第10話:最後の抗い、微かな希望

桜の意識は深い闇の中を、どこまでも、どこまでも、落ちていく。

過去の記憶、蓮との思い出、全てが薄れていく。

自分が誰なのかさえ曖昧になり、ただただ虚無感に包まれる。

それは、存在そのものが消え去るような感覚だった。

鬼の血が桜の魂の核にまで達し、彼女を完全に飲み込もうとする。

もはや、この身体は自分のものじゃない。

そう、諦めかけた時、桜の脳裏に、

かつて蓮と二人で登った山の頂からの景色が浮かんだ。

澄み切った空、風に揺れる草木。

鳥の声が、遠くで聞こえた気がした。

あの光景が、消えゆく意識の中で、最後の抵抗を促した。

遠い、遠い日の、まばゆい光景が、私を呼ぶ。

喉がひりつく。唾を飲み込むと、

金属の味が舌に残った。

それは自分の血の味か、それとも……。

呼吸が浅い。浅く吸っては吐く。

やがて呼吸が途切れる。喉が音を立てた。

苦しくて吐き出すように、空気を吸い込んだ。

心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。

最初は小さく、次に急に早鐘を打ち、そして止まりそうになる。

鼓膜の裏で、ずっとごうごうと音がしている。

それは、遠い嵐の音のようでもあり、

自分の血流の音のようでもあった。

全身の血が凍り付くようだ。

氷の粒が血管の中を巡るかのよう。

痛み。それは刺すような痛みから、

やがて燃やすような熱に変わり、

全身を締め付ける。捩じ切られるかのようだ。

私は、まだ生きているのか。


その闇の中で、蓮からもらった守り札が、

これまでにないほど強く、激しく輝き出す。

それは、桜の心の奥底に眠る、

最後の「人」としての繋がりであり、蓮との絆の証だった。

守り札の光は、闇を打ち破るかのように強く、

桜の意識の奥深くにまで届いた。

その光は、遠い昔、蓮が差し伸べてくれた温かい手のように。

彼の指の温度が、今も残っているかのようだ。

あるいは、彼が私を呼ぶ声のように感じられた。

「さくら……」と、その声が、心の奥で響く。

最初は遠く、次に近く、そしてはっきりと。

その小さな光が、桜の魂を奮い立たせた。

諦めてはいけない。

そう、桜の心の奥深くから声がした。

全身の血が、その光に反応するように、

わずかに温かくなるのを感じた。

凍てついていた指先から、熱が伝わる。

その熱が、体中を巡り、冷え切った身体に力を与える。

脈が、わずかに強くなる。


桜は、消えゆく意識の中で、必死に守り札を握りしめる。

黒く染まりかけた守り札から、蓮の力が迸るように

桜の体へと流れ込んだ。

守り札が微かに熱を帯び、次に急に冷たくなる。

木彫りの角が皮膚に食い込み、微かなささくれが指に引っかかる。

その痛みすら、私を現実に繋ぎ止める。

守り札が音を立てて割れそうになる。

それは、単なる思い出の品ではなく、

蓮の魂の一部が宿っているかのようだった。

蓮の顔が脳裏に鮮やかに浮かび上がり、彼の笑顔、

彼の澄んだ瞳が、私を見つめる。

彼の声がはっきりと聞こえた。「桜…!」

その声は、優しく、しかし、どこか悲しみに満ちていた。

その声に、桜の瞳の奥で、鬼の紅い輝きの中に、

微かな、しかし確かに人間らしい光が揺らめき始める。

彼女の心臓が、再び激しく、そして強く脈動するのを感じた。

ドクン、ドクンと、力強い鼓動。

その鼓動が、全身に響き渡る。

それは、蓮への純粋な想いが起こした、人間にはありえない奇跡。

その光が、桜の体を覆う黒い紋様を、わずかに押し返していく。

皮膚の下で、紋様が引き攣るように蠢いた。

体の内側で、何かが軋む音がした。


桜の清めの力が、鬼の血に飲み込まれかける寸前で、

最後の力を振り絞り、激しく抵抗を始めた。

それは、蓮との絆が起こした、最後の、そして唯一の奇跡。

桜の体内を巡る清めの血が、鬼の血を押し返し、

祭壇の禍々しい術式に、激しい音を立てて亀裂が入り始める。

石が砕けるような、鋭い音。

祭壇の石が、ひび割れ、そこから血がじわりと染み出す。

その血は、冷たいのに、肌に触れると焼けるようだった。

祭壇を覆っていた瘴気が、一瞬だけ薄れる。

しかし、すぐにまた濃くなる。その中から、

無数の声が聞こえた。ざわざわと、耳鳴りのように。

腐敗した甘い香りが、一瞬だけ遠のいた。

代わりに、清らかな風が、どこからか吹き込んできた気がした。

それは、遠い故郷の風のようだった。

希望の光が、祭壇に差し込む。


桜は、その光に、震える指を伸ばした。

喉が詰まる。涙が溢れそうになるのを、必死に堪えた。

この光は、蓮が呼んでいる光。

そう、桜は強く感じた。

だが、光はすぐに闇に押し返された。

祭壇の闇が、再び桜を覆い尽くす。

息が、苦しい。

どうして。

どうして私だけ。

どうしてこんなに痛いの。

蓮、助けて。

蓮、見てる?

蓮、どこにいるの?

蓮、助けて。

声は、返ってこなかった。

いや、それどころか、影すらない。

私が呼んだのは誰?

恐怖と空虚が、桜の心を支配する。

意識が、再び遠のいていく。

呼吸が止まりそうになる。

脈拍が、微かに、そして不規則に跳ねる。

視界が、完全に闇に染まる。

それは、永劫の眠りへの誘い。

もう、何も感じない。


鬼の眷属たちがざわつき、彼らの唸り声が響く。

その唸り声は、恐怖と混乱に満ちていた。

蛟の顔にこれまで見せたことのない焦りの色が浮かんだ。

彼の瞳が、激しく揺れる。

儀式の進行が、桜の予想外の抗いによって、

完全に不安定になったのだ。

彼の瞳に、初めて明確な動揺と苛立ちが映し出された。

蛟は、まさか桜がこれほどの抵抗を見せるとは思っていなかった。

祭壇の亀裂から、清らかな冷気が吹き出すのが感じられた。

それは、遠い故郷の風のようだった。

その風が、蛟の顔を掠める。

彼の顔が、わずかに歪む。

苦痛か、あるいは別の感情か。

祭壇の太鼓の音が、遠くで途切れる。

そして、また不規則に鳴り始める。

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