第十三章 僕の終わりと、君の春

 春の制服に袖を通すのは、これが三回目だ。


 始業式。

 教室には新しい担任、新しい席、新しい空気。


 ヒカリの席は、窓際の後ろになっていた。


 僕とは、斜め前。

 かろうじて視界の端に入る位置。


 彼女は相変わらず、誰とでも自然に話していた。

 笑っていた。

 冬の間に少しだけ髪を切ったみたいだった。


 ほんの少しの変化。

 でも、僕の中では、それがとても遠かった。


 ◆


 昼休み、教室の隅で昼食を取っていたとき。

 不意に、小さな声が聞こえた。


「……蒼汰くん」


 顔を上げると、ヒカリが立っていた。


「あのさ、ちょっと……いい?」


 心臓が跳ねた。

 でもその顔は、どこか優しくも、決意を持ったような表情だった。


 校舎の裏手。

 誰もいない桜の木の下で、僕たちは再び向き合った。


 ◆


「……手紙、見たんだよね?」


 やっぱり、気づいていた。


「あの本、ヒカリが返したの?」


「うん。最後まで読みきれなかったけど、なんとなく挟んでたの」


 ヒカリは、地面を見ながらゆっくり言葉を選んでいた。


「読んでくれて、ありがとう。……ごめんね。あんな形で」


「謝ることじゃ、ないよ。僕が勝手に、意味を膨らませてただけだから」


「ううん、私も。……私だって、あの夜に全部を委ねたから」


 一瞬、沈黙が流れる。


 でも、その沈黙はもう、怖くなかった。


 少しずつ、

 本当に少しずつ——

 二人ともを持てる準備をしていたのかもしれない。


「もし、本当に世界が終わってたら……」


 ヒカリがぽつりと呟く。


「たぶん、私はあの日のことをだって信じられたと思う。

 でも……生きちゃったからね、私たち」


「うん」


「だから、あの夜の私は、

 今の私から見たら、

 ちょっとだけ間違ってたと思う」


「でも、それでも——」


「それでも、必要だった」


 ヒカリは、はっきりとそう言った。


「蒼汰くんが来てくれて、

 私、救われたんだよ。ほんとに。

 誰でもよかったわけじゃない。

 でも、誰でもよかったかもしれない。

 ……ね、矛盾してるでしょ?」


 彼女は自嘲気味に笑った。


「だけど、それがってやつだったんだと思う」


 風が、ふと吹いた。

 桜の花びらがふたりの間をすり抜ける。


 僕は、目を閉じた。


 あの夜の記憶。

 繋いだ手。

 交わした嘘。

 信じた奇跡。


 全部、春の風に乗って、どこかへ流れていく。


 ◆


「ねえ、蒼汰くん」


 ヒカリが、最後に言った。


「私、もうすぐ引っ越すんだ。親の仕事で。

 都内だけど、通学が難しくなるから転校する」


 言葉が、出なかった。


「手紙のこと、話せてよかった。

 もう、ずっと言わないまま離れたら……

 私たちって、ずっと終わらなかった気がするから」


「……終わらせに、来てくれたんだね」


「うん。自分の春を始めるために」


 ヒカリの瞳には、もう涙はなかった。

 ただ、真っ直ぐな決意があった。


 その日、僕はひとりで帰った。

 桜並木を、何も言わずに歩いた。


 スマホはポケットの中。

 イヤホンもつけていない。

 ただ、足音と風の音だけが隣を歩いていた。


 ヒカリはもう、いない。


 教室の景色にも、グループの会話にも。

「彼女」がいた場所には、春の光だけが残っていた。


 だけど、不思議だった。


 心が空っぽになると思ってたのに、

 ちゃんと何かが詰まっていた。


 それは痛みでも、後悔でもなかった。

 たしかに終わったという実感だった。


 ◆


 家に着いたとき、

 僕はようやくスマホを取り出した。


 ヒカリとのトーク履歴。

 もう返事が来ることのない、短い言葉たち。


 その一番下に、

 僕は新しいメッセージを一つだけ送った。


「生きてくれて、ありがとう」


 既読はつかない。

 でもそれでいい。


 この言葉は、

 彼女にじゃなく——

 あのときの自分に向けたものだった。


 ◆


 空を見上げた。


 明日も、ちゃんと日が昇る。

 世界は終わらなかった。

 だから僕は——


 これからも、終わったまま、生きていく。


 [完]

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