『その染みは、君が生きた証。』
志乃原七海
第1話『その染みは、君が生きた証。』
『その染みは、君が生きた証。』
第一話:静寂の湖と石の波紋
この世界では、人の感情は隠せない。
強い感情の澱(おり)は、身体に「染み」として浮かび上がる。怒りは赤黒く、悲しみは深く青く、妬みは緑がかった毒々しい色で、肌に痣のように広がっていく。
人々は染みのない透き通るような白い肌を「徳」とし、染みを持つ者を「心が汚れた者」と呼んだ。子供たちは教わる。染みを作らぬよう、清く正しく生きなさい、と。
だから、僕、カイは「汚れた者」だった。
「おい、カイ! またお前のせいで検品に時間がかかったじゃないか!」
パン工房の親方、ゴードンさんの怒声が狭い作業場に響く。僕の焼いたパンの一つに、規定より少し大きな焦げがあったらしい。僕の肩がびくりと跳ね、首筋にじくりと熱が集まるのを感じた。ああ、まただ。また、染みができる。
「申し訳、ありません……」
「謝って済むか! お前のせいで店の評判が落ちたらどうするんだ!」
違う。焦げがついたのは、もう一人の見習い、ルカが窯の温度管理を間違えたからだ。僕がそれに気づいて慌てて調整したけれど、一つだけ間に合わなかった。
でも、そんなこと言えるはずがない。
『いいかい、カイ。他人を指差すんじゃない。相手に染みを移せば、巡り巡って自分の染みはもっと濃くなるんだよ。そもそも染みができるのは、お前の心に隙があるからなんだからね』
幼い頃、僕の身体に初めて青い染みができた日。泣きじゃくる僕を、先生は優しく、けれど有無を言わさぬ強さで諭した。その言葉は、僕という人間を形作る骨格になった。
「僕の不注意です。本当に、すみませんでした」
深く頭を下げると、ルカが少しだけ安堵したような顔で僕を一瞥し、すぐにそっぽを向いた。ゴードンさんの怒気はまだ収まらない。その視線が、僕の服の袖からわずかに覗く、古い染みに注がれているのを感じた。それは侮蔑の色をしていた。
その日の仕事を終え、とぼとぼと帰り道を歩く。夕陽が僕の長い影を作る。腕をまくってみると、案の定、首筋から肩にかけて、どんよりとした赤黒い染みが滲んでいた。ゴードンさんへの恐怖と、ルカへの不満と、そして何より、うまくやれない自分への不甲斐なさ。それらが混ざり合って、醜い色を作っていた。
僕は町のざわめきを背に、いつも向かう場所へと足を向けた。
人里離れた森の奥。そこには、すべての音を吸い込んでしまうような「静寂の湖」がある。
ざわざわと風に揺れる木々の間を抜ける。この森は、僕にとって世界の境界線だ。町の喧騒と人々の視線から、僕を切り離してくれる。森を抜けた先に広がる静かな湖面は、完璧な鏡となって、曇り空と、そこに立つ僕の姿を映し出していた。
僕はゆっくりと水辺に膝をつく。
水面に映るのは、染みだらけの少年。俯きがちで、自信なさげな目。肩や腕に点在する古い染み。そして今日、新たに生まれた生々しい赤黒い染み。
ああ、なんて醜いんだろう。
先生の言う通りだ。僕の心に隙があるから、こんなことになるんだ。僕がもっとちゃんとしていれば、ゴードンさんを怒らせることも、ルカに責任を押し付けられることもなかったはずだ。僕が、僕が悪いんだ。
自己嫌悪が胸の中で渦を巻く。その黒い衝動に突き動かされるように、僕は足元に転がっていた拳ほどの石を拾った。
そして、水面に映る自分の顔めがけて、それを力いっぱい叩きつけた。
ザシャァァンッ!
水面が砕け散り、僕の醜い姿は一瞬にして歪んだ波紋の向こうに消える。石を握る手に、ごつりとした衝撃が伝わる。何度も、何度も、水面を叩く。歪んだ顔、歪んだ身体、歪んだ染み。それらがぐちゃぐちゃに混ざり合う。息が切れるまで、腕が痛くなるまで、僕は続けた。
これは、僕だけの儀式。
誰にも見せたことのない、僕の罪と罰。
やがて動きを止め、ぜえぜえと肩で息をする。
さっきまで僕を映していた湖面は、無数の波紋を広げ、ゆっくりと、本当にゆっくりと、静けさを取り戻そうとしていた。
僕はその様を、ただじっと見つめる。
乱れた心が、この波紋と一つになって、やがて凪いでいくような気がしたからだ。歪んだ世界が元に戻るまで、僕はここにいなければならない。それが、僕にできる唯一の償いだった。
波紋がほとんど消えかけ、再び僕の顔がおぼろげに映り始めた、その時だった。
「……なんだ、それ。面白いことしてんな」
背後から、不意に声がした。
心臓が凍りついた。振り向けない。誰だ? 見られた? この、僕の一番醜い姿を?
ぎこちなく、本当にゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、一人の旅人だった。年の頃は僕とそう変わらないかもしれない。日に焼けた肌に、使い古した革の鞄を肩から下げている。
だけど、僕が息を呑んだのは、その出で立ちではなかった。
彼の身体は、染みで覆われていた。
僕なんか比較にならないほど、濃く、広く、様々な色の染みが、首筋から腕、服の隙間から見える胸元まで、まるで身体中に複雑な模様を描いているかのように広がっていた。
普通なら、これほどの染みがあれば、人はフードで顔を隠し、人目を避けて生きるはずだ。
なのに、彼は違った。
何一つ隠すことなく、堂々とそこに立っていた。そして、僕が今まで誰にも向けられたことのない種類の目で、僕を見ていた。それは侮蔑でも、同情でも、好奇心でもない。ただ、まっすぐな、何かを見定めるような目だった。
「……何でもない」
僕はかろうじてそれだけを絞り出し、再び湖に視線を戻した。早くこの場から消えてほしい。
だが、旅人は動かなかった。僕の隣までやってくると、こともなげに腰を下ろした。そして、静かになった湖面に映る僕の姿と、僕の腕にある新しい染みを、しげしげと眺めた。
「へえ。そりゃ、ずいぶんと悔しいことがあったみたいだな」
「……!」
言葉が出なかった。悔しい? 違う、僕が悪いんだ。そう言い返そうとしたのに、喉がひりついて声にならない。
旅人は、そんな僕の葛藤を見透かしたように、にっと笑った。その笑顔は、彼の全身の染みと同じくらい、強烈な印象を放っていた。
「俺はリノ。見ての通り、染みだらけの旅人さ」
彼は自分の腕の、ひときわ濃い紫色の染みを指でなぞった。
「こいつは、昔、たった一人の友達を守るために、町の衛兵を殴った時にできた染み。こっちの青いのは、その友達が何も言わずに町を出て行った時にできたやつ」
リノは、まるで武勇伝か何かを語るように、自分の染みの由来を話し始めた。その口調には、悲壮感も、自己嫌悪も、ひとかけらもなかった。
「なぁ、お前さん」
リノは僕の方に向き直った。夕陽を背にした彼の瞳が、僕を射抜く。
「なんだその顔。いい染みしてんじゃんか」
予想外の言葉に、僕は完全に思考を停止させた。
いい染み? この醜い、僕の欠陥の証が?
リノは、僕の混乱を楽しむかのように、言葉を続けた。その声は、僕がずっと信じてきた世界のすべてを、根底からひっくり返すような響きを持っていた。
「そいつは、お前が必死に生きてきた証だろ?」
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