ワタシを宿しモノ達へ

@AK13

第001話 命が名を持つ夜

白く静かな空間に、わずかに消毒液の匂いが漂っていた。

午後の光がレースのカーテン越しに差し込み、病室の壁に淡い影を揺らしている。


彼女はベッドの上で浅く息をしていた。腹部の大きな膨らみが、命の重みをそのまま示している。何度目かの陣痛の波が去り、額の汗をタオルで拭きながら、彼女は窓の外をぼんやりと見た。


「もうすぐ、会えるのね……アム」


彼女の声はかすかだったが、確かに愛おしさが滲んでいた。

名前はずっと前から決めていた。けれど、その名がこの世界に何をもたらすのか、彼女にはまだ知る由もなかった。


ナースコールの音とともに看護師が入ってくる。優しく声をかけられるたび、彼女の不安は少しだけ和らいだ。とはいえ、それはあくまで「母」としての不安であり、「前行アムの母」としての覚悟ではなかった。


夜風が、夏の匂いを連れてきていた。

窓の外、遠くの空がかすかに赤く染まっているのは、夕焼けか、あるいは……祭りの火だろう。


センは病院のベッドの上で身を丸めるようにしながら、息を整えていた。陣痛はまだ遠いが、身体はもう「その時」が近いことを告げていた。


「……タケル、間に合うかな」

センは、膨らんだお腹にそっと手を当てた。

彼女にとって、この子を産む瞬間に、彼がいないという選択肢はなかった。


「このあと、行ってみっか?祭り」

陽が沈みかけた山間の町。タケルと大男・ゴウは仕事を終え、トラックの荷台を締めながら軽口を交わしていた。


ゴウは背が高く、腕も太く、見た目はごついが、人懐っこい笑みが絶えない。どこか田舎の兄貴分のような雰囲気だった。


「祭り、か……」

タケルはスマホを見つめたまま、小さく呟いた。センからの連絡はまだないが、そろそろだと感じていた。


そして次の瞬間、ポーン、と軽い音と共に空気が弾けた。

柔らかな光が空間にほころびを作り、そこから一人の少女がふわりと現れる。


「お待たせっ」


ランだった。白いワンピースに小さな鞄、長いまつ毛と人懐こい笑顔。彼女がそこに立っただけで、その場の空気が明るくなった。


「センさんが、待ってるよ!」

ランはタケルの手をぐいっと引くと、ゴウに向かって笑顔でぺこりとお辞儀をした。

「ゴウさん、ちょっとタケルさん借りまーす」


「お、おう……」

言葉を返すより早く、ランの作る光の裂け目に二人は吸い込まれるように消えた。


――しん、とした静寂が残る。

ゴウはぽかんと立ち尽くし、やがて笑って頭をかいた。

「……やれやれ、華があるってのは、ああいう奴のことだな」


それから数分後。再び、同じ音と共にランが戻ってくる。

「ふぅ〜、送り完了っ! ねえゴウさん、一緒にお祭り行かない?」


「え? オレと?」 大男の眉が跳ね上がる。


「タケルさんとセンさんのこと、気になってるでしょ?でも、いまはもう信じて見守る時間。だから……お祭り、行こっ?」


ゴウは目を細めて笑った。

「……そうだな。ひとりより、にぎやかなほうがいい」


街では太鼓と笛の音が鳴り響き、赤提灯の下に笑顔があふれていた。

ランとゴウは人波に混ざり、焼きそばを分け合い、射的を楽しんだ。ランが笑うたびに、ゴウの表情もどこかやわらかくなる。


――病院


「もうすぐよ、アム……来て……」

センは何度も息を吐き、眉を寄せながら汗を拭った。

陣痛は頂点を迎え、今にも新たな命がこの世界へ飛び出そうとしている。


傍らにはタケルがいた。間に合った。

強く握る彼の手に、センは静かに微笑んだ。


「ありがとう、来てくれて……あなたと、いっしょに、この子を……」


遠くから花火の音が聞こえる。街の祭りが最高潮を迎えている合図だ。

が、それがどこか、不安を含んだ響きにも感じられた。


そのときだった。


病室の廊下の影から、一匹の黒い狐が静かに現れた。 艶やかな毛並みと青の瞳を持つその狐は、音もなく病室の扉の前に座る。


――誰にも気づかれないように。


扉の隙間からこぼれる産声。

その音を聞きながら、狐は一歩も動かず、静かに目を細めた。


(この子が……アム)


言葉はない。ただその存在が、確かに“見守る”意志を宿していた。


その瞬間、空気がふっと波打つ。

病室の観葉植物が花を咲かせ、カーテンが揺れ、看護師の鼓動が一拍だけ乱れる。


黒い狐は、静かにその場を離れた。


誰も気づかない。


この世で最も静かで、最も強い“守り手”が、そこにいたことを。


――祭り会場


太鼓の音とともに、白装束を纏う祭時ミコトが現れる。

預言者にして、神の器。


彼女は未来詠の才によって、すでにこの夜の全てを見ていた。


(ゼノン、あなたはこの町を)

(モルモン、あなたはアムを)

(私は……未来を託す)


彼女の眼差しは夜空の先を見据えていた。


「この地に、百年の節目が巡り来た。それは大預言の日である」


大太鼓の響きとともに、未来が開かれる。


「神の器、十三の影が揃うとき、光は裂け、命は試されるーーその名をーーアム。前行アム。生命を宿ししモノ」


その瞬間、空が裂ける


紫の裂け目。黒い羽。異形の悪魔。


人々が叫び、逃げ惑う中、ゴウとランが立ち上がる。


「守らなきゃ、この場所を。アムが目覚める世界を、綺麗なままで迎えさせなきゃ」


その夜、世界が大きく動き出した。

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