ヘッドライト
志乃原七海
第1話「ごめん、隼人…好きな人がいるの」
小説「クリスマスイブ」第一話 (改善版)
クリスマスイブ。街は、黄金色や燃えるような赤のイルミネーションの光で飾られ、どこもかしこも、耳に心地よいざわめきと、湯気のように立ち上る幸福感に満ちていた。そんな夜、おれ神崎隼人、27歳は、体の芯から熱くなるような高揚感に胸を高鳴らせていた。今日、今夜、彼女にプロポーズするんだ。
おしゃれなレストランの一角。きらびやかなシャンデリアの光が、テーブルクロスの上で踊るように輝いている。おれは、まるで神聖なものに触れるように、ポケットに入れた小さな箱を握りしめる。ずっしりとした重みを感じる箱の中には、選りすぐりのダイヤが、この特別な夜のために輝きを待っているはずだった。強く握りしめる拳は、少し汗ばんでいた。
彼女が来るのを待つ時間。予約した時間はとっくに過ぎているのに、彼女はまだ現れない。周りのテーブルからは、楽しげな話し声や、グラスが触れ合う軽快な音が聞こえてくる。その幸福な音の渦の中から、おれだけが切り離されたかのように感じる。時計をチラチラと見やるたび、心臓が不規則なリズムを刻み始め、胸の奥でざわつきが増していく。まるで、穏やかな水面に小さな波紋が広がっていくようだ。
「遅いな……」
独りごちたそのとき、やっと、彼女が店の入口に現れた。街の光を背に、人ごみを縫うようにこちらへ向かってくる彼女の姿に、一瞬、視界が明るくなる。駆け寄ろうとしたおれに、彼女は遠くから軽く手を挙げた。その仕草に、ほんのわずかな違和感を覚えた。
「ちょっと用事があったの」
そう言って、謝罪の言葉もないまま席に着く彼女。その短い言葉と、どこかよそよそしい雰囲気に、胸のざわつきがざわめきへと変わる。それでも、今日がおれにとって特別な日であることに変わりはない。このさざ波は、きっとすぐ収まる。そう言い聞かせた。
コース料理が運ばれてくる。運ばれてくる料理は、どれもきらびやかで美味しそうだったが、おれの舌は味を感じない。心臓が、プロポーズの言葉を探して騒がしくなっている。食事が終わるタイミングを見計らい、グラスを傾け、意を決して切り出す。
「あのさ!おれ……」
言いかけたその瞬間、彼女はテーブルに両手を置き、まっすぐにおれを見つめた。その瞳には、見慣れない強い光が宿っていた。そして、まるで冷たいナイフを突きつけるように、はっきりと、感情の乗らない声で言い放った。
「ごめんなさい!私、好きな人がいるの!」
その言葉は、きらびやかなシャンデリアの光を一瞬にして消し去り、レストランの賑やかな音を断ち切った。まるで、おれの心の中で何か固いものが音を立てて砕け散ったような衝撃。
「ごめんなさい!」
そう言い放つと、彼女は席に置いていたバッグをつかみ取り、あっという間に席を立った。彼女の背中が、人ごみの中に吸い込まれていく。その光景が、スローモーションのように脳裏に焼き付いた。
呆然と、目の前の光景を見送るおれ。渡せなかった指輪が、ポケットの中で鈍い重みとなっておれを責める。言えなかったプロポーズの言葉が、喉の奥で苦い塊となって引っかかる。頭の中で、彼女の「好きな人がいるの」という言葉が、ぐるぐると、まるで壊れたレコードのように繰り返される。
こんな指輪、ぶん投げ捨ててやろうか。このシャンデリアも、この幸せそうな空間も、全部壊してしまいたい。激しい怒りが込み上げてくる。いや、まずは落ち着けよ、おれ。こんなみっともない姿、誰かに見られるわけにはいかない。
周りを見れば、あいかわらず楽しげに語り合うカップルだらけだ。彼らの笑い声が、ひそやかな失笑に聞こえてくるような気がして、いたたまれなくなった。冷たい視線が突き刺さるような感覚に耐えられず、たまらずおれは店を出た。外の冷たい空気が、火照った顔に痛いほど染み渡る。
パーキングに止めていたデートカー、自慢のスポーツカーに乗り込む。低く唸るエンジン音だけが、今の気分を代弁しているかのようだ。行き先なんて分からない。ただ、この胸の奥に広がる、どこへも逃げられないような閉塞感から、一刻も早く逃れたかった。
ひたすらアクセルを踏み込み、街を抜ける。イルミネーションの光が遠ざかるにつれて、心の重みが増していくようだ。気がつけば、いつの間にか街灯もまばらな山道に入っていた。ぐねぐねと曲がる峠道。街の喧騒は遠ざかり、静寂が辺りを包み込む。
「あれ?道に迷ったかな?」
カーナビの画面をちらりと見るが、表示される地図も、おれの未来と同じように、あいまいであやふやだ。まずいぞ、深い霧が辺りを覆い始め、視界が急速に曇っていく。湿った冷たい空気が、車の窓を白く曇らせていく。ヘッドライトの光さえも、霧に吸収されて頼りない。視界は数メートル先までしか届かない。まるで、これから進む道が見えないおれの心境を表しているかのようだ。
霞むヘッドライトが照らすその先――!
突然、若い女性がひとり、道路の真ん中に立っているのが見えた。霧の中にぼんやりと浮かび上がる、ぼやけた輪郭。まるで幻を見ているかのようだ。
「おいおい……勘弁してくれよな、定番の幽霊かよ?」
こんな状況で、こんな非現実的な出会いがあるなんて。幽霊が出るって噂、聞いたことあったっけ?絶対乗せちゃいけないパターンだよな。そんなことを思いながらも、なぜかおれはゆっくりとクルマを止め、窓を開けて女性に声をかけていた。彼女の周りだけ、奇妙なほど静寂に包まれているように感じた。
「なあ!どうした?こんなとこへひとりで」
霧の中で立ち尽くす彼女は、薄い上着を羽織っているだけだ。ヘッドライトの光が、彼女の顔を部分的に照らし、その表情はまだよく見えない。
「寒くないか?」
心配げに尋ねるおれに、彼女は少し顔を上げた。その瞳は、霧と同じように曖昧だったが、その声は凍えるように冷たかった。
「寒いです!!見ればわかるでしょう?」
凍えるような声と、その声に宿る、射抜くような強い眼差しに、おれは思わずたじろいだ。彼女から発せられる、静かな威圧感のようなものに圧倒される。
「ああ、スマン、幽霊かと思ってさ?」
軽口を叩いたおれに、彼女はきっぱりと言い放った。その声は、はっきりとしていて、現実感があった。
「私、幽霊じゃありません!!」
彼女は、少し間を置いて、俯きがちに続けた。その声は、先ほどとは打って変わって、か細く、悲しみを帯びていた。
「私、彼氏と喧嘩してクルマからひとり降りて歩いていたんです。彼氏が迎えに来ると信じてクルマを飛び降りたのに……結局迎えは来なくて、置き去りにされたかたちで」
彼女は、自嘲するように小さく笑った。その笑い声は、霧の中に吸い込まれていくようにか細かった。
「私、バカですよね」
そして、絞り出すような声で付け加えた。
「まだ、彼を信じてます」
その言葉に、おれは自分の置かれている状況と重ねてしまい、胸の奥が締め付けられるような痛みが走った。彼女の言葉が、おれの傷口に触れたような感覚だった。
「そうか。まあいいさ、どこへ行くんだ?乗せてやるよ」
おれの言葉に、彼女は少しだけ表情を和らげたように見えた。霧がわずかに晴れたように感じた。
「ありがとうございます。なら、近くの駅までお願いします」
彼女を助手席に乗せ、再びスポーツカーは走り出した。車内の暖房が、彼女の体を少しでも温めてくれることを願う。
駅までの道のり、彼女は何も語らなかった。ただ、窓の外に流れる霧と暗闇をじっと眺めていた。その横顔は、街の喧騒から隔絶されたこの霧深い山道にいるにもかかわらず、どこか清らかで、非現実的な、神秘的な雰囲気を纏っていた。まるで、霧の中から現れた精霊のような存在感。なぜかおれは、彼女から目が離せなくなっていた。先ほどまでプロポーズを断られたばかりだというのに、不思議と彼女に惹かれてゆく自分に気づき、混乱と戸惑いを覚える。
「着いたよ!」
街の明かりがちらほら見え始め、霧が薄れてきた頃、やっとのことで最寄りの駅にたどり着いた。現実世界に戻ってきたような感覚。
「ありがとうございます」
彼女はそう言って、バッグから何かを取り出した。小さく白いもの。
「あのお礼は必ずしますから」
そう言いながら、彼女は小さなメモ用紙をおれの手に手渡した。ひんやりとした感触。そして足早に、駅の改札へ吸い込まれていった。まるで、霧のように現れて、霧のように消えていくかのようだ。
ふと、渡されたメモを眺める。そこには『篠崎友梨』という名前と、数字の羅列が、細く震えるような手書きで書かれていた。
ふっと、乾いた笑いがこみ上げてきた。「どうせ偽名だろ(笑)」
番号だってそうだよな、こんなクリスマスイブに、こんな都合のいい出会いがあるはずがない。これはきっと、おれの見た幻だ。失恋の痛みが作り出した、都合のいい現実逃避だ。
……しかし。
どう転んでも同じだろーよ。
今の状況より悪くなることもないだろう。最悪のクリスマスイブだ。これ以上、何を失うっていうんだ?
ワンチャンス、賭けてみるか?
ポケットに入れたままだった、渡せなかった指輪の冷たさを感じる。この指輪が、彼女にプロポーズしようとしたおれの馬鹿さ加減を嘲笑っているかのようだ。
おれはスマホを取り出し、渡されたメモの番号を、震える指でダイヤルする。心臓が、またしても不規則なリズムを刻み始めた。もし、出なかったら。間違いだったら。偽名だったら。その方が、傷つかずに済むのかもしれない。
数回のコールののち――。
「はい」
彼女は、本当に電話に出た。
第一話、終了。
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