第4話「砕けた沈黙、交わされた約束」
波の音が遠ざかっていく。
身体が、地面に触れている感覚だけが現実だった。
ICE RHYMERは、目を閉じたまま、息を整えようとしていた。
けれど胸の奥に残っていたのは、微かな音と、焼けつくような痛みだけだった。
路上ライブの夜、
声を上げた直後、彼女は倒れた。
全身に響く電気のような衝撃。
抑制音波――違法スピーカーを検知する鎮圧装置によるものだった。
取り締まり部隊は予告もなく現れ、
警告もなしに制圧にかかった。
その瞬間、誰かが彼女を抱えて逃げていた。
それがDJだった。
「間に合ってよかった」
そうつぶやいた彼の声は、どこか涙に似ていた。
*
目を覚ましたとき、
天井が低く、板の軋む音がしていた。
古びた木造小屋。
潮の匂い。
ひんやりした空気。
ICE RHYMERは、しばらく何も言えなかった。
何かを言葉にすれば、壊れてしまいそうだった。
隣のテーブルには、冷めかけた紅茶が置かれていた。
そしてその向こうに、彼はいた。
DJ。
傷ついた手に包帯を巻きながら、静かにこちらを見ていた。
「悪いな。あんな形になっちまって」
彼はつぶやいた。
「……なんで、助けたの」
ICE RHYMERの声は弱く、震えていた。
「なんで、って……
あんなもん、ほっとけるわけないだろ」
DJは笑いながらも、声がかすれていた。
「音に殺されそうになった人間が、
今さら、音のために命張ってる。
滑稽かもしれないけどさ」
彼は、包帯を巻く手を止めた。
「俺にも、音楽で救われた日があったんだ。
最初にステージに立った夜のことは、
今でも覚えてる。
――だから、お前にも、それを失ってほしくなかった」
ICE RHYMERは、テーブルの縁を見つめた。
そこにある傷は、古く、深かった。
この家にもまた、かつての時間が確かに流れていたことを感じさせた。
「……私ね、
ずっと、誰かを信じるのが怖かった。
また裏切られるんじゃないかって……いつも思ってた。」
彼女は、ゆっくりと拳をほどいた。
その手の中には、震えにも似た熱が残っていた。
「それでも、音だけは……
なぜか捨てられなかったんだ。
たとえ壊れても、奪われても、
また拾ってしまう。
――馬鹿みたいに、何度も」
沈黙が、ふたりの間に落ちる。
それは重くはなかった。
まるで、ようやく息ができる静けさのようだった。
DJはゆっくりと立ち上がり、
古びた引き出しからひとつの箱を取り出した。
中には、古いカセットテープが数本と、
ひび割れた小さなミキサー。
そして――一枚の写真。
そこには、若かりし頃のDJと、笑っている仲間たち。
まだ“音”が自由だった頃の記憶が焼き付けられていた。
「俺も、同じだったんだ。
全部なくしたと思ってた。
誰も信じられなかった。
でも、音だけは――残った。
そして今、お前の音が俺を動かした」
彼は、テーブルの上にその写真を置いた。
「ICE RHYMER。
もう一度、あのステージに立とう。
今度は、逃げない。
今度は、誰かと一緒に――音を出すんだ」
彼女は、写真をじっと見つめていた。
笑っている誰かの顔に、自分を重ねようとしていた。
時間が、ほんの少しだけ、巻き戻るようだった。
「……約束、するの?」
彼女が静かに尋ねる。
「するよ」
DJは即答した。
「次は、守る。
今度は、誰の手も離さない」
ICE RHYMERは、そっと目を閉じた。
頬を伝う涙を、指で拭うことはしなかった。
――溶けていく氷は、
傷ついた心が、またひとつ世界を信じるための代償だった。
窓の外では、まだ風が吹いていた。
けれどその音は、
今夜だけは、どこか優しく聞こえた。
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