『噂』の章(二)
四階の教室まで階段で上がり、ねねと真琴はひそひそと声を抑えて喋っていたが、前にいる野球部部員の
声量は抑えず、
「オレは空振りだったからさあ、もう一度チャレンジしてえんだよなあ」
そのセリフから肝試しをしたのだと誰でも分かる。
男友達の間で水戸瀬は何度も「野球部でやった」と声を上げて、ぐんと身体を両手で伸ばすと「先輩たち、もう一度やってくねえかな」とこぼした。
『裏田さん』の噂が充分に広がっていることが分かる。
ねねは、これ以上、この噂に振り回されているのは色々なものを疎かにしているように思っていた。
勉学、部活、友人たちとの語らい、好きなこと。
そこに噂が入ってきて、全てが『裏田さん』になってしまったら人が変わってしまうような、変な気持ちになるのだ。
第一に水戸瀬が野球よりも噂を優先しているのがいい証拠で、それに続く「やってみたい」という声は学級崩壊の危機を感じる。
だから心の中で『裏田さん』は存在しているのではないかと、煙のないところに火はたたないと思ってしまう。
そんな噂、人がいないと分かっているのだが、ねねは不安でいっぱいだった。
そして頭の中で百合姫を思い出す。
百合姫は演劇部の先輩で、黒のセーラー服を着る変わった人だ。
変わったというのは、この学校ではブレザーであるが誰も百合姫を注意するところを見たことがない。ただ
たまに声出しに付き合ったり、簡単な芝居の時に軽くアドバイスしたりする。
ねねとの出会いは、張り切って演劇部の部室に入ったら、サクラが窓を開けているところで、その横に百合姫が椅子に座っていた。
「あら、元気がイイコね」と言い、サクラが「元気がいいね」と、ねねを見て言ったのである。
かぁと赤くなったねねに二人は笑い、百合姫が演劇部員と言い、続いてサクラが演劇部の担当教師と紹介をもらって、ねねはぺこぺこと頭を上下に振りながら自己紹介したものだ。
回想で安心しつつ、ねねは水戸瀬の背中を睨む。
「ねねちん、そんな顔しなーい。スマイルスマイル」
横から手が伸びてきて、ねねの頬が伸びてく。真琴の手を「もう」と笑いながら払い、ふうと息を吸って真琴に目を向ける。
「水戸瀬のやつ、先輩がいないとできないってビビリじゃんね」
耳元のささやきに「ふふ」とねねは笑う。
確かに、そう捉えることができる。
「あーあ、そんなことよりも英語のテストなかったっけ。苦手なんだよなー」
教室の扉をくぐりながら真琴は、がっくりと肩を落とし、その後ろにいたねねも「あっ」と口にしてテストのことを思い出した。
噂よりも現実が勝つのに、この教室にいる全員のうち何人が噂に振り回されているのだろう。
「あまちゃん、じゃあね」
真琴の席は「あいうえお」で一番前、教室の右上の一番前席。ねねは一番後ろなので、窓側の左下につく。
すぐに一限目の英語教師がやってきて体育館で言われたことを繰り返し伝えられ……しかし違うところがひとつ。
「やりそうな人がいたら伝えてね」とカーンと釘を打たれた。
大声で実行したことのある水戸瀬に視線が集まるのは簡単な話である。
その視線に教師は気づかなかったようで「じゃあ、授業はじめるよ」と英語の教科書を広げる前に「テスト」の紙が見えて、ねねは「うう」と声に出したのであった。
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