第二章 僕がキスをした、彼氏持ちの子は、今日も誰かの隣にいた

 放課後、昇降口の前で立ち止まった。


 空は晴れていて、鳥が飛んで、

 昨日と何ひとつ変わらない風景だった。

 違うのは——僕の目が、それを変わらないとは呼べなくなったことだけ。


 スニーカーの紐を締め直しながら、

 ふと視線の先に、彼女の姿が見えた。


 ヒカリは、笑っていた。

 校門の外、傘もささずに日陰に立つ男と話している。


 その男の名を、僕は知っている。


 八木蓮やぎ・れん

 ヒカリの「彼氏」だ。


 身長が高くて、声が通る。

 運動もできて、性格も悪くない。

 ヒカリと並ぶと、たしかに釣り合ってるように見える。


 それなのに——


 なぜ、昨日、君は俺の名前を呼んだ?


 ズキン、と胸の奥が痛んだ。

 ちゃんと知ってたのに。

 あの人がいること、うすうす気づいてたのに。


 ヒカリは、彼の横に立ったまま、何かを差し出した。

 たぶん、昨日作ったプリントか、メモか。

 八木はそれを受け取って、笑って頷いた。


 その一瞬、ヒカリの笑顔が「昨日の君」とまったく重ならなかった。


 あの時、

「……もし、これが最後なら、私……バカなことしてもいいかな?」

 って言った彼女は、どこに行ったんだろう。


 あれは、世界が終わるから許された笑顔だったのか。

 それとも、僕だけが勝手に意味を膨らませた、勘違いだったのか。


 ◆


 階段を降りる足音が後ろから近づいた。

 気配だけで、誰かわかった。


「……見た?」


 結城だった。僕の背後で、立ち止まる。


「七草と、あの彼氏。……名前、八木だっけ?」


 僕は答えなかった。

 代わりに、視線を外に戻した。


 ヒカリが蓮に手を振る。

 その表情には、後ろめたさも、動揺もなかった。


「なんか、フツーだったな。昨日、あれだけ泣いてたのにさ」


 そう。

 彼女は、泣いていた。僕の前で。

「怖いよ」「嫌だよ」「終わりたくない」って。

 それなのに、今は、

 何も終わってないことに安心してる顔だった。


「蒼汰、お前……マジで、何があったんだ?」


 その問いに、僕は答えられなかった。


 だって、どんな言葉を並べても——

「あの子は俺にキスして、次の日には彼氏と並んでた」

 って事実だけが、全てを台無しにするからだ。


 夕焼けの光が、教室の窓から差し込んでいる。

 オレンジに染まった黒板と、誰もいない席の並び。

 放課後の喧騒が遠くでにじんで、ここだけ時間が止まっているようだった。


 僕はひとり、まだ教室にいた。

 帰る理由も、残る意味もないはずなのに、

 気づけば手は、あのときのスマホを握りしめていた。


 あの瞬間だけが、何度でもリピート再生される。


 ◆


「蒼汰くん……もし、これが最後の時間だったら、どうする?」


 公園のベンチ。

 ヒカリは、制服の袖をぎゅっと握っていた。

 空は赤く染まり、ニュースの音声が遠くで響いていた。


『現在、日本時間18時52分頃にGRB直撃の可能性が――』


「世界、ほんとに終わるのかな」

「……かもね」

「私、やり残したこと、いっぱいあるのに。ずるいよ」


 僕はそのとき、彼女の涙を初めて見た。


 そして気づいてしまった。

 このままじゃ、自分は何ひとつ伝えられずに死ぬ。

 何年も胸の奥にしまい込んだものを、持ったまま消える。


 だから言ったんだ。

 勇気でも覚悟でもなかった。

 ただ、もう何も守るものがなかっただけ。


「ヒカリ。……俺、お前のこと、ずっと好きだった」


 息が詰まる沈黙のあと、

 ヒカリは顔を上げて、僕を見た。


「……そっか。なんで、今なのって思うけど……でも、嬉しい」


 その言葉は、確かにあった。

 震える声で。涙に滲んだ目で。


 彼女は、僕の頬にそっと触れて、

 そして——


 唇を重ねた。


 数秒だけ。でも永遠のように長くて、

 世界の崩壊よりも、胸が痛かった。


 ◆


「七草、まだ教室にいたの?」


 現実の声が、記憶を引き裂いた。


 顔を上げると、ヒカリが教室の扉に立っていた。

 カバンを肩にかけて、ちょっとだけ迷ったような顔をしてる。


「帰らないの?」

「……今、帰ろうと思ってた」


 声がうわずった。


 ヒカリは一歩だけ近づいてきて、言った。


「蒼汰くん、昨日のこと……覚えてる?」


 僕は、喉の奥が熱くなるのを感じながら、うなずいた。


「覚えてるよ。全部」

「……そっか」


 ヒカリは視線を落とした。

 しばらく沈黙が流れて——


「あれは……その、終末だったから。忘れていい?」


 その一言だけを残して、ヒカリは教室を出ていった。僕は追いかけなかった。追いついたところで、何を言えばいいのか、わからなかったからだ。


「終末だったから。忘れていい?」

 ただの都合のいい撤退戦だ。


 僕の「好き」は、終末のノリに紛れた一夜の火花。

 ヒカリにとっては、なかったことで済ませられる程度のもので。

 僕だけが、焼け残った灰を、まだ手に抱えている。


 ◆


 帰り道。

 自転車を押しながら歩く坂道。

 右手には、あの日と同じ踏切が見える。


 キンコン、キンコン。

 遮断機の音が遠くで鳴っている。


 その音に、なぜか胸が締めつけられた。


 ——あの踏切の向こう側で、

 ヒカリと初めて手をつないだんだ。


 中三の冬。

 雪が降る中、帰り道で偶然一緒になって、

 寒いねって言いながら、指先が自然に絡んだ。


 手をつないだだけで、嬉しくて、怖くて、

 だから何も言えなかった。


 ……あのときからずっと、

 僕は何ひとつ進んでなかったんだ。


 ただ、世界の終わりが背中を押してくれただけ。

 それでやっと届いた「好き」が、

 世界が終わらなかったせいで、

 全部嘘に変わっていく。


 ◆


 帰宅して、玄関を開けた瞬間。

 ポケットの中のスマホが震えた。


 着信——非通知。


 表示された名前はない。だけど、心当たりはあった。


 あの日、終末放送の混乱の中、

 ヒカリと連絡を取れなくなった時間帯。

 彼女の番号はなぜか一度だけ「非通知」でかかってきた。


 今日のそれは、まるでその記憶が再来したかのようだった。


 でも、躊躇している間に、

 着信は切れた。


 何も言えなかった。何も届かなかった。


 僕はスマホを裏返して、机に置いた。


 画面が暗転する直前、通知欄に、

 昨日ヒカリから届いた最後のLINEが浮かんだ。


「もし本当に終わるなら、最後に君の名前、呼びたかった。」

 たぶん、これは——

 世界が終わると信じた一人の少女が、

 そのときだけ許せた


 そして今、

 それを受け取ってしまった僕だけが、

 現実で息をしてる。

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