第5話「氷のラップが世界を撃つ夜」
風は冷たく、海は静かだった。
それは、嵐の前のような、静寂だった。
今夜、彼女は再びステージに立つ。
それは命を懸けた賭け。
音楽を禁じたこの世界で、「音を出す」という行為は、
“存在を撃ち抜く”ことと同義だった。
場所は前回と同じ海辺の防波堤。
だが今回は、違法でも非通知でもない。
DJが使える限りの古いコードを駆使し、あらゆる手段で告知した。
《今夜、ひとつの“音”が鳴る。
それを聴くかどうかは、あなた次第。》
そんな短いメッセージが、ひっそりと地下ネットに広まっていた。
集まったのは、ほんのわずか。
それでも前より多かった。
その中には、小さな子どももいれば、
かつて音を信じていた誰かの姿もあった。
誰もが静かに立っている。
言葉はない。拍手もない。
ただ、期待と覚悟が、冷たい空気の中に漂っていた。
ICE RHYMERは、マイクの前に立っていた。
ゆっくりと呼吸を整える。
その手は、もう震えていなかった。
DJが、そっと背後でうなずく。
スピーカーが、小さく唸った。
「……ありがとう」
彼女がつぶやくように言った。
それは観客に向けたものか、
隣にいるDJへだったか、
あるいは、自分自身へだったかはわからない。
だがその声は、確かに“始まり”を告げていた。
マイクに口を近づける。
リズムは、ごく小さく、波のようにゆらいでいる。
そして、彼女は話し始めた。
ラップというより、祈りのように。
---
「…この世界に、音がなくなってから、
心がどんなふうに凍っていったか、
誰もちゃんと言葉にしなかった。
でもね、私は今も覚えてる。
音のある日々を。
声を重ねた、あの頃のことを。
それを忘れろと言われても、
私はうまく、忘れられなかった。」
---
彼女の声は、海風に乗ってゆっくりと広がっていく。
観客は、黙ったまま、その言葉を受け取っていた。
---
「音がなくても生きていけるって、
みんな言ってた。
でもね、私は、
音がないと“自分がわからなくなる”って思った。
泣きたいときに、泣けない。
叫びたいときに、声が出ない。
そんな世界で、私はずっと、
心の奥にだけ、小さく鳴る“音”を抱えてた。」
---
彼女は、一度目を閉じた。
胸の奥が、熱を帯びていた。
---
「今日、こうしてここに立てたのは――
信じることを、もう一度選んだから。
壊されてもいい。
捨てられても、笑われても、
それでも私の音は、ここにある。」
---
その瞬間、スピーカーが本格的に鳴り始めた。
乾いたビート。
混ざり気のある低音。
でも、それが彼女の声と混ざると、
まるで心臓のように脈打って聴こえた。
観客のひとりが、静かに拳を上げた。
次に、もうひとり。
そして、誰かが涙を流していた。
その涙は、悲しみのものではなかった。
忘れていた“何か”を思い出す、温度のある涙だった。
その時――またしても、
遠くにパトランプの光が現れた。
誰かが小さく叫ぶ。
観客がざわめく。
だが、ICE RHYMERは一歩も動かなかった。
DJが近づく。
「もういい、逃げよう」
彼女は首を横に振った。
「……これが最後でも、構わない。
でも、これは私の“選んだ音”だから」
---
「私の結末、誰にも決めさせない。
Even rides got pride.
この氷のステージが、私の道しるべ。」
---
彼女が、最後の一節を叩きつけるように言った瞬間、
取り締まりの隊列が止まった。
……いや、止まっていたのは隊列だけではなかった。
隊員のひとりが、マスクを外して立ち尽くしている。
その顔に、光るものが流れていた。
誰かが、彼女の声に――心を撃たれた。
その光景は、誰の想像も超えていた。
逃げる者はもういなかった。
誰もが、その場に立ち尽くしていた。
「音」が、「声」が、「人」を動かしていた。
それは奇跡ではなく、ただ真実だった。
---
夜が終わり、
朝焼けが海の向こうからやってきた。
ICE RHYMERは、マイクを下ろした。
その顔には、涙も笑顔もなかった。
ただ、静かな呼吸と、あたたかい余韻だけがあった。
「……終わったね」
DJが隣で言った。
「いや」
彼女は、そっと答えた。
「ここから、始まるの」
---
ICE RHYMER――
その名は、この朝を境に世界中に知られることになる。
氷のラップで沈黙を撃ち抜いた少女として。
たとえまた、傷ついても。
たとえまた、孤独になっても。
彼女の声が、誰かの心を溶かす限り、
ICE RHYMERは、決して、滅びはしない。
-氷と音とあなた- センダバンダ @sendabanka
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