第2話 甘くて苦くて酸っぱい、あの日

 高校二年生の冬のある日。俺はクラスのマドンナと帰り道を共にしていた。なぜ、こんな奇跡のようなことが起きているのかと言うと……。


 サッカー部の練習終わり、自転車置き場の前を通り掛かった俺は、そこで偶然彼女を見かけた。どうやら彼女は、一〇〇台はある自転車の中で自分のママチャリを見失ってしまったらしい。どうしたものかと立ち尽くす彼女に、俺は声を掛けた。一緒に探してやろうか、と。それから暫くして彼女の可愛らしい赤色のママチャリは無事に発見された。こうして今に至るというわけだ。


 俺たちが通う県立追岐おうぎ高校の近くには、「恵比寿堂えびすどう」という昔ながらのたい焼き屋があった。マドンナはその小さなお店でたい焼きを一尾買い、それを食べながら呑気に歩いていた。ふふふんと小さく鼻歌を歌い、肩で切り揃えた黒髪を嬉しそうに揺らす彼女の横で、俺は赤色のママチャリを押していた。


 別れ道の交差点。そこで彼女ははたりと止まった。そして、半分になった食べかけのたい焼きを俺に差し出してきた。


「これ、あげる。わたし、もうお腹いっぱいなの。だから、自転車……」


「……お、おう」


 断る理由もなかったので、俺はマドンナのママチャリと食べかけのたい焼きを交換した。


「今日はありがと。じゃあね」


 彼女はママチャリに跨がるや否や、こちらを振り返ることもなく長い長い坂道の先へ颯爽と消えていった。


 俺はたい焼きを見つめながら歩いていた。クラスのマドンナからもらったたい焼き。これを食べるということは、言わばマドンナとの間接キスなのだ。クラスの奴らに言えば、一万円で売ってくれと懇願されるかもしれない。食べるなんて、もったいないだろうか。


 赤信号で止まっている間も、俺はただたい焼きだけを見つめ続けていた。


 もったいないと言っても、たい焼きは食べ物だ。大事に取っておいたって、腐るかアリンコに奪われるだけ。たい焼きだって、そんなことになってしまう前に美味しく食べられるのが本望だろう。


 歩行者信号が青に変わった。俺は決心し、歩き出した。


「……じゃあ、いよいよ、いただきます!」


 俺はそう呟き、口を大きく開けた。これはマドンナとの間接キス。一生に一度の初恋の味。


 しかし、そのとき、俺の右手からトラックが速度を落とさぬまま交差点に進入しようとしていた。でも、たい焼きに見惚れた俺はそれに気付かない。


 そして——俺の身体からだは空を飛んだ。だけど、たい焼きだけは決して手放さまい。アスファルトの地面がどんどん迫ってくる。固い地面に叩きつけられる直前、俺は意識を手放した。初恋の味は、暫しお預けだ。


 ———————————————


 俺は目を覚ました。目に映るのは真っ白な天井。保健室のような消毒液のにおいがする。


「目を覚ましましたか? わかりますか? ここは、座東ざとうおか病院ですよ」

 看護師さんが俺を覗き込む。


 そうだ、俺はトラックに撥ねられ、病院に運び込まれたのだ。口の中まで怪我をしたのか、何だか鉄の味がする気がする。


「お、俺の……たい焼きは?」

「たい焼き? さあ……」


 それから、お医者さんから今の俺の身体の状態について説明を受け、警察官から事故の状況について詳しく話を聞かれた。どうやら俺は轢き逃げの被害者になり、右足に大怪我を負ったらしい。


 その夜、一人になった病室で、俺は真っ白な天井を見つめていた。


 頭の中でお医者さんの言葉が蘇る。


「君の夢はサッカー選手なんだってね。こんなことを言うのは大変心苦しいんだけど、今までのようなプレーはもうできないと思ってほしい」


 そして警察官の言葉が蘇る。


「現場にたい焼きが落ちてなかったかって? ああ、食べかけのたい焼きなら、タイヤに潰されてぺしゃんこになってたよ」


 俺はこのとき決心したのだ。サッカー選手になるという夢は諦め、警察官になるのだと。俺の、世界で最も尊いたい焼きを奪った轢き逃げ犯を、必ずこの手で捕まえるのだと。


 こうして俺の、警察官という夢へのプロセスは始動した。

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