花魁道中〜桜の君〜

桶谷 雨恭

桜嵐

甲高い鈴の音が耳の奥に響いた。眩しいほどの灯りとたくさんの色彩が目の奥に差し込んで来る。


「綺麗・・・。」


外八文字を描きながら、鮮やかな色彩を浴びて1人の花が一歩、一歩と近づいてきた。

まっすぐと正面を力強く見据える眼と紅い唇から目を離すことができない。

自分の目の前を通り過ぎる瞬間、あの吸い込まれる、、真っ黒な目と合った気がした。


『その日わたしはこの世のものとは思えないほど美しく、妖艶な花を見た。』



その日はいつも通りだった。

呉服屋を営む我が家の戸を開け、店の前を掃除する。住み込みの若い衆が1人、また1人と店の方にやってきて準備を始めた。

厨からは炊けた白米の香りとお出汁のいい匂いが漂ってきた。

色男の名にふさわしい綺麗な顔立ちを若干崩すほどの大きな口を開け、首にかけた手ぬぐいを手に持ち直しながら一番上の兄が表に出てくる。


「おはようございます。お兄様。」

「おはよう。毎朝欠かさず店前の掃除をして、良い心掛けだね。」

「癖みたいなものだよ。やらないとなんだか落ち着かなくて。」


少し照れ臭そうに下を見ながら言えば、お兄様は人懐っこい笑みを一つ。

私の頭をひと撫でし、店の中に入って行った。

一通り掃き掃除を済ましたら手を洗い、台所へ向かい朝食の用意で忙しない波に飛び込んでいく。


「手伝っておくれ!」


多くの声が飛び交う中で、一際目立つ兄嫁の声が耳に届いた。

多くの奉公人を抱えるため朝の支度は戦場と言っても過言ではない。若い女中たちがあっちへこっちへと右往左往しながら朝食の準備をしていた。

他の女中たちを避けながら女中たちに指示を出している兄嫁のもとへ小走りで近づく。


「姉様、おはようございます。」

「おはようございます。

 あちらの汁物で人が足りていないようなので、お手伝いをお願いします。」


兄嫁は自身のふっくらとした指で汁物を作っている箇所を指差した。


「わかりました。」


言われた通り、汁物を作っている場所へ走り寄り女中たちに紛れて包丁を持つ。

出来上がった味噌汁を盛り付け御膳を運ぶ。

家長である父の前に御膳を置くのは母だ。自分はお兄様の御膳を運ぶ。

父と兄の配膳が終われば自身も置かれている御膳の前に座る。

全員が座るが、一つの御膳の前だけが空席の状態だ。父がその席を睨むように見て口を開く。


「あいつはどうした。」

「あの子は帰りが遅かったようでまだ寝ていますよ。」


母が静かに父へ報告する。両親が言っているのは二番目の兄だ。

父はため息をつくとそれ以上は言及せずに前に向き直る。


「それではいただこう。」


父の号令で全員が一斉に箸をとり食べ始めた。

静かな空間に咀嚼音だけが微かに聞き取れる。

皆一通り食べ終わり、お茶を啜っていると父が今日の予定を母と確認しているのが聞こえた。

どうやら遊女に贈る反物をみにくる太客がいらっしゃるようだ。

昼時より後においでになるから二番目の兄に相手をさせるよう言いつけている。

母がこちらを振り向いた。


「聞きましたね。あの子を起こすついでに伝えてください。」


母の言葉に頷き、自分の膳を片付けに厨へ向かう。

水場に食器を置くと用意されていた一人前のお膳を持ち、静まり返る奥の階段を足音を立てないよう静かに登る。

二番目の兄はいつも遅く起き、1人で朝食を取っていた。それを運ぶのは私の役目だ。

二階の奥にある角の部屋。暖かな日差しが射し込む廊下を静々と歩く。

一度お膳を床に置き、中の兄に声をかける。「どうぞ。」という返事に音を立てないよう襖を開けた。


「おはようございます。兄さま」

「ああ。おはよう」


二番目の兄は一番目の兄とは違い、薄く髭を蓄えガッチリとした身体つきをしている。本人は気にしているようなのであまり言及はしないが、恐らく世間一般で言う老け顔をされているため、よく年齢を逆にみられることがあった。

兄さまは布団から上半身を起こし、胸元が大きくひらけた状態で未だ眠そうに大きな欠伸をしている。


「前が大きく乱れていますよ。」


呆れたように声をかけるが彼はそんなことは気にしていないようで胸元をチラリと視線を向けた後整えもせずに立ち上がると布団を端へ寄せた。

お膳を兄さまの前に並べる。ゆっくりと食べ始めた彼に太客が来るので相手をしてほしいとお父様がおっしゃっていたと伝えると考えるそぶりを見せて思い当たったようで、眠そうな眼が少し開かれた。


「あぁ。旗本の旦那だな。確か、高野大夫がねだったとか昨日座敷で遊女たちが話していたのを聞いたな・・・。あの人のことだ、どうせ一通り見た後に目新しいものを仕立てろと言ってくるのだろうな。」


もぐもぐと咀嚼しながら、売る反物を考えているのだろう上の空なことがみてとれる。


「どうすっかなぁ。高野大夫は気難しい方で有名だから難しいんだよな。」


悩んでいる兄さまの視線がふと自身に向いたことに気がついた。

何を考えているのかわからず首を傾げてしまう。


「お前、客から好みを聞きだすの得意だよな。」

「聞き出すとは人聞きが悪いです。お話を伺っているだけでそのような相手を探るようなことはしておりません。」


不躾な兄の物言いに慌てて言い返した。

兄さまは「何が違うのだ」と呟いて汁を啜る。


「まぁ何だっていい。俺が言いたいのは、今晩一緒に遊郭行かねぇかって話だよ。」


この兄は今なんといったのか一瞬理解が及ばず、硬直してしまった。


「遊郭ですか?」

「そっ遊郭。」

「あの、遊郭ですか?」

「他にねぇだろ。」

「いや、でもあそこは殿方が行かれるところでは?」

「女もいるぞ?まぁ買うのは遊女じゃなけどな。」


いまだにこの兄さまの提案に思考がついてこず、開いた口を閉じることができない。


「俺と行動すっるつうことを考えたら、確かに女子のままはまずいか・・・。

 俺のお古でも一式出してくりゃいいだろ。

 よし、決まりだ。」


兄さまは満足そうに頷き、結論を出すと食事を再開してしまった。

こうなってしまえば、兄の意見を曲げることが不可能であると知っているため、諦めたようにため息をつく。


「わかりました、もうお好きになさってください。

 ですが、お父様とお母様へのご説明は兄さまご自身でなさってください。」

「おう。任しとけ。」


本当に大丈夫か不安にはなるが、一見軽そな兄さまも家の商売については誠実であるため両親からの信頼はあるのだ。恐らく自分の知らない間に許可ももぎとってくるのだろう。

これから自分に降りかかるであろう出来事を考えながらもう一度、先ほどよりも深くため息をついた。




日が傾き、町全体が茜色に染まり始めたころ店の奥にいた兄さまに呼ばれ奥に入るとねこやなぎ色の着物を渡される。


「ほれ、これ着とけ。」

「本当に許可を取られたのですか・・・。」

「当たり前だろ。」


なかなか受け取らずにいると、ずいっと着物を胸元に押し付けられた。

そこへ、一番目の兄が入ってきた。


「さっき父上に聞いて冗談かと思ったが、どうやら本当だったみたいだね。」

「おっ兄貴!良いとこにきた。兄貴も今夜どうだ?。」

親指と人差し指で円を作り、口元で飲む動作をする。その動作にお兄様は呆れ顔でため息をついた。

「私は遠慮しておくよ。家内もいるし。」

「たぁ〜。相変わらず仲がよろしいようで。」

「それにしても、この子を連れて行くなんて・・・。」

「なぁに、中に入っちまえばこっちのもんよ。」

「お前の発想にはつくづく驚かされるよ。確かにこの子は人様の好みを聞くのは得意だし、柄の提案なんかも他の職人と同等に語れる。しかし、女子なんだ。あまり無茶はさせるなよ。」

「わかってるよ。心配しすぎだよ全く。俺がいるんだから問題ねぇって。」

「それが返って心配なんだけどね。」


お兄様は『気をつけて行ってくるんだよ。』と頭をひと撫でして部屋をでていった。


男物の着物に袖を通し、髪を軽く結い上げる。

兄達のように髷を結うことはできないため、仕方がない。

草履を履いて、兄さまの横を並んで歩いた。

兄さまはどこかご機嫌で、鼻歌交じりで頬も心なしか緩んでいる。

薄暗い道の先に灯りが見えてきた。

柳が生える下に大きな門がそびえる。その門を中心にぐるりと壁が取り囲んでいた。

門をくぐると目の前に広がる大通りを中心にお店が立ち並ぶ。


「離れるなよ。」


兄さまに声をかけられ、大通りの少し端をピッタリとくっついて歩く。

道の両脇には、真っ赤な格子が並びその内側には美しく着飾った女性達が微笑みこちらを観ていた。

勝手知ったるように、引手茶屋へ入ると若い男が出迎える。


「反物屋の若旦那じゃぁないですか。昨日に引き続きようこそおいでくださいました。」

「おう。邪魔するぜ。」

「いつもの通りでよろしいですかね?」

「あぁ。それと今日は連れがいるんでな。もう一人誰か呼んでくれ。」

「承知していたしました。こちらはどちらの方で?」

「こいつは最近うちの店に入った見習いでよ。田舎から来たばかりだから、こうゆう遊びを知らねぇのよ。お手柔らかに頼むぜ。」

「そうでしたか!それは、それは。すぐに部屋を用意して参ります。」


若い男はニコニコとしながら私を一瞥すると、奥に引っ込み一息付かぬ間に隣にある建物の二階の部屋へと案内された。

案内された部屋には美しく化粧を施し、複雑で艶やかな刺繍がこれでもかと刺された着物を身に纏った女性が二人、三つ指をつきこちらを観ている。


「では、ごゆるりと。」


兄さまと部屋に入ると、案内をした男は頭を下げ襖を閉めて去っていった。

上座の席に案内され兄さまの横に座ると反対側には先ほどの女性の一人が座る。

楽器を持った芸者達が入室し、艶やかな音を奏でる始めそれに合わせて別の芸者が舞い始めた。

真っ赤な漆塗りの盃を渡され、透き通る酒を注がれる。


「ほどほどにな。」


兄さまが盃の酒を煽りながら、すでにその視線は目の前の芸者に注がれていた。

私も大人しく芸者を眺めていると外から、シャンシャン金属が打ち合う音と聞こえる。

それは、入り口の大門の方向から徐々にこちらに近づいていた。


「おっ来たな。」


兄さまが盃を置き、縁側に移動すると私に向かって手招きをする。

手招きに従って兄さまの横に座って下を覗き込んだ。

高々と掲げている提灯がチラチラと見えてくる。続いて、音の正体である金棒を持った男性達が先導するように歩いてきた。その後ろから禿が二人緊張した面持ちで続く。ゆっくりと進む行列の中盤にその人はいた。

甲高い鈴の音が耳の奥に響いく。眩しいほどの灯りとたくさんの色彩が目の奥に差し込んだ。


「綺麗・・・。」


外八文字を描きながら、鮮やかな色彩を浴びて1人の花が一歩、一歩と近づいてきた。

まっすぐと正面を力強く見据える眼と紅い唇から目を離すことができない。

自分の目の前を通り過ぎる瞬間、あの吸い込まれる、、真っ黒な目と合った気がした。


「おい。大丈夫か?」


兄さまが声をかけられ、自分が惚けていたことに気がつく。目の前には心配そうにこちらを覗き込む兄さまの顔がある。


「あっ。大丈夫です。あまりにも美しくて・・・。」

「花街一の美女だからな。」


そう言って下を見下ろす兄さまに従って視線を下げると高野大夫はちょうど今いる店に入るところだった。


「あの花魁道中の目的地はここだったんですか?」

「ああ。今日の客と一緒に花街を一周して店に入る。見栄がものを言うこの街特有の行事だ。今日の客はありゃ旗本の息子だな。羽振りがいいこった。」


高野大夫の横には色男と呼ぶに相応しい身なりの綺麗な男が立っている。その視線は高野大夫に釘付けだ。

対して高野大夫は男を見ているように視線はむけているがどこか遠くを観ているように見える。

ふと彼女が上を見上げた。自分の視線と混じり合った瞬間何故か顔が燃えるように熱くなり、咄嗟に目を背ける。かまどの前に座り込んでいるかのようにカッと頬が紅く染まったのは鏡を見るまでもなく明らかだ。

視線を逸らすことなどもはやできず、顔の火照りを覚ますこともできずにただ呆然と眺めているとフッと彼女の口角が上がったような気がした。そのまま、ふいとまた正面へ視線を戻してしまう。

そして、ゆっくり、ゆっくりとその艶やかにカラカラと通り過ぎてしまった。

ほうっと息を吐く。

あれ程熱くなっていた顔はいつの間にか冷え切っていた。


「余韻に浸るのは良いがさっさと戻ってこい。」


兄さまがニヤニヤしただらしのない顔を隠すことなく、盃の酒を煽っている。


「兄さま。顔の緩みきっていますよ。」

「ははっ。そんなお前こそ、顔を真っ赤にしやがって。さながら、一目惚れした乙女のようだったぜ。」

「ご冗談を。」


兄さまの言葉にどきりとしながらも、平静を装うように縁側から座敷へ戻る。

ちびちびと舐めるように飲む酒がカッと喉を焼くのを感じながら、目を伏せると瞼の裏にあの高野大夫が華咲くように浮かんだ。


「あんま飲み過ぎんなよ。」

「わかっています。」


兄さまの言葉に瞼をゆるりと押し上げ、自身の盃を覗き込む。

今回の目的は高野大夫の好みを周りの遊女たちから聞くことだ。そのために男装までこの吉原に入り込むことになったのだから、仕事はしなければならない。程よく酔い、遊女たちとたわいもないおしゃべりを楽しむのが私の仕事だ。

しかし、先ほどの鮮やかな花が視界から消える様子はない。真っ赤な紅に、しっかりと結い上げた艶のある黒髪。首まで塗られた白粉は厚くなく、その美しさを存分に引き足していた。

盃に写る吉野大夫は突然波紋に消える。


「もう!旦那ぁ。お相手はわっちでしょう?こっち見ておくんな。」


侍らせていた遊女のほっそりとした腕が絡みつく。

「あぁ。あんまりからかってやらんでくれ。」


茶化すように兄さまが言った。

遊女たちも、すらっとした白魚のような指で支えられた着物の袖で真っ赤な紅がさされた口元を静かに覆い、くすくすと少女のように笑う。

その無邪気な装いに、頬がカッと熱くなるのを感じた。

そこへ、「もし。もし。」と控えめな声がする。

兄さまが「あいよ。」返事をすると音もなくすっと襖が開いた。そこには、自身よりも年若い禿が、手をつき頬を桃色に染めこちらをじっと見ている。


「あの。床のご用意が。」

「おっ。もうそのような刻か。」


嬉しそうに膝に手をつき、兄さまが立ち上がった。

慌てて、兄さまの後に続こうと自分も立ち上がるが、兄さまは手で制し、にっこり笑うと禿に何かを告げる。

禿は心得たようにパタパタ取ろうかを走って行ってしまった。


「お前は、もう一部屋用意してもらうからそっちを使え。」


そう言うと、今まで酌をしていた遊女を腕に絡ませ、さっさと部屋から出ていく。

残された私は、戻ってきたきた禿に案内で、兄さまと同じように酌をしてくれた遊女が腕に絡みつき、引かれるように廊下を歩いた。

部屋の前までくると、目の前の襖が開く。中は明かりが最小限に抑えられ、薄暗く感じられた。真ん中には大きく柔らかな布団が一組敷かれていた。


「あんさんは、女子はいける口で?」

「へ?」

「ずいぶん可愛いらしい子だと思ってたんですよ。」

「えっと、あの。」


薄く白い指が自身の頬から顎にかけてスッと滑るのを感じる。

自分の顔が火照るように熱くなるのを感じた。おそらく、私の顔は真っ赤に染まっていることだろう。ゆっくり、ゆっくり艶のある紅が近づいて来るのが、焦点の合わない視界の見えた。

『くすっ』という音にはたとと視点が合う。


「冗談ですよ。可愛いと思っていたのは本当ですけどね。」

「え・・・。あ・・・。」


顎にかかっていた手がするりと頬をひと撫でして引いた。

「わっち小雪と申します。一晩の夢のお供をさせていただきます。どうぞよしなに。」


小雪さんはゆっくりと三つ指をつく。

さらりと艶のある黒髪が白い頬を撫でつけた。

からからと口の中は乾いているはずなのに、ゆっくりと一雫喉を通るのを感じた。

そして、小雪さんのさらに奥にある布団を彼女の肩越しに見たつもりだったが、気がついた時には、目が痛くなるほど見つめている。


「まぁ野暮でありんすね。もう床入りを?」

「いえっそんなつもりではっ」

「ほんと、揶揄いがいのある方でありんす。」


楽しそうに笑いながら茶器を手に持ちお茶を一杯入れた。


「ここはそうゆうところでありんすが、必ず床入りする必要はござりんせん。ゆっくりお茶を飲み、少しお話をして手を取って眠る。そんな夢もありんす。」


小雪さんの一言一言が耳に沁みるように溶けていく。先程まで頭にかかっていたモヤがゆっくりと霞になっていくのを感じた。

そっと取られた手に渡された湯呑みに口をつける。ぬるめのお茶がするすると喉を通りじんわりと広がってゆく。

ほうっと息をつくとそっと小雪さんを見た。

小雪さんも湯呑みを傾けている。パチリと目が合った。ゆっくりと微笑み私の手からするりと湯呑みを取り上げる。湯呑みを置き、少し温もりの残る手で私の手を引いた。

奥の仕切りをまたぎ、ふんわりとした布団の上に導かれる。

そっと帯に手をかけられて固まってしまう。


「ちゃんととわかってありんす。何も心配事はござりんせん。主が女子であることも、ここに来た目的も、お連れ様に聞いておりんす。ゆっくりしておくん何し。」

「あっ。そ、そうなんですね・・・。じゃあ失礼します。」


お互いに背中を向け、シュルシュルと絹の擦れる音のみが聞こえてくる。

夜着に着替えると、ちょうど向こうも終わったのか、同時に振り返った。

交わる視線に、曖昧な笑みを作り重厚な布団に手をかける。

布団に入るとふわりと焚き染めた香が漂う。小雪さんも行灯の灯りを消すとゆっくり布団の中に入ってきた。

何だか恥ずかしくなり、背を向けてしまう。

相変わらず小雪さんはくすくすと笑うだけだ。

室内が無言になると外の音はよく聞こえるもので、これがまた厄介だった。

忙しなく宴会をやっている音、誰かが歩いているのか、廊下の板が軋む音、ひっきりなしに自分の耳に入ってる。隣部屋から聞こえてくる音の正体に気づいた時には自分の頬は紅を塗ったくったようなひひどい色をしていたと思う。


息を潜めるように布団の中でじっとしていると、隣から微かな寝息が聞こえてきた。

小雪さんだ。そろりと寝返りをうち、隣の顔を眺めた。起きている時よりもすこい幼い印象になっている気がした。

じっと小雪さんを眺めていたが、ふと耳を澄ませると、あんなに賑わっていた店の中はシンと静まりかかえっている。あの美しいお琴の音色も艶やかな歌声もお客や遊女たちの笑い声すら何も聞こえない。少し空いたままになっていた障子から入り込む月明かりを頼りに部屋を見渡した。改めて、普段は来れないところに足を踏み入れているという自覚をすると、好奇心というものが胸の辺りから湧いてくることに気づいてしまった。そっと布団から身体を抜き足音を立てないように襖に向かう。


「んん・・。」


小雪さんの口から声が漏れ、布の擦れる音が聞こえた。身体を硬くし、ゆっくりと振り返ったが、目は開かれておらず、その顔に月明かりが少しかかっているのが見える。どうやら、寝返りをうった際に明かりが目にかかったようだ。

起きていないことを確認すると、安堵するように息を吐いて襖に手をかける。なるべく音を立てないように襖を開け、外に一歩踏み出した。

静まり返り、空気が少し冷えているように感じられる。足に伝わる木材の冷気に少し、頭が冷静になったのか部屋に戻った方がいいのではないかという思考も生まれたが、それはすぐに好奇心に打ち消されるように消える。

左右を見渡して、さてどちらに行こうかと考えていたが、自分はこの建物の構造はわからないことに気づいた。ひとまず、自分はこの部屋に通されたとき、左から来たはずである。そのため、左は宴会場と出入り口に続いているはずだ。そこまで考えて、私の好奇心は右に足を進めた。

ゆっくりとみて回ってみるが、どこも同じような部屋が続いていた。寝息ばかりが聞こえてくる。

たまに、男女の営みのような声が聞こえる部屋もあるが、大半の部屋は寝静まっているようだ。

歩みを進めていると、桜のような香りが鼻腔をくすぐる。一歩一歩その香りはどんどん強くなっていく。

香りが一等色濃く香る襖があった。襖からは細く伸びている明かりは暗闇の中で私を導いているような気がした。

その細い光をゆっくりのぞく。一人の女性がその黒々とした髪を下ろし、櫛ですいていた。まさに白魚のような手で持った、鼈甲が鮮やかな櫛が滑る艶やかな黒髪に息を呑む。

その音に気がついたのかゆっくりとこちらを振り返る。その目に飛び込んだのは、先刻ほど前に自分が見ぼれた華だった。

目が合う。じっとこちらを覗く黒曜石を逸らすことはできない。なんだか息苦しい。短くはぁはぁと自分の呼吸が聞こえてくるが、全く息は吸いこめていないようで、なんだか視界がぼぅっとしてきた。かくんと膝が抜けたところで、襖が音もなく開く。


「あなた、どこからきたの?」


その声は想像していたよりもずっと私に近い、近所の子達と変わらない女子の声だった。


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