第4話最後の会話

錆びついた扉は重たく、ユウの両手をもってしても、ゆっくりとしか開かなかった。


軋む音。暗闇。

その奥には、見覚えのある光景が広がっていた。


道路。ガードレール。

空の色はどこまでも曇っていて、空気は冷たく湿っていた。


その中央に、ぽつんと立っていたのは――


「タクミ……?」


幼い弟が、ランドセルを背負って、道路の真ん中に立っていた。

その表情は、どこか不安そうで、言葉を発しようとしては飲み込んでいる。


ユウの心臓がドクンと音を立てた。

“これは、あの日の記憶だ”。


事故が起きる、直前の光景だった。


兄弟は、家の前の道を並んで歩いていた。

ユウはスマホをいじりながら、タクミの話をうわの空で聞いていた。


──「お兄ちゃん、今日さ……」


──「……うん、後でな。」


あの日、タクミは何か言いたそうだった。

でも、ユウは聞かなかった。いや、“聞こうとしなかった”。


その数秒後、タクミは車に跳ねられた。


目の前にいるタクミが、少しずつこちらを向いた。


「ユウ……ちゃん……」


その声は、小さく震えていた。

それでも、ちゃんと届いた。耳じゃなく、胸の奥に。


「言いたいこと……あったんだ……」


「ごめん、俺……聞かなかった。

 お前が話しかけてたのに……」


ユウはタクミに近づこうとした。

けれど、足が動かない。

重力がねじれたように、身体が床に引きずられる。


「……怒ってないよ」


「……え?」


「ユウちゃんが見てくれなくても、俺、好きだったよ。ずっと」


タクミの笑顔が、ふわりと浮かぶ。

あの時と、同じ。

学校の授業参観の日、一緒にゲームした日。

そして、ユウがふと優しくしてくれた、あの日の帰り道。


その笑顔が、少しずつ光に溶けていく。


「タクミ……行かないで……」


ユウの声が、掠れる。


「ユウちゃんは、悪くない。

 でも、忘れないで。

 僕のことも……あの日のことも……」


タクミの輪郭が、風に吹かれるように淡くなり、

やがて空気のように、消えていった。


ユウは、その場に崩れ落ちた。

目の前には、もう誰もいない。

ただ、冷たい風と、薄暗い空が広がっていた。


* * *


「あなたが恐れていた記憶ね」


声がして、振り返ると、またあの白衣の女が立っていた。


「思い出したくなかったこと。

 “聞かなかったこと”が、あなたの中で“見捨てた”に変わっていったのよ」


ユウは黙って頷いた。


「でも、弟はあなたを憎んではいなかった。

 それでも、後悔は消えない。

 だからこそ、進まなきゃいけないのよ」


女は微笑み、ゆっくりと手を差し出した。

その背後に、またひとつ扉が浮かび上がる。


けれど、今までのどの扉よりも鮮明で、まばゆい光を放っていた。


ユウは立ち上がった。

濡れた頬を手の甲で拭って、深く息を吸う。


「……わかってる。

 俺は、もう逃げない」


その手が、扉の取っ手に触れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る