の瞳は優しい。

でも少し遠い――怖いほど遠い。

お願い、置いていかないで。

そう、心の中で叫んだ。


蓮が咆哮する。「桜!お前は、鬼の器じゃない。

俺の――ずっと、俺のものだ!」

彼の声は、祭壇全体に響き渡り、鬼の力を打ち消す。

彼の動きは、光の軌跡のようだった。

彼は異界で得た神の力で、鬼の家の眷属たちを

一瞬で薙ぎ払い、桜の元へ駆け寄る。

桜の赤く染まった瞳に、蓮の顔が鮮明に映る。

その瞬間に、桜の理性が完全に呼び戻された。

私は、ここにいる。蓮が、私の目の前にいる。

蓮は、震える桜を強く抱きしめる。

彼の腕の温かさが、桜の冷え切った身体に染み渡る。

呼吸が整っていく。肺の奥に、清らかな空気が満ちる。

体中の血が、巡り始める。


「お前を守るために、俺は帰ってきた。

お前がいなければ、この国も俺も滅びる!」


彼の声は、確かな響きを持っていた。

それは、私を縛るすべての呪いを打ち砕くかのようだった。


そして、二人は協力し、封印と浄化の儀式を執り行う。

桜の清めの力と蓮の神の力が共鳴し、祭壇にまばゆい光が満ちる。

その光は、闇を払う。

祭壇の石の裂け目から、黒い血のような液体が滲む。

その匂いは甘ったるく腐った果実のようで、桜の胃を捻る。

冷たい石の上を這う液体が、まるで生き物のように蠢く。

しかし、光に触れると、その液体は音を立てて蒸発していく。

パチパチと、小さな音が響く。

祭壇全体が、浄化の光に包まれる。


蛟は最後まで抵抗を試みるが、二人の絆の力には敵わなかった。

彼は目を見開いたまま、その場に立ち尽くす。

口元が、憎悪に歪む。

だが、鬼の血の呪縛が解かれ、彼の瞳に微かに人間らしい光が戻る。

彼の顔から、憎悪の表情が消えていく。

その代わりに、苦痛と、どこか深い絶望が浮かび上がった。

口から吐き出した血が、石に落ちてぬるりと広がった。

その匂いは鉄のようで甘く腐っていて、吐き気が込み上げる。

蛟の息が乱れ、肩が激しく上下し、次の瞬間――

彼は崩れるように、その場に倒れ込んだ。

「…ありがとう…」彼は微かに呟き、そのまま動かなくなった。

彼の瞳は、かつての冷酷さとは違う、

どこか安堵のような色を帯びていた。

儀式は完了し、鬼の家は完全に消滅した。

祭壇を覆っていた瘴気は消え去り、清らかな空気が満ちた。

都の空から、黒い雲が晴れていくのが見えた。

久方ぶりの、月の光が祭壇に差し込む。

その白い光は、砕けた石の上で揺れる。

どこからか虫の声が聞こえる。

それは、夏の夜を思わせる、静かな響きだった。

風が瓦を鳴らす音も、やがて止む。

あたりは、ひっそりと静まり返った。

月光だけが、そっと二人を照らしていた。

静かだ。あまりにも静かだ。

それは、二人の未来を照らす光だった。

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