-氷と音とあなた-
センダバンダ
第1話 [音のない街、声をなくした少女]
静けさが、街を支配していた。
音楽が禁じられて久しいこの世界では、
笑い声すら、どこか遠慮がちだ。
昔は、この街にも歌があった。
カフェから漏れるメロディ、
子どもたちが口ずさむアニメの主題歌、
家々の窓から流れるピアノの音。
それらは、今ではすべて“違法”とされている。
感情を刺激し、統制を乱す――
そう断じられ、音は奪われた。
人々は沈黙の中で呼吸し、
心を凍らせて日々をやり過ごしている。
音があると、人は動き出してしまう。
希望を思い出してしまうから。
けれど、その冷たい街の奥底で、
今夜もひとつの鼓動が、小さく鳴っていた。
地下鉄跡のさらに奥、
使われなくなった排気トンネルを抜けた先に、
ひとつの“スタジオ”がある。
防音材を貼りつけた壁、古びたスピーカー、
錆びたミキサー、そしてひとつのマイク。
照明はなく、代わりにLEDの青白い光が揺れている。
その中央に、彼女はいた。
“ICE RHYMER”。
誰も本名を知らない。年齢もわからない。
ただ、夜になると現れては、音を紡ぎ、消える。
この世界で、音を「生かす」数少ない存在。
少女とも、亡霊とも言われている。
彼女は、マイクの前に立つと、
静かに目を閉じ、深く息を吸った。
機材の奥から立ち上るリズムは、
まるで、息を潜めた心臓の鼓動のようだった。
彼女の唇が、わずかに開く。
――音がなくなって、
心の中でだけ、まだ何かが鳴っていた。
それが何かは、うまく言えない。
ただ、確かにあった。
目を閉じると、聞こえる。
かつて誰かが奏でてくれた音。
笑い声。
ピアノの音。
母のハミング。
それが幻だとしても、
私は、忘れない。
忘れたくない。
だから、こうして今も、
ここで音を立てている。
誰にも気づかれないように。
誰か一人にでも届くように。
彼女の声は、氷のように静かで、
けれどその奥には、燃え残るような想いがあった。
それを“ラップ”と呼ぶ者もいたが、
本人は名乗ることすらしない。
ただ、そこに「あるもの」として、音を放つだけ。
セッションを終えると、彼女はマイクを外す。
拍手はない。歓声もない。
聴いていた者たちは、ただ黙ってうつむき、
時折そっと涙を拭うだけだった。
その沈黙こそが、彼女への最大の敬意だった。
ICE RHYMERは、誰とも言葉を交わさない。
目も合わさない。
独りで現れ、独りで去っていく。
彼女は、世界からすべてを奪われていた。
家族も、友だちも、居場所も。
かつて音楽を愛していた父と母は、
ある日突然、警告もなく連行された。
「音楽をしていた」ただそれだけで。
家に残された幼い彼女は、何もわからないまま逃げ、
名前も過去も、すべてを切り捨てて生きてきた。
音楽は彼女を傷つけた。
でも、それでも――
唯一彼女を「生かした」のも、音だった。
その夜、彼女はいつものように、
地下トンネルの扉を閉め、外へ出た。
都会の冷えた空気が肌を刺す。
静かな夜道。
信号も、街灯も、無機質に瞬く。
通りすがる人々の顔に、表情はない。
そんな中、彼女は異音に気づく。
少し先、路肩に停まった錆びたバン車。
窓を開けた運転席から、男が顔を出していた。
「乗ってく?」
あまりにも唐突で、馴れ馴れしい口調。
思わず立ち止まり、睨むように見る。
「お前の音、聴こえたんだよ」
男はそう言って、フッと笑った。
だが、その目には、
なぜか懐かしい“光”が宿っていた。
「名前なんて、今さらいらないだろ?
昔はDJだったけど、
今はただの壊れたスピーカーの整備士さ」
彼女は、何も答えなかった。
ただ、立ち尽くす。
その手の中には、今もなお、熱の残るマイクがあった。
「お前の音、ちゃんと“意味”がある。
この世界で、まだ鳴ってる音は少ない。
だからさ――
俺が、お前の音を、導いてやるよ」
助手席のドアが開いた。
彼女はしばらく無言のまま、
遠くに広がる街の灯りを見ていた。
――これは罠かもしれない。
誰かに売られるかもしれない。
すべてが嘘かもしれない。
それでも。
ほんの少しだけ、胸の奥が温かかった。
久しぶりに、何かが「動いた」気がした。
ICE RHYMERは、静かに歩み寄り、
黙ってバンの中へと乗り込んだ。
あの日、心に閉じ込めていた氷が、
少しだけ音を立てて、割れた。
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