夏霞

夜賀千速

光の少女

 今よりももっとずっと前、地球が生まれるよりも昔、僕が少年だった頃。


 星は灯りで、きみは光でした。きらきらと降ってくる星粒も流れる光も、ぜんぶふたりだけの世界にあって、ぜんぶふたりだけのものでした。僕ときみはふたりでひとつでした。僕がきみの片割れだったこと、今となって覚えているのは僕だけでしょう。



 ◇



 どうしようもなくきみに会いたくなってしまった僕はある夏、きみの暮らす街へと降り立ちました。きみが数えで十五になるころだったと思います。神さまの世界で僕のしたことは、大きな禁忌とされていました。


 それは、ある七月七日のことでした。

 きみと同じ目線で地上に立てたことがあまりに嬉しかった僕は、どこなのかも分からない裏路地でステップを踏んでいました。灼熱の気候に嫌気が差しながらも、この星に降り立てた嬉しさのあまり、陽気な踊りを踊っていたのです。

 すると交差点の向こうで、ひとりの女の子が俯いて歩いているのが見えました。その流れるような黒髪を見て、あ、星だ、と僕の心は言いました。この子が僕の片割れかと、心臓が震え立つのが分かりました。

 その女の子はふらつきながら、駅の方に向かっていきました。追いかけるようにして駅のなかへ入っていくと、その子の服のポケットから切符が落ちるのが見えました。

「あの、これ」

 僕は拾った切符を手渡して、すかさずきみに声をかけました。

 あ、ありがとう、そう言って振り返ったきみの瞳の光は、今すぐ消えてしまいそうなほどに揺らいでいました。僕はきみのその灯に、息を吹き込まなければならないと思いました。

 茹るような暑い熱風が通り過ぎて、視界がゆらりと霞みました。同時に、これが恋かと思いました。

「……どこか行くの?」

「……」

「うん。遠くの海に、行こうと思って」

 少しの間があって、きみは諦めたように言葉をこぼしました。どこか乾いた、苦しそうな声色でした。その表情があまりに悲痛だったので、僕はきみの手を掴まずにはいられませんでした。

「僕も一緒に、行っていいかな」

「うん」

 僕の言葉に、きみは深く頷いてくれました。

 それは運命の引き合わせでした。一日を過ごすうちにきみの心の放つ光が、少しづつ僕に向いていくのが分かりました。それもそのはずです、僕はきみの片割れで、元々ふたりでひとつだったのですから。

「ここから一時間くらい行ったところに、綺麗な海岸があるの」

 きみの長い髪から夏の香りがして、その瞳の向こうに群青を見ました。かき乱された僕の心が、正常なリズムを取り戻すことは終ぞありませんでした。


 電車を降りると、そこには青く澄んだ水面が広がっていました。さざなみの反射光が目に届いて、息を吸うと胸が苦しくなりました。だけどその痛みさえ、きみの隣では心地良いと思えました。

「綺麗」

「そうだね」

 短く言葉を交わして、きみは波の方へ歩いていきました。遠くのアスファルトに見える蜃気楼が夢のようで、引いては打ち寄せる波が記憶のようで、僕はこの瞬間を生きるために生まれてきたのだと、そう強く思いました。

「夕焼けまで、ここにいてもいいかな」

「うん」

 太陽に照らされたきみの横顔を盗み見ると、長い睫毛が濡れているのに気がつきました。

 どうしたらいいのか分からなくなった僕は遠くの海を眺めるままに、そこにあったきみの手に触れました。僕はきみと手をつなぎました。かすかな体温と脈が湿る肌を通して伝わってきて、僕の心は大きな火傷を負いました。僕ときみはお互いを求めあうようにその日を、短い夏を生きました。静かな夕凪の中、遠くの踏切から遮断機の音が響いていました。


 いつまでそうしていたのか、分からないほど海を眺めて、僕たちはそこに座っていました。

 夕が暮れて星が輝きはじめた頃、僕はやっと、自分には帰るべき場所があることを思い出しました。永遠にここにいることはできないのだと、分かっていながらも脳内で否定し続けていた事実が、夜空の美しさと一緒になって、いっぺんに僕を襲ってきたのです。

「今日、七夕だね」

「うん」

 そう無邪気に笑うきみの白肌が、愛おしくて憎らしくて。空を見上げるとそこには大きな天の川があって、良かった、まだ星は美しいんだと静かな安心を覚えました。

「僕、もうすぐいくね」

 どこに、と首を傾けたきみを置いて、僕はそこを立ちました。

「もう少し、いられないの」

 長い間潮風に晒されたきみの唇は、水分を失っているように見えました。ううん、と僕は首を振りました。

「星にならないといけないの」

 突き放すようにそう言って、僕は見つめるべき、大切な人から目を逸らしました。

 それは曖昧で輪郭のない、理解しがたい言葉だったと思います。きみの瞳の湖に、波紋が広がるのが分かりました。

「僕は、天の川の向こうに帰るね」

 きみはひどく悲しそうな瞳で僕を見ました。心より深いどこかで別れを悟ったような、そんな苦しい表情でした。同じ夏は二度と来ないこと、きみと僕が永遠ではないこと。きみもどこかで分かっていたのかもしれません。

「きみの幸せを、ずっと祈ってる」

 好きだとか、そんな簡単な台詞も言えなくて、代わりに口をついたのはこんな言葉でした。



 僕は夏の雲に、遠い空の向こうに消えなければなりませんでした。破裂しそうな心臓が、落ちる直前の線香花火のようでした。

 一度言葉を交わして、一度体温を感じたきみのこと、綺麗に忘れられるはずがありませんでした。恋とは痛みで、好きな人との時間は鎮痛剤。それが失われたら、永遠の痛みが続くだけなのでしょう。僕の胸には永遠に、夏の終わりのような寂しさと痛みが残りました。


 自分の星に帰って、僕はきみに魔法をかけました。きみが僕を思い出さないように。きみの中であの日の出来事が、一夜の夢として処理されるように。

 そして、僕は神さまに大きな処罰を受けました。前世に犯した過ちのために生まれる星を間違えた僕は、決して会ってはいけない片割れに会いに行ってしまったからです。

 僕を知らずに地球に生まれて、僕を知らずに日々を過ごしているきみのこと、ただ、夜空の遠くで見ていれば良かったのに。僕はきみの瞳に僕の姿が映ることも、僕がきみの記憶になることも、二度と許されないと分かっていて、それでもきみに触れたいと思ってしまったのです。



 月日が巡って、また新しい夏が来て、七月七日、僕は地球に降り立ちました。この日だけは、きみの姿を見に行くことが許されていたからです。

 きみは僕のことを知らないし、きみは僕のことを覚えていない。それでも僕は一年に一回、きみの横顔を見るためにここに帰ってきます。透明な身体を引き摺って、きみのためだけに帰ってくるのです。


 流れる雲の影を見て、あの日、あの時をなぞるように海辺を歩きました。誰にも見えない僕の身体は、どこまでも自由で、どこまでも悲しい存在でした。今日の空は曇っていて、地上から天の川なんて見えませんでした。

 午後五時過ぎ、駅前のベンチでバスを待つきみを遠くから見ました。セーラー服とポニーテールがよく似合っていて、気が付けばまたあの日のことを思い出していました。


 夜空に飛び立つ少し前、ふらりと立ち寄った駅前の商店街で、僕はきみの書いた短冊を見つけました。

 そこには『また会えますように』とだけ書かれていて、きっときみにはもう、星に願ってやまないくらい大切な誰かがいるのだろうと思いました。



 七月七日が終わって、あの星から届く光の明滅はやわらかに途絶えました。今でもまだ、きみの頬にキスをする夢を見ます。きみとの思い出は全部、夏の霞のなかにありました。


 季節が変わって、きみの髪が伸びて、何が本当で、何が嘘かも分からなくなってしまいました。今、きみはどこで何をしていますか。何を見て、何を聞いていますか。心はやわらかいままですか。僕はずっと祈り続けています、きみがずっと光であることを。きみがずっと幸福であること、きみがずっと僕を見ないこと。

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夏霞 夜賀千速 @ChihayaYoruga39

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