雪の木枯らし

飯村景行

第一章

第一章


 私がとろけたチーズののったピザを食べようとすると、佐和子が、亜美はいつもにこにこしてるけどどうして、と訊ねてきた。

 そんな佐和子も私を見ながら、にこにこと笑っていた。

 「どうしてって……。私、そんなにいつも笑ってるかな?」と私は言った。

 佐和子はからかうように私を見ていたが、自分のピザを手に持つために私と目をそらそうとした瞬間、鋭い視線で私を見た。ほんの一瞬だけ光の放つ目線を私に向け、すぐに佐和子はいつもの穏やかな顔つきになり、ピザを頬張った。

 笑いながらピザを食べる佐和子を見ると、それほど意味のない質問なのかな、と私は思った。きっと何か話しの種にでもと思って――その時は会話が止まっていた――そんな質問をしたのかもしれないと思った。私は話題を変えてみた。

 私が話題を変えると、佐和子も話に乗ってきた。ときどき口の中に入れた食べ物が私の所まで飛んでくるくらい佐和子は笑ったりもした。だから私は、さっきの一瞬だけ真剣な眼差しを向けたあの質問は、やっぱり自分の気のせいなのだと思った。

 私達は通っている大学近くの喫茶店で昼食を取っていた。佐和子とは同級生で大学に入ってから友達になった。彼女は明るいながらも、あまりでしゃばらず、とても人気のある学生だった。授業はいつも真面目に受けていた。誰にでも優しく接することができ、他人の悪口などを言っているのは一度も聞いたことが無かった。

 私と佐和子はピザを食べ終えると、コーヒーを注文した。先程まで喋ることと食べることで口を動かし疲れたのか、佐和子は静かになりコーヒーの飲みながら窓の外を眺めていた。私も窓の外を見た。バイク便のオートバイが高級外車を追い抜いていく光景を目で追った。もう秋だというのに、喫茶店の中は冷房が効いているらしく私は寒気を感じた。

 「クラスの子、死んじゃったんだよね?」佐和子はしばらくすると突然そう言った。

 私は驚いて佐和子を見た。

 「ほら、言ってたじゃない。亜美が高校の修学旅行での話」佐和子はコーヒーをスプーンでかき混ぜながら言った。「たしか死んじゃったのは修学旅行のもっと前だったよね?」

 私は記憶を呼び起こし、ちょっと考えるふりをしながら「うん」と頷いた。

 たしかにその話は少しだけ佐和子にしたことがあった。話したときには、ちょっとした雑談のつもりだったが、佐和子はとても真剣に私の話を聞いてくれたことを覚えている。

 高校二年生の修学旅行。ちょうど今頃の季節だった。




 早朝五時半、この季節になると外はまだ薄暗かった。十一月の初旬、私は車の窓を開けると同時に大きな欠伸をし、眠気を追い払おうとした。車内には風音と共に急激に温度が下がった。私は思わず身を縮めた。

 「おい、寒いぞ」

 運転席に座る父が言った。

 「うん、寒いよね」と私は素直に父の意見に同意し、空かさず窓を閉めた。

 父は私が眠たがっていることを察してくれたらしく、少しばかりエアコンの温度を下げてくれた。そんな父の姿を見ながら、私は目をごしごしと擦った。今日は化粧をしていなかった。だからメークが崩れる心配もない。私は日頃からそれほど化粧はしなことにしていた。ただ面倒くさい、とか、朝はできるだけ長く眠っていたい、などの理由によるものだったが、最近の女子高校生にしてみれば、それは珍しいことらしかった。今日これから会う私の友達も、おそらくばっちりとメークをきめているに違いない。とりあえず今日は、バッグの中に化粧品一式を持っていくことにした。

 「なあ、亜美。そんな格好で寒いんじゃないか?」父は私の制服姿と短いスカートを見て言った。

 「大丈夫だよ、靴下長いから」と、私は紺色のハイソックスを穿いた足を軽く持ち上げて言うと、父は呆れた顔をした。「それにまだ上着を着るには早いし、持っていくとかさ張るもん」

 私が言うと「それもそうだな」と父は言った。

 後ろの座席には大きなスポーツバッグが乗せてあった。三泊四日の荷物はこれほどまでに多いのだろうか。たしかに余計な物も入っている。デジタルオーディオプレーヤー、文庫にマンガ数冊、携帯電話と充電器、それにとりあえずトランプとお菓子などを着替えとパジャマ代わりのジャージの隙間に仕舞い込むには至難の業でもあった。そして、思い出した。

 「あ、そうそう、ブレザーの中に着れるようにトレーナーを持ったから大丈夫だよ」

 「そうか。でも、トレーナーを着ても足は寒いだろ」と父はまだ心配そうに私の脚を見た。どうしても短いスカートが気になるらしい。

 「大丈夫だよ。若いから風邪ひかないよ」私は父の心配を気にかけて言った。

 「そうだよな。みんな短いしな」と父は言った。

 車は駅のロータリーに着いた。学年主任の先生が近くに立っているのが見えた。駅の入り口には、すでに到着している生徒が数人いた。これから駅のロータリーに入ってくる車も、殆んどは同じ高校の生徒を乗せているだろう。

 私は車から降りると後部座席のドアを開け、大きな荷物を引っ張りだした。

 「じゃ、行って来るね」私は車を覗き込むようにして言った。

 「おう。お土産は、あんまり無理しなくてもいいからな」

 「わかってるよん」私はドアを締めて、手を振った。父も手を振り返してから車は出発し、ロータリーを出て行った。

 私は駅に向かった。途中で立っていた学年主任に挨拶をした。普段はジャージ姿の学年主任が今日はブラウンのジャケットを着ていた。グレーのスラックスとは少し合わないような感じがしたので、私は自然と笑顔になった。

 「西野んち、いい車乗ってるな」と学年主任が言った。

 クラウンって、そんなにいい車なのかな、と私は思った。

 「あはは、そうですか」と私は笑顔のまま言って、学年主任を通り過ぎた。

 駅の中に入ると、さらに大勢の高校生がいた。これだけ同じ制服を着た高校生が公共の施設である駅に集まっていると、いささか異様な光景だ。

 「亜美。こっちこっち」

 女性の声がした方を振り向くと、ショートヘアーが印象的な絵美がいた。その隣には、すらりと背の高い麻希子が立っていた。

 「おはよう。荷物、重そう」麻希子が言った。

 私は絵美と麻希子が荷物を降ろしている場所に、大きなスポーツバッグを置いた。案の定、絵美も麻希子も綺麗に化粧をしていた。いつもよりもメークが精緻化しているように感じた。きっと早く起きて鏡に向かっていたのだろう。

 「食べる?」と絵美が言いながらポケットに手を入れた。

 「え?もう食べてるの?」私は絵美がポケットから出したチョコレートを見ながら言った。

 「絵美は食べながら来たもん」麻希子が呆れ気味に言った。

 「大丈夫だよ。ちゃんと最終日まで無くならないようにおやつ持ってきたから。とくにチョコレートね」絵美が自慢するかのように言った。

 絵美は学校でも、暇さえあればチョコレートを食べていた。それでいて、太っているわけでもない。いくらチョコレートを食べても太らない絵美が羨ましかったが、その代償として絵美は歯医者へ頻繁に通っているらしかった。

 「亜矢子は、まだだよね」私は言った。

 「うん、まだだよ。ほら亜美も食べなよ」と麻希子は絵美から貰ったチョコレートを私に渡しながら言った。

 私はあまり気が向かなかったが、一口サイズのチョコレートの包みを剥いて口に放り込んだ。すると、甘い味と香りが味覚を刺激し、脳に糖分が回るのを感じた。ちょっぴり眠気が覚めたようだ。

 「ありがとう」と私はお礼を言った。

 「いえ。よかったら、もう一個、どう?」と絵美が言ったが、これ以上食べると逆に眠くなると思ったので、断った。

 「清三中央高校の生徒は整列」学年主任の声が拡声器を伝わって聞こえてきた。生徒達がぞろぞろと学年主任の前に集まっていく。

 「あれ。まだ亜矢子、来てないよ」私は言った。

 「なんか、やばくない?電話してみよ」と絵美は言って、ポケットから携帯電話を取り出した。

 「来た来た。亜矢子!」麻希子が亜矢子を見つけて、手を振った。私と絵美も真似して、亜矢子に向かって手を振った。

 亜矢子は走りながら手に持った大きな荷物を弾ませ、私達に近づいた。

 「お待たせ!みんな早いじゃん。もしかして、気合とか入ってるの?」亜矢子が息を切らしながら言った。

 「早いって、君が遅いんだよ。さ、早く並ぼう」絵美が言った。

 「ちょっと待った。少し、休みたい」と亜矢子は言ったが、私と絵美と麻希子は足早に整列すべき場所に向かった。亜矢子も、ぶつぶつと文句を言いながらついて来た。

 自分のクラスの位置に整列すると、担任の中村が出席を取った。中村はいつもの濃紺の三つボタンスーツを着ていたが、黄色いネクタイだけが、いつもよりも鮮やかだった。中村は四十歳を少し過ぎたぐらいだが、まだ独身であった。いつも穏和で、あまり生徒を叱らない教師だった。

 「先生のネクタイ、目立ってるよ」亜矢子が言った。どうやら私と同じことを思っていたらしい。

 中村の黄色いネクタイ、学年主任のジャケット、絵美と麻希子の少し丁寧な化粧。どうやら修学旅行は、普段とは少し違った一面を見ることができるかもしれない、と私は思った。

 



 私がこの話を佐和子にすると、彼女は顔を近づけ興味を持ったように耳を傾けた。ぬるくなったコーヒーを佐和子は一口飲んだ。

 「普段ジャージしか着ていないのに、修学旅行とかだけスーツを着てくる先生いるよね」と佐和子は笑いながら言った。

 「でもそれが新鮮だったりしない?修学旅行とかのイベントがあると、いつも見られないような服装や仕草、言動などがあったりするの。それが魅力的に見えるというか、忘れられなかったりする」私が言うと、佐和子は頷きながら同意した。

 佐和子は自分にも同じような体験があると、高校の頃の話を始めた。それは、いつもは大人しい男子生徒がクラスメイトの悪戯で、彼を学級委員長に推薦するというものだった。ところが、いざその大人しい男子生徒が学級委員長に選ばれると、今までには見られないような発言、統率力、責任感を見ることができたということだ。そして佐和子は、そんな以外な一面に魅力を感じたということらしい。私は、それと同じようなことだと言った。そして私は再び自分の話をすることにした。

「本当は、あまりこの話をしたくはないんだ」と私は言った。

 今まで楽しそうに微笑んでいた佐和子は以外そうな顔をした。

 「何で?修学旅行で嫌なことでもあったの?」佐和子は少し心配そうな顔で私を見た。 

 私は死んだクラスメイトの話をするには、どうしても高校で行った修学旅行の話を聞いてほしかった。ただ、その話をするには悲しみを抑え、とても勇気のいることだった。


 


 清三中央高校一同は改札を抜け、電車に乗り込んだ。誰もが乗り遅れないように、普通列車に慌てて乗り込み、列車内は清三中央高校の制服を着た生徒で一杯になった。まだ通勤時間には早いのか、他の乗客は見渡すかぎり誰もいなく、まるで貸切状態のようだった。

 清三中央高校の修学旅行は慣例として、二年生の秋に行われる。関東郊外に位置する清三中央高校の修学旅行は、指定された最寄りの駅に集合。そこから普通列車に乗って東京駅に向かい、東京駅から新幹線に乗る。行き先は、毎年若干異なるが、大抵は西日本方面。関西から中国、四国方面になることが多い。今年も大阪経由、岡山への三泊四日の計画に収まった。

 「ああ、ダルくなってきた」亜矢子がくねくねと身体をくねらせながら言った。

 車内は満員で、私と亜矢子、絵美、麻希子は立ち乗りの状態になってしまった。このまま、あと三十分は立っていなければならなかった。

 「我慢、我慢。新幹線に乗れば、座れるよ」私は亜矢子に言った。

 「チョコ、食べる?眠気、覚めるよ」と絵美がポケットに手を入れながら言った。どうやら絵美の場合、疲れているときや眠いときには、まずチョコレートのことが頭に浮かぶのらしい。

 「うんん。新幹線に乗ってからでいい」亜矢子は絵美のチョコレート断った。

 車内から男子生徒の笑い声が聞こえた。笑い声のするほうを見てみると、男子生徒同士の会話が盛り上がっているようだった。近くにいる女子生徒のグループも会話で盛り上がっている。しかし、少し離れた所にいる生徒達は黙っている。座席に座れた生徒に至っては、既に眠っている生徒までいる。

 こうして見ると、会話で盛り上がる生徒と眠っている生徒は、まるで正反対の行動を取っているように見える。きっと修学旅行に対する捉え方の違いなのだろうか。盛り上がっている生徒は修学旅行を楽しみにし、眠っている生徒は面倒な行事だと思っているといった単純なことではないにしても、ここまではっきりと別れてしまうものなのかと私は思った。いや、きっと早朝だからに違いない。時間が経てば眠っている生徒も騒ぎ出し、新幹線の中では、今よりももっと賑やかになるだろう。

 私は麻希子のほうを見た。麻希子は電車に乗ってからずっと黙って窓の外を眺めていた。それは気だるそうにしている亜矢子や、時々鼻歌を唄う絵美とは異質の表情に見えた。どうしてだろう、と私は思ってずっと麻希子を見ているとその原因がわかった。動きがない。まったく動きがなく、ただ窓の外を眺めているのだった。首も脚も動かさずに、ただ吊り革に捕まり、電車の揺れに身体をまかせていた。

 人間が動かないとは、これほどまでに異様なのだろうか、と私は思った。それとも、そう思うのは私だけなのか。絵美や亜矢子はきっと気づいていないのだろう。私は何故か不安になり、麻希子に話しかけずにはいられなかった。

 「あの、ねえ、写真撮っとかない?」私は言って、カメラ付き携帯電話を取り出した。「麻希子もこっち向いて」と私が言うと、麻希子は我に返ったように振り向いた。

 「え、こんな所で撮るの?まだいいよ。あっち行ったら私のデジカメで撮ってあげるからさ」亜矢子が言った。

 「うん。でも、ちょっと旅行の記録として、頻繁に撮っておこうと思ってさ」と言いながら私は携帯をカメラモードにした。

 「そういうところ、亜美ってマメだよね。まいいけど、ちょっとまだ気分がのってないから、不機嫌な顔に写っちゃうかもよ」絵美が言った。

 「うん、そんな不機嫌な顔も思い出になるよ」私は言った。

 「そうだね。うん、撮ろう。さ、亜矢子も近寄って」と麻希子は言った。麻希子は窓の外を眺めているときの無表情から一転して、穏やかな顔になっていた。

 「じゃ、行くよ」と私は言ってシャッターを押した。シャッター音が鳴り響いたが、誰も気にかける者はいないようだった。

 「どれどれ、見せてみん」と絵美が私の携帯電話を覗きながら言った。「あれ、なんか写ってないよ。ぼやけてる」

 私は写した画像を見た。確かに写りが悪い。ぼやけているというより、白い霧のような物が薄く覆い被っているような感じだった。

 「あ、本当だ。別にいいよ。ちょっとポーズ悪かったし。もう一枚いっとく?亜矢子が戯けるように言った。

 「ちょっと暗いんじゃない?やっぱり明るくなってから撮ろうよ」麻希子は私に向かって言った。

 確かに車内は薄暗かった。携帯電話のフラッシュでは限界があるかもしれない。それにホテルに着くまでは、携帯のバッテリーを切らすわけにはいかない。

 「そうだね。じゃあ、後でいいや。お騒がせしてすみません」私が言うと、みんな笑いながら納得した。

 私はもう一度、撮った画像を見た。写りは悪いけど、ま、いいや、とりあえず記念としてとっておこう、と思い、画像を保存し携帯電話をポケットにしまった。とりあえず時間を稼げた。黙って電車に乗っているよりは、少しでも会話をしたほうが時間は短く感じる。と思って亜紀子を見たら、再び亜紀子の体が気だるそうにくねくねとしていた。やれやれ、と思ったが、そろそろ私もずっと立っていることに疲れてきた。

 列車内に、まもなく終点上野、というアナウンスが流れた。それを聞いた生徒達によって車内がざわついた。やっとこの電車から出れると私は思った。私は少し歩きたい気分になっていた。




 電車から出ると外の外気に直接触れ、私は身震いした。これから山手線に乗り東京駅に向かうことになる。清三中央高校の生徒は団体で上野駅を移動した。列車の中の暖房で悶々としてい思考回路が、外気に触れながら歩くことで眠気が覚め、少しばかり快活になった感じがした。すでに上野駅には清三中央高校以外にも、多くの人が行き交っているが、電車内の二酸化炭素の量に比べれば苦にならなかった。一緒に歩いている絵美と麻希の会話も一層弾み、疲労気味だった亜矢子も元気になっていた。

 「おお、やっぱり東京駅はでかいよな」私達の目の前を歩く三人組の男子生徒が言った。

 男子生徒は大きなスポーツバッグお持ちながら、何故か三人とも大きなリュックも背負い、三人とも眼鏡をかけていた。

 「東京じゃなくて上野だよ」亜矢子が小さな声で言うと、私達は密かに笑った。

 男子生徒の一人が他の二人と少し離れると「おい、ちゃんとついてろよ」と一人の生徒が言った。どうやら迷子になることを怖れているようだ。三人の男子生徒は肩が触れ合う位に寄り添いながら歩いていた。

 「東京駅だったら有名人に会うかもしれないって、母ちゃん言ってたよ」二番目に背の高い男子生徒が言った。

 「そうだよな東京駅だもん」と違う男子生徒が言うと、三人はきょろきょろと辺りを見渡しながら歩きだした。

 「だから上野だってば」亜矢子がまた言って笑った。

 「でも、有名人に会った時の反応も見てみたいよね」絵美は言った。

 どうでもいいけど白い運動靴はいてくんなよ、と私は密かに思った。前を歩く男子は、まるで昨日かったばかりのような真っ白い運動靴を三人お揃いではいているのだった。濃紺の制服に真っ白い運動靴が一際光って見えた。みんな気づいてる?と私は絵美や麻希子、亜矢子を見たが、彼女達はそこまで気づいていないようだった。

私達が山手線のホームに着くと、先に到着した多くの清三中央高校の生徒が、ちょうど到着した山手線に乗り込むところだった。

 「やっべぇ」と前を歩いていた三人の眼鏡をかけた男子生徒が走り出した。

 三人が山手線のドアの前に走りこむと、非情にも列車のドアは三人の前で閉まってしまった。

 「あ、どうしよう」一人の男子生徒が言うと、三人は走り出した山手線を悲痛の表情で見送った。すると違う男子生徒が走り出した山手線の列車を必死に追い駆けだした。残る二人の男子生徒もそれを追いかけた。大きなスポーツバッグとリュックが重たそうに揺れ、ずれた眼鏡を直すこともせず、一心不乱に走っていた。

 「あっちゃ……」私は言った。

 亜矢子は目を手で覆い、麻希子は呆れ、絵美は他人の振りをしていた。

 「おいっ!同じ電車がすぐにくるから大丈夫だって言っただろ」男の声がした。

 走っていた男子生徒の動きはぴたりと止まった。私は声がした方を見た。グレーのスラックスにブラウンのジャケットを着た学年主任だった。私は学年主任が穿いているグレーのスラックスに目がいってしまい、笑ってしまった。学年主任は笑顔で見ている私を見つけ、近寄ってきた。

 「やっぱり西野はいい家に住んでるから落ち着いてるな」学年主任は言った。

 「えっ?あ、そうですね。あはは」私は無理して笑顔を崩さずに言うと、学年主任は眼鏡三人組に向かって歩いて行った。

 「あれ?亜美んち、いい家だっけ?」麻希子が不思議そうに言った。

 「うんん。なんか、クラウンに乗って駅まで行ったら、そう思われた」私は言った。

 「単純。って言うか、クラウンとレクサスの区別がつかなかったんじゃない」絵美が呆れながら言った。

 「でも亜美、学年主任に顔、覚えられちゃったね」亜矢子が言った。

 私の名前を知っているということは、元々顔も知っていたのだろう、と私は思った。とりあえず、学年主任と限らず廊下などで教師に会った時にはちゃんと挨拶していた。挨拶もしないで素通りする亜矢子とは違うのだよ。

 新たに山手線が到着した。眼鏡三人組は乗り遅れないように慌てて乗車した。大きなリュックを他の乗客が邪魔そうに見つめている。私達も後に続いて乗車した。

 山手線はすでに通勤客や登校する中学生や高校生が数名いた。その中に大きな荷物を持った清三中央高校の生徒が列車内を占領するかのように乗車していた。生徒達はとりあえず場をわきまえているのか、無駄な私語を慎んでいた。車内に、次は秋葉原、のアナウンスが流れた。

 「秋葉原だってさ」眼鏡三人組の一人が嬉しそうに言った。沈黙は眼鏡三人組が破ったのだ。

 「秋葉原って、あの秋葉原だろ」一人が言う。

 「当たり前じゃん、あの秋葉原だよ」もう一人が言う。

 「萌えー」一人が言う。

 「萌えー」三人で合唱……。

 私は無駄だとは思いつつも、他人のふりをした。同じ列車に乗った他の男子生徒も眼鏡三人とまったく同じ制服を着ていながら、他人のふりをしていた。

 「ここで、降りてみてー」と眼鏡の一人。

 勝ってに降りろよ。

 「今度、来ようぜ」

 「ああ、来よう。行き方、覚えておけよ」

 「大丈夫だよ。東京駅から山手線に乗るだけだから」

 だから上野駅だって。

 「よし、いつか秋葉原で探検だ」

 探検って、何歳だよ。

 「萌えー」

 他人のふり。

 「萌えー」三人で合唱。

 他人のふり。

 他人のふり。

 「一緒に行きたかったろうね」麻希子の声がした。

 他人のふり。

 「亜美?」

 「えっ?」私は我に返った。

 「奈美子だよ。きっと一緒に行きたかったろうな、と思ってさ」麻希子は小さな声で言った。

 絵美と亜矢子は、眼鏡三人組からできるだけ遠ざかろうと少しずつ移動していた。

 「奈美子、入院する前、修学旅行どこに行くんだろうって言ってたことがあるの」麻希子は言った。

 「うん。私も聞いたことがあるよ」私はうつむいて言った。

 「きっと入学する前から、旅行を楽しみにしてたんだろうね」麻希子は外の景色を眺めた。

 「うん。奈美子って旅行が好きだったんだ。よく海外の旅行雑誌とか読んでたよ」私は言ったが、それは何となく違うような気がした。

 奈美子は高校に入学した時には、すでに自分の病気を知っていたのだ。だから、せめて皆と、そして私と一緒に旅行だけは行きたいと思っていたのだ。決して旅行が好きだった訳ではない。ただ私達と修学旅行だけには行きたかったのだ。

 「ほら、私って高校に入ってからしか奈美子のこと知らないけど、亜美って中学も一緒だったんでしょ?」麻希子が言った。

 「うん、小学校から一緒。ずっと友達だったよ」私は言った。

 車内に、次は東京、のアナウンスが流れた。

 「もう、東京駅だってさ」と眼鏡男が言った。

 「早いよな。さすが東京の電車は違うよ」と眼鏡のお友達の眼鏡が言った。

 「東京駅で絶対降りろって、先生言ってたぞ」

 「うん、言ってた。次、降りるぞ。遅れんなよ」

 お前ら、さっきも東京駅って言ってたこと忘れてんだろ。

 絵美と亜矢子は、すでに眼鏡三人組から遠く離れることに成功していた。麻希子は眼鏡三人と絵美と亜矢子の光景を見て、微笑んだ。私も微笑み返す。

 「ずっと奈美子のこと考えてたよ。修学旅行が近づくに連れて、だんだん寂しくなってきた」私は微笑みながら言った。

 今日、奈美子の写真を持ってきた。必ず奈美子も連れて行くと決めていたのだ。そして、写真を持って行くことは、誰にも内緒にしておこうと思っていた。




 佐和子は眼鏡三人組の話では爆笑していた。

 「他人のふりをするのもわかるよ」と言って佐和子はまた笑い出した。「修学旅行は大阪と岡山だったんだね。いいな大阪。私の高校の修学旅行は沖縄だったからな」

 「いいじゃない、沖縄」私は言った。

 「雨で最悪だった。私も大阪で食い倒れしたかったよ」佐和子は笑った。

 「じゃあ、今度一緒に大阪旅行だね」私が言うと佐和子は頷いた。

 「ところで、その奈美子って、亜美の幼なじみ?」佐和子の質問に私は頷いた。

 「とても気が合うというか、一緒にいてとても楽しかった。近くにいても何も気をつかうことがなくて、楽な感じがした。でも尊敬できるところもあった。尊敬できる人なのに、一緒にいて楽な感じ。まあ、子供の頃からずっと一緒にいたからかな……」私の話に佐和子は黙って頷いてくれた。「彼女とはずっと一緒にいたかった。大学生になっても、社会人になっても、住んでいるところが遠くなったとしても。そう思うことってない?理屈抜きで一緒にいたいと思えること」私は佐和子に尋ねたが、佐和子は首を少し傾けただけだった。そして、どうして奈美子さんは修学旅行に行けなくなってしまったの?と佐和子は私に尋ねてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る