第2話「落ちぶれDJと氷の少女」
車内は、静かだった。
バンは古びていて、あちこちが軋んでいる。
エンジンの音もどこか不安定で、音楽禁止のこの時代では、逆に“音がうるさい”乗り物だった。
けれどICE RHYMERは、その微かな振動をじっと感じていた。
不快ではなかった。不思議と、落ち着く音だった。
助手席の彼女は、まだ言葉を発していない。
後ろの荷台には、壊れかけたスピーカーや、古いミキサーが無造作に積まれている。
その隙間に、小さな赤いランプが灯っていた。
懐かしい、録音機材のランプ。
かすかに、そこから何かが鳴っていた。
男は運転席からちらりと彼女を見て、フロントガラスに視線を戻す。
「……逃げなかったんだな」
独り言のような声だった。
ICE RHYMERは答えなかった。
けれど、逃げなかったのは事実だった。
「ラッパー、なんだろ? 名前は聞かない。
でも、お前の音は“生きてる”って感じがした。
この国でそれ、珍しいことなんだぜ?」
その言葉に、彼女はほんの少しだけ眉を動かした。
「音が生きてる」
あまりにも久しぶりに、他人の口から聞いた言葉だった。
「…あなた、元DJって言ってた」
初めて、彼女が声を発した。
その声は冷たく、掠れていたが、
静かな深さがあった。
「俺の名前は誰も覚えてねぇよ。
ただの‘過去の音’さ」
男は笑った。
かつて、彼はトップに立っていた。
時代の先を走るビートメーカーとして、
違法クラブシーンの伝説とまで呼ばれた。
だが、摘発は突然だった。
自分を慕っていた仲間の裏切り。
機材は壊され、データはすべて消され、
彼の音は、過去のゴミとして捨てられた。
「俺もさ、一度はもう“音”なんて終わったと思ったんだ。
でもな、お前の音を聴いた時、思ったんだよ」
バンが小さなトンネルに入る。
ヘッドライトがコンクリートの壁を照らすたび、車内の影が伸び縮みする。
「まだ終わってない」
男はそう言った。
言葉に熱はなかったけれど、
その静けさが逆に、確かだった。
バンは郊外の古い工場跡に停まった。
鉄の扉を開けると、そこには小さな部屋があった。
ボロボロの床。埃だらけのスピーカー。
でも、中央にだけ、真新しいマイクスタンドが置かれていた。
「ここ、誰にも知られてない。
地下ネットも届かねぇし、音漏れもしない。
安心して、鳴らせる場所だ」
ICE RHYMERはその部屋をゆっくりと見渡した。
色も音もない世界で、ここだけが時間から外れているように思えた。
「歌えとは言わねぇ。
でも、お前の中にまだ“音”があるなら、
ここで、置いてってみろよ。
誰かのためじゃなくていい。
自分のために――な」
男はそう言って、背を向けた。
彼女の返事は、なかった。
けれど次の瞬間。
彼女は、ゆっくりとマイクの前に立った。
静かに、深く、呼吸を整える。
音楽は禁止された世界で、
今、誰にも知られず、ひとつの「始まり」が生まれようとしていた。
彼女の瞳に、遠い記憶がよぎる。
小さな手で叩いた机のリズム。
母が口ずさんでいた歌。
父の録音機材の匂い。
もう戻らない、消えた日々。
でも、その欠片が、今も胸に残っている。
――これは誰にも奪えない。
やがて、部屋の中に低くて柔らかいリズムが流れ始める。
DJが手を伸ばし、古いスピーカーを叩いて調整する。
ノイズ混じりのビートが、まるで埃をかぶった心をノックするかのようだった。
ICE RHYMERの口が、静かに開く。
言葉は、歌ではなかった。
それは、ただ静かに降る雪のように、
けれど確かに世界の輪郭を変えるような「声」だった。
胸の奥にしまった感情が、
少しずつ音になっていく。
氷が、ゆっくりと溶け始めていた。
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