第5話 暗殺訓練とダンスレッスンって両立大変!!

「……助けて……もう、ここから出して……」


 狭いトイレの個室。あんこは震える指で、扉の内側を掴みながらそう呟いた。

 誰に向けて発しているのか、自分でもわからなかった。


 思い返すのは、あの"夢のスタジオ"に足を踏み入れた直後の出来事だった。


 スタジオと呼ばれた場所は、表向きは簡素な防音設備の整った小部屋だった。

 防音ガラスと遮音パネルで囲まれ、外界の音も届かなかった。

 まず案内されたのは、その一角にある4畳半ほどの個室だった。


「あんこちゃん、何歳?」

 みこが屈託のない笑顔で尋ねてきた。


「に、21歳……です」


 震える声で答えると、みこはケロッと笑った。


「そっか〜、じゃあ法令的には大丈夫。

 でも捜索願とか出されると困るから、家族とかにはちゃんと連絡しといてにぇ」


「……え、え? どういうことですか?」


 言葉が飲み込めずにあたふたしていると、横から夜街れいせいが説明を補足してきた。


「書類に書いてあったでしょ? 一か月はスタジオで特訓合宿。外出禁止よ」


 ——そのとき、あんこの頭に、ようやく冷や汗が走った。


(契約書……読んでない……!!)


 夢に浮かれて、ページをめくることさえしなかった自分を殴りたかった。

 書類の罠は、最初から仕組まれていた。


「ああああああああああっ!!」


 スタジオの白い壁に向かって叫ぶ自分の声が、反響した。



 その後、あんこは静かに携帯を取り出し、みこの目の前で電話をかけるふりをした。

 もちろん、実家に電話などできるわけがなかった。


 あんこの母親は、過保護で、潔癖で、そして—異常なほどに娘を"普通の人生"に押し込めようとする女だった。

 もし、こんな状況が伝われば、家に閉じ込められ、一生VTuberなんて言葉すら禁句にされるだろう。


「……母から、許可取れました」


 震える笑顔。嘘を飲み込む喉の奥が焼けるように熱かった。


 それを聞いて、夜街はさらりと言った。


「じゃあ、携帯は没収ね」


 一瞬のうちに、唯一の外との繋がりが消えた。


 (ああ……ネット……

 わたしの世界……唯一、わたしがわたしでいられる場所が……)


 けれど、それすらも今は無力だった。



 そこからの生活は、夢でも舞台でもなく、訓練という名の牢獄だった。


【日中:アイドル訓練】

 朝6時起床。

 スタジオ内のスピーカーから爆音で鳴り響く、"おはようソング"で強制的に叩き起こされた。


 まずは発声練習。腹式呼吸、滑舌、ピッチトレーニング。

 地獄のような音階ループを繰り返し、喉が枯れるまで歌わされた。


 その後は、ダンスレッスン。

 トレーナーの名は"カツラギ先生"と呼ばれる筋肉の塊のような元プロダンサー。


「動きが甘いッ!」「笑顔が死んでるッ!!」

 毎日、怒号が飛び交い、鏡の前で何百回と振り付けを繰り返した。


 昼食の時間は30分だけ。

 プロテイン入りのパンと、味のないスープ。


 午後は配信練習。

 模擬配信ブースでテンションの維持、トーク力、コメント読み、キャラ作り、笑いの間。

少しでも"素"が出ると、横から電気スタンガンでビリリと罰が飛んできた。


【夜間:暗殺訓練】

 午後6時以降は、照明が赤に変わる。

 そこで始まるのは、もう一つの"職務訓練"。


 最初は走る訓練から。

 狭い通路を全力疾走、立ち止まったら背後からゴム弾が飛んできた。


 次に武器操作。

 ナイフ、ワイヤー、スタンガン、催涙ガス。

 "ターゲットの殺し方"を、朝のアイドルスマイルと同じ熱量で叩き込まれた。


 深夜1時、就寝。

 狭い部屋、監視カメラ、鉄のドア。

 壁に手を添えて祈るように眠るのが、やっとの毎日だった。



 こうした二週間におよぶ、光のない訓練生活。

 朝から晩まで、夢も現実も混濁したあの地獄に、けれどついに——


 救いが現れた。


「あんこ。」

 夜街れいせいが、廊下の影から静かに呼んだ。


 白のトレーニングウェアの袖をまくりながら、クールな瞳で言った。


「山郷社長が呼んでるから。

 ……デビューの話、するから」


 その言葉に、あんこは一瞬、世界が止まった気がした。


「……えっ、デビュー!?」


 頭の中で花が咲いたようだった。


 (ついに、ついに、きた……!)


 思わず口元が緩み、涙腺が崩壊した。

 この半月、血を流し、骨を痛め、声を枯らしてきた努力が、ようやく報われるのだ。


 (ついに……私にも、“V”世界での見た目、中身、キャラが与えられる日が——!)


 足取りは自然と軽くなっていた。

 笑顔が抑えきれない。まるで、子どものように。


 スキップしながら、あんこは夜街れいせいの後をついていった。


 やがて、スタジオの最奥にある重厚な木の扉の前に立つ。


(この先に……)


 ——夢がある。

 ——希望がある。

 ——“あの世界”への入り口がある。


 夜街がノックもせずに扉を開けた。


 中には、一人の男がいた。


 黒いソファに深く沈み込み、渋い色のスーツを着て、手元の書類を見ていた。


 ——山郷社長。

 あの、ニジライブのトップ。

 数々の人気Vを生み出し、伝説と称されたプロデューサー。


 彼が、あんこの目の前でゆっくりと顔を上げた。


「……津島さん」


 あんこの胸が高鳴る。


 社長は少し口を開き、静かに言った。


「——デビュー、遅くなってもいいですか?」


 ……


 ……


 時が止まった。


 あんこの心に、黒い氷柱が突き立つ。


 (え……?)


 目の前がゆがんだ。

 その瞬間、すべてが音を失った。

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