第2話 [海の上の影]
「……ねぇ、わたしの心、まだあったら。欲しい?」
その言葉は、ただの独り言だったはずなのに、
どこかで、誰かがそれに応えたような気がした。
けれど、返事なんてあるはずがない。
この海底に耳を傾けてくれる人なんて、誰もいない。
泡のひとつひとつが消えるたびに、
わたしの声も意味も、波に溶けていく。
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その日、海の上が騒がしかった。
遠くから、エンジンの音。
人間の船がまた近くを通ったのだろう。
わたしは浮かび上がらなかった。
あの日、傷ついた肌がまだ痛む気がする。
剥がされた部分に鱗はもう生えてこない。
そこだけが、わたしの“存在の証拠”みたいになっている。
それでも、海の上から何かが降ってくる音がしたとき——
わたしは、反射的に首を上げていた。
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人間が落ちてきた。
若い男の子だった。
目を見開いたまま、まるで空から落ちた星みたいに、
静かに沈んできた。
服を着たまま、何も抵抗する様子もなく、
沈んでいくその姿は、美しかった。
そして、どこか……わたしに似ていた。
“何かを捨てに来た人間の顔”をしていた。
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躊躇いながら、わたしは彼のもとへ泳いだ。
顔の皮膚が白くなってきている。
あのままだと、すぐに動かなくなるだろう。
どうして? どうして、そんなふうに落ちてきたの?
わたしにはもうわからないけれど、
でも、なぜかそのとき——
「この人に触れたら、わたしの意味が変わるかもしれない」
そんな直感が走った。
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わたしは彼の腕を掴んだ。
冷たくて、すこし震えていた。
このまま沈めてしまえば、
本当に“永遠”になる気がした。
でも——わたしの尾ひれが、ゆっくりと動いた。
わたしは彼の身体を、
波に乗せるように、静かに押し上げた。
彼の軽くなった身体が、ゆるやかに上昇していく。
途中、何かを掴もうとするように手が微かに動いた。
その瞬間、水の中に差し込んできた光が、
彼の背をやさしく引き上げたように見えた。
それはきっと、
わたしのせいでも、彼のせいでもない、
ただひとつの選択だったのかもしれない。
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わたしはその下から見上げる。
透き通った皮膚。
動かない睫毛。
小さな泡が、口元から静かに溢れていた。
その泡が、
どこかで聞いたことのあるメロディのように、
静かに弾けていく。
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「……見つけて、ごめんね」
小さく、わたしは呟いた。
まるで、かつての自分に対してのように。
そのとき、
彼の瞳がかすかに開いた。
ほんの少しだけ。
ほんの、ほんの少しだけ。
目が合った——気がした。
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そして、彼は水面へと戻っていった。
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波の合間に消えていった彼の姿。
それは、
この海に初めて落ちてきた“誰か”の記憶となって、
わたしの胸の奥に、ゆっくりと沈んでいった。
それが、
“意味”になるかどうかは、まだわからない。
でも、今——
わたしの胸の奥は、
ほんのすこしだけ、温かい気がした。
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