第2話「でも……汚いじゃないか。こんなの」



『その染みは、君が生きた証。』

第二話:旅人の価値観と、小さな反抗


「……証?」


僕の口から、かすれた声が漏れた。目の前の男、リノが言った言葉の意味が、まるで外国語のように頭の中で響くだけで、心に届かない。

証だって? この醜い染みが? これは僕の欠陥で、僕が弱いからできた、ただの汚れなのに。


リノは僕の混乱を意にも介さず、あっけらかんと言った。

「そう、証。勲章みたいなもんだろ。お前、その染みができる時、すげぇ悔しかったり、悲しかったりしたんだろ? 何も感じなけりゃ、染みなんてできねぇんだからさ」


彼は自分の足元にあった小石を拾うと、湖に向かってぴゅっと投げた。石は水面を数回跳ねて、きれいな波紋を残して沈んでいく。僕がさっきまで、自分を罰するために使っていた石とは、あまりにも違う軌跡だった。


「俺はさ、染みのない奴より、染みだらけの奴の方が信用できるんだ」

「……どうして?」

「だって、そいつは何も感じない冷たい奴か、何もかもから逃げてる臆病者ってことだろ。傷つくことから逃げて、他人を傷つけることにも鈍感で。そんな奴、つまんねぇよ」


リノの言葉は、僕が今まで信じてきた世界のすべてを、根こそぎ否定するものだった。

先生は言った。染みができるのは、お前の心が未熟だからだと。

町の誰もが、染みを持つ僕を蔑んだ目で見る。それが当たり前だった。

なのに、この男は、染みだらけの方がいいと、そう言うのだ。


「でも……汚いじゃないか。こんなの」

僕の腕に刻まれた、どす黒い染みを指差す。それは僕が僕であることの、呪いの刻印だ。


「汚いか? そうか?」

リノは僕の腕をためらいなく掴むと、その染みをじっと見つめた。他人に、こんなに近くで染みを見られるなんて、初めてだった。僕は身体を強張らせたが、リノは構わず続けた。

「俺には、夕焼けの雲みたいに見えるけどな。悔しさと悲しさが混じって、それでも何とか耐えようとした、そんな色だ。お前だけの、特別な色じゃないか」


特別な、色。

その言葉が、僕の胸の奥で、小さな音を立てた。凍りついた何かに、ほんの少しだけ、ひびが入る音。


「……君は、どうしてそんなに平気なんだ? その……たくさんの染みがあって」

「平気なわけねぇだろ」

リノは僕の腕を離すと、自嘲するように笑った。

「最初は死にたくなったさ。町中の奴に指差されて、石を投げられたこともある。親にも勘当された。でも、ある時気づいたんだ。俺がこの染みを恥じて、自分を嫌いになればなるほど、俺を馬鹿にしてる奴らの思う壺じゃねぇかって」


彼は空を見上げた。その横顔には、僕の知らない、たくさんの物語が刻まれているように見えた。


「だから決めたんだ。この染みは、俺が俺の心に正直に生きた結果だって。俺の歴史だって。誰にも文句は言わせねぇ。むしろ、この染みを誇ってやろうってな」


誇る。

僕の辞書には、存在すらしなかった言葉だった。


その日は、それ以上何も話さず、僕たちはただ並んで湖が完全に静けさを取り戻すのを見ていた。リノは町に宿を取るつもりだと言い、先に森を抜けていった。一人残された僕は、もう一度湖面に映る自分を見た。

相変わらず、染みだらけの醜い僕がいた。

でも、ほんの少しだけ。本当に、ほんの少しだけ、見え方が違った。リノの言った「夕焼けの雲」という言葉が、頭から離れなかった。



翌日、パン工房での仕事は憂鬱だった。

ゴードンさんの機嫌はまだ直っておらず、僕は些細なことで何度も怒鳴られた。昨日ルカがしたミスも、いつの間にか僕がやったこととして話が進んでいる。

いつも通りなら、僕は唇を噛みしめ、ひたすら「すみません」と繰り返すだけだ。そしてまた新しい染みができるのを、怯えながら待つ。


「カイ! 粉の分量を間違えただろ! この生地はもう使い物にならん!」


ゴードンさんの声が飛ぶ。それは、僕ではなく、またしてもルカの失敗だった。ルカは青い顔で僕を見つめ、懇願するような目をしている。

ああ、まただ。また僕が、これを被るのか。

首筋が、またじくりと熱くなる。新しい染みが生まれようとしている。


――『そもそも染みができるのは、お前の心に隙があるからなんだ』

先生の声が、頭の中で響く。

そうだ。僕が悪いんだ。僕がちゃんとルカを見ていなかったから……。


その時だった。

脳裏に、別の声が割り込んできた。


――『いい染みしてんじゃんか。そいつは、お前が必死に生きてきた証だろ?』


リノの、あの太陽のような笑顔が浮かんだ。

僕の胸の奥で、昨日ひびが入った何かが、パキリと音を立てて割れた。


気づけば、僕は顔を上げていた。

そして、震える声で、でもはっきりと、言った。


「……違います」


作業場が、しんと静まり返った。

ゴードンさんも、ルカも、他の職人たちも、信じられないという顔で僕を見ている。今まで、僕が一度も口にしたことのない言葉だったからだ。


「それは……僕じゃありません。分量を間違えたのは、ルカです」


言った。

言ってしまった。

心臓が、まるで警鐘のように激しく鳴り響く。ゴードンさんの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。ルカは絶望的な顔で俯いた。


「なんだと……? この俺に、口答えする気か!」


ゴードンさんの怒りが、僕に真っ直ぐ向けられる。怖い。足がすくむ。また、濃くて醜い染みができるだろう。

でも。


不思議と、後悔はなかった。

首筋の熱は感じたけれど、それはいつもと少し違う熱だった。ただ自分を責めるだけの冷たい熱じゃない。もっと芯のある、熱い何か。


「口答えでは、ありません。ただ、本当のことを言っただけです」


僕は、ゴードンさんの目を、まっすぐ見返していた。

自分でも信じられないことだった。


その瞬間、僕の首筋に浮かび上がった染みは、いつものような赤黒い色ではなかった。

それは、まるで夜明けの空のような、力強い、燃えるような緋色をしていた。

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『その染みは、君が生きた証。』 志乃原七海 @09093495732p

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