終のエルフ

伍十二いさな

第一章トキノビ編

第1話「咲けない花」

――東方山岳圏、花霧山脈――


幾重にも重なる峰々の奥深く、霞に包まれた山の上に、それはあった。




――ミヨリノキ――


天に向かって枝を広げる一本の大樹。


その枝葉には、まるで四季を一身に宿したかのような色彩があふれている。




新緑の春を思わせる淡い黄緑、燃えるような紅葉の朱、初夏の深い青緑、冬を告げるような白銀の葉先。


桜に似た薄桃の花弁が春風に揺れ、向日葵のような黄金の大輪が夏の日差しを映し、


秋には甘い香りの果実が実り、冬には白い小花が静かに咲いていた。




果実もまたさまざまな姿をしている。


リンゴのように丸いもの、柿のように橙がかったもの、葡萄のように連なった小粒の実。


それぞれの中に、小さな命が眠っている。果実の奥に透けて見えるその胎児のような影は、規則的な脈動とともに、確かな生を刻んでいた。




 ドクンッ――


 ドクンッ――


 ドクンッ――!




果実の一つが、ひときわ強く脈打ち始める。やがてその付け根が音を立ててちぎれ、枝から離れた。




「――間に――!」




風を切って駆ける足音。巫女服を身に纏った少女が、果実に向かって跳び出した。


白と赤の衣を翻しながら、少女――サクヤは落下する果実を見事に抱きとめる。




「合った!」




つま先が草をかすめ、無事に着地。彼女は丁寧に果実をカゴへと納めると、ほっと息をついた。サクヤの長い髪の間から、左右のこめかみに近い位置と肩の上に、淡い緑の“芽”がのぞいていた。


それはトキノビ族すべてに備わった、生まれながらの“花の座”。



「ほっ……」



「サクヤ!?」




突然、鋭い声が背後から飛んできた。


振り返ると、そこには同じ巫女服に身を包んだ少女、シデが立っていた。彼女は腕を組み、苛立ちを隠そうともせず、サクヤを睨みつけている。




「今日から神胎迎え(シンタイムカエ)だというのに、宙籠(チュウロウ)一つ張れてないなんて……どういうつもり?」




「違うよシデちゃん!ちゃんと張ったよ!……本当に!」




サクヤは慌てて首を振る。だがシデは、枝を指さした。




「じゃあこれは何?全部スカスカよ。ミヨリ様の枝を空に晒して……そんな中で果実が落ちたら、赤子が無事で済むと思ってるの?」




シデが手をかざすと、枝と枝のあいだに淡く光る魔法の籠がふわりと現れる。それはまるで空中に編まれた揺りかごのようだった。




「ほら、こうやって……。これはね、“命を迎えるための籠”。誰もが一度はこれに支えられて産まれてきたのよ」




そして、ちょうどその瞬間。枝からもうひとつの果実が落ち、シデが展開した宙籠の上にふわりと乗る。光に包まれ、まるで祝福を受けるように静かに揺れていた。




「敬意が足りないのよ。自分がどこから来たかも忘れて。そんな姿じゃ、"ミコル"の名が泣くわね」




シデの視線が、サクヤを冷たく射抜く。




「“トキノビの花”が咲かない理由、ちょっとは思い当たるんじゃない?」




その一言は、鋭い刃のようにサクヤの胸を刺した。


言葉を返すことができず、サクヤはただ俯いて、声もなく立ち尽くす。




「……ごめんなさい……」




サクヤがようやく絞り出したその言葉は、木々のざわめきに溶けて消えていった。







空には、丸い月が浮かんでいた。静寂の中、サクヤの家の灯りが、ぽつりと灯る。

サクヤはひとり、寝室の鏡の前に立ち、自らのこめかみにそっと指を添えた。

芽はある。けれど、今日も花は咲かなかった。

左の肩に目を落とすと、そこにも同じように、何の兆しもない小さな膨らみが眠っていた。


「……やっぱり、まだだよね」


小さく、笑った。けれどその瞳は、どこか寂しげだった。




小さな部屋には布団が敷かれ、明日へと備えるように、巫女服が枕元に整えられていた。




「よし!」




サクヤは小さく気合いを入れ、布団にもぐり込む。表情はどこかコミカルで、無理にでも前を向こうとしている。




(明日こそはしっかり御勤を果たすぞー!)




だが、脳裏にはどうしても、昼間の言葉が蘇る。




(そんな事だから“トキノビの花”を咲かせられないのよ!)




布団の中で、サクヤはつぶやいた。




「私、ちゃんとやったのに……」




その瞬間――




「来ちゃったのね……サクヤ」




どこか懐かしい声が、夢の中で響いた。







そこは、懐かしい教室だった。


幼いころ、サクヤたちが“先生”と呼んでいた存在――ミヨリが微笑んで立っている。




「もう一歳を過ぎたというのに。困った子ねぇ」




ミヨリの膝に身を預けながら、サクヤはぽつりと呟いた。




「先生、私また失敗してしまいました……」




「そう……」




ミヨリは目元を柔らかく細める。




――私たちトキノビは、呪われた種族です。


咲ける者と、咲けない者。その二つに分かれ、短い生を生きています。




誰かに“強く想われる”ことで、私たちは花を咲かせる。


その花が、次の命を育て、また誰かへと繋がっていく。




祈りにも似た、その連なりだけが――


私たちの生まれてきた意味だと、教えられてきた。




けれど私は、咲けない。


頑張っても、祈っても、咲かない。




……じゃあ私は、


誰にも想われていないって事なのかな……




サクヤの瞳から、ぽたりと涙がこぼれ落ちた。







「ん……」




微かな寝返りとともに、サクヤは目を覚ました。


窓の外にはまだ夜の闇が広がっている。




「変な時間に目覚めちゃったな……」




身支度もそこそこに、彼女は足を向ける――ミヨリノキへと。




霧の中、誰もいないはずの場所に、確かに足跡があった。




(足跡がある……誰か、宙籠の様子見に来たのかな……?)




そのとき、サクヤは目を見開いた。




月明かりの中。ミヨリノキの枝の上を、素足のまま、ゆっくりと歩く誰かの姿。




バランスを保ちながら進むその足取り。風に揺れる白い髪。


そしてその姿が、枝葉の隙間から現れた瞬間――




サクヤは思わず、息を飲んだ。




月に照らされたその人影。


まるで幻想のように、美しく、どこかこの世のものではない雰囲気を纏っていた。




ただ、サクヤは見上げることしかできなかった。


その存在に、心を奪われたまま――。

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