第3話「夜を撃ち抜くマイクロフォン」
風が強い夜だった。
鉄骨の隙間を吹き抜けるたび、建物が軋む音がする。
冷たい空気は、街の隅々までを凍らせていた。
音楽が禁じられたこの世界では、夜の静けさすら「正しさ」とされている。
だが今、郊外の古い工場跡。
誰にも知られていないその部屋の中にだけ、
音があった。
ビートは不安定で、ざらついていて、
まるで傷口に指を這わせるような粗さがあった。
それでもICE RHYMERは、その音の中にいた。
言葉ではなく、音に。
感情ではなく、響きに。
数日前から、彼女は毎晩この部屋に通っていた。
DJは機材を調整し、彼女はマイクの前に立つ。
互いに多くは語らなかった。
けれど、そこに“やりとり”はあった。
ICE RHYMERはまだ、誰かのために歌えるほど強くない。
この音は、自分を保つための小さな炎だ。
それでも、少しずつ、変わり始めていた。
ある夜、彼女が歌い終えた後、
DJは静かに話しかけた。
「お前の音、広がってるぞ」
彼女は眉をひそめた。
「噂ってやつは、意外と速い。
お前の歌を聴いて、涙を流したってヤツがいる。
“凍った心が、音で割れた気がした”ってな」
ICE RHYMERは、小さく目を伏せた。
それが嬉しかったのか、恐ろしかったのか、自分でもわからなかった。
この世界に、音を「受け取る」誰かがまだいるという事実。
それは希望でもあり、同時に引き金でもあった。
「…見つかるよ。きっと、すぐに」
彼女はぽつりと呟いた。
DJは笑った。
「わかってるよ。でもさ、誰かが火をつけねえと、
ずっとこのままだろ?」
沈黙が、ふたりの間に落ちる。
遠くで風がまた鉄骨を鳴らしていた。
「今週の金曜、やるぞ」
DJが言った。
「路上で。音出して。お前の言葉を、響かせよう」
「……観客なんていない」
彼女の声は低く、諦めにも似ていた。
「いや、来る。お前の音に、心が動いた奴は、必ず来る」
それは希望ではなく、確信のようだった。
そして金曜日が来た。
夜。海沿いの古びた防波堤。
波の音に混ざって、スピーカーのノイズが漏れる。
金属のスタンドに繋がれたマイク。
照明はない。ただ月が、かろうじて彼女の輪郭を照らしている。
観客は、ほとんどいなかった。
数人の子ども。顔を隠した男。
フードを被った女の子。
それだけ。
それでも、ICE RHYMERはマイクを握った。
手は冷たく、心臓は静かに暴れていた。
――なぜ私は、歌うのか。
もう答えなんていらなかった。
ただ、今夜は「言葉にする日」だと、身体が知っていた。
マイクに口を近づけ、彼女は語り始める。
誰かの心に、届くかどうかなんてわからない。
それでも、今夜ここに立つ意味は、
確かに、自分の中にある。
「……これは、私の戦いじゃない。
ただ、生きてるってことの、証明。」
音は、風に流されながら、
海の上を滑っていった。
最初は誰も反応しなかった。
けれど、やがてひとりの子どもが拳を上げた。
それにつられて、フードの少女が小さく拍手を打った。
目の前にいた観客が、立ち上がった。
彼女は目を閉じたまま、声を重ねていく。
「音楽」という言葉を使わなくても、
そこに“魂”があると、人は感じてしまうのだ。
突然、後方でパトランプが回る。
取り締まり部隊。
来た。
だが、観客は逃げなかった。
誰かがスピーカーの前に立ち、
別の誰かが彼女の前に腕を広げる。
守られている。
“音”が守られている――
胸の奥で、何かが砕ける音がした。
それは恐怖ではなく、
ずっと凍らせていた“何か”だった。
彼女は叫ぶように、最後の一節を吐き出した。
「これは、誰のためでもない。
私が、私であるために歌うんだ。」
海風が、その声をさらっていった。
ICE RHYMERは、その夜、
“音”と“存在”を、初めて世界に刻んだ。
そして、世界もまた、わずかに揺れた。
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