第0.4話:死、もし、近づいていたら

「本日は、ありがとうございました」


 取材が終わり、日が傾き始める。夕暮れを背景に家を出たところの扉の前で、新聞部の四人は九華を筆頭に取材協力者としての風句二に礼をした。


「……これを持っていきなさい、お守りだ」


 二人の門限も近くなってきているし、急いで帰ろうとした瞬間。風句二は四人を呼びとめ、睡方の掌の中に赤い紐のついた薄い木の板を渡した。


「すまない……。すまないな……」


 風句二は瞼を強く閉じ、顔に皺を張り巡らせた状態で睡方の手を取り、そのお守りとやらを彼に強く握らせていた。

 睡方は困惑しながらも、風句二のその閉じられた瞼から涙が漏れ出しているのを見ると、手の中でその木の板が熱くなってくるのを感じた。


 改めて九華が礼を言い、四人は紅く染まるその帰路へと足を進めていった。いくらか遠くに離れても、風句二が自分達を見送ってくれたのがやけに印象的だった。


 その夜、九華は自分の部屋の椅子に座り、勉強机の上でスマホを開いた。新聞部のグループラインで想太からは今日撮った写真のデータが、由依からはインタビューの文字起こしの紙を撮った写真が、いずれも十数枚送られてきていた。


 自分の書いたメモと見比べながら、それらの資料に目を通すうちに、九華は何回もため息を吐いた。

 カーテンを開け、部屋から見える三日月を眺めながら、風呂上がりでもう既に下ろした黒髪を撫で下ろす。


「これを……記事にしたら。でも、これが真実なんて保証はどこにもないはず。ないはず……だけど」


 メッセージアプリを閉じ、SNS上で「滅亡の予言 事件」や「予言 自殺」のワードで検索をかけてみた。ずらっと並ぶ投稿を見ていくと、事件、特に自殺の件数は前に見た時よりも増加していることが分かった。


 更に調べていくうちに、九華は数日前に同じ芽留奈市の中学校でも生徒数人の飛び降りのニュースを見つける。

 その生徒達の残されたメッセージアプリの履歴には、「どうせもう世界が滅亡するんなら、みんなでしんじゃおーよ」という強烈な文が残されたことにより、このニュースは大きな議論を呼び、ネットニュース上のコメント欄は盛り上がりを見せていた。


 九華を静かにスマホの電源を閉じ、画面を裏向きにして机に伏せさせる。両手で顔を包み込むようにしてから動きを止めると、そのままただ頭の中を動かすだけの状態で、静かに日を跨いだ。



「おい。おい! 九華!」


「え、な、何」


 目の前にいる睡方の呼びかけがやっと耳に入ってきた。眼前に広がるは部室の景色。いつも通り四つくっつけられた机に対応するように部員が座っており、その机の上には取材の際に撮った写真やインタビューの文字起こしの原本、練習書き用のA2サイズの方眼紙が並べられていた。


「何って、記事まとめるためだからってお前が集めたんだろ。大見出しの内容、さっさと決めて帰ろうぜ」


「あ、そう、だよね。だよね。ちょっと、ボーッとしてた。ごめん」


 そう急かすような睡方の口ぶりに、九華は部屋の隅のカレンダーを確認する。今日は七月十一日の水曜日、取材から数日が経った日だ。なのに、まだあの日の夜のこと思い出すなんて。

 今回の記事、締め切りは中学校が夏季休業期間に入る前日の終業式が行われる日、七月二十七日だ。その日、新聞部は去年と同じようにプリントで全生徒に号外として夏の新聞を出す決まりになっている。まあ、これも九華が顧問の尾崎先生が直談判し、尾崎先生がなんとか上の方にお願いして成り立ったことだ。


 そうだ。思い出した。今日はその記事の軽い下書きと、新聞の大半を占める大見出しの内容をみんなで話し合うために部室に集まったんだった。睡方、想汰、由依の三人がこちらに視線を向けるのを感じながら、九華は首を横に強く振り、顔を両手で強く叩き、意識の集中を自分に促した。


「で。結局、内容的にはどうする? 僕的には、今回のメインはやはりの人類の滅亡の予言だ。嘘か真か分からないが、あの預言者は一人の神の全能神によって近いうち、それは現実になると言った。これを大きく見出しに使えば、強いヒキにはなるだろうとは思うのだが」


 想汰の言葉に、由衣が続く。


「ウチも賛成〜。神様が本当にいるなんて思ってもみなかったし、実際世界が滅びるってどんな感じなのか気になる! だからみんなにこの気持ち共有してほしいな〜」


 由依の発言に、少し間を置いて睡方も返す。


「正直、時原さんの気持ちは全く共感出来ないけど、でも、大見出しにそのトピックを持ってくるのは俺も賛成。神様とかなんたらとかはちょっと不確かな情報かもしれないけど、でも俺達は一応こんな取材をしたっていう事実は嘘ではないし。この話はみんなも、知っておくべきだと思う。知らないと、置いてかれるから」


 以前よりも重々しく睡方が言葉を発するのを見て、九華の心の中でほんの少し何かが動いた。目を閉じ、自分の中にその正体を問う。追い抜かれたような感覚、兄が優秀な大学に受かり、両親から褒められていた時のことを思い出す。


 九華はなぜ今、自分が過去のことばかりを思い出しているのかがよく分からなかった。三人が談義を不格好ながらも、徐々に形にしていく。その間、彼女はただ口をつぐむことしか出来なかった。いつもなら周囲を引き込んでいくようにすらすらと言葉が飛び出てくるのに、それが出来ずにただ黙っているだけの自分に少し嫌気が刺した。だが、それ以上に。


「それじゃあ、なんとなくインタビューで預言者が神様に言及しているところを取り上げよう。最も僕はこれに付随して他の神話の話も取り上げたいが、恐らくそれに関して、君は許さないんだろう? 部長。なんせ、今回は君の権限でとやらを重視しなきゃいけないようだからね」


 腕を組みながら嫌味そうに語る想汰が目を合わせずに、雄弁に語る。話題に出たからか、他の二人の目線が自然に九華へと移るのを感じると、彼女は流石に黙り続けることが出来なくなり、顔を下に俯いたまま膝の上で強く拳を握り込むと。


「あ、あのさ……」


 絞り出すような、小さな声だった。まだ葛藤を続けていて、答えが出ていない状態なのにそれを言葉にしようとして半端な内心が口を滑る。それでも、言うしかなかった。言い出してしまったからには、彼女の中ではもう戻れなかった。


「私達が知った予言のことは、記事に載せないようにしたい……」


 一瞬、場が静まる。遅れて、睡方が小さく「え」と漏らすと、明らかに空気が歪んだ感覚を、確かに九華は肌で感じた。それゆえ、言葉は出せても部員達の目なんか見れなかった。静寂は長かった、正確には長く感じただけかもしれなかったが。由依はそんな雰囲気の変化をいち早く捉え、わざとらしいような笑顔をしながら。


「……へ、へぇ〜。九っちがそんなこと言うなんて珍しいね……」


「そういうの……お前が一番嫌うやつだろ? その、事実を隠すってやつ」


 冷静に話すようで、動揺を隠せずに唇を震わせている睡方。平静に座って腕を組んでいる想汰が、目つきをより鋭くさせて彼女へその矢が刺さる。


「どういう風の吹き回しだ。訳もなくそんなことを言ったんじゃないだろうな」


「見たの、ネットで。滅亡の予言を信じたことによって起きた、事件や自殺とかのニュース。どうせ近々世界が滅びるからって言って、色々な人の命が失われていったのよ。そして直近見たニュースでは同じ市の、なんなら近くの中学校の子がそれで屋上から飛び降りたって話もあった」


 睡方が、顔を俯かせる。想汰も由依も黙って彼女の話を聞き、その話し手の彼女ですら時々言葉を出さない時間を経ながら、そのネット記事の文章を思い出し、眉を強く顰めて。


「私、それが許せなかった。そんな簡単に、人が死んじゃうのが。だから、もし今回の記事で予言を肯定すること、あの人に言われた『どう足掻いても、世界は近々滅亡する』っていうことを書いてしまったら、今度は私達の学校でも被害者が出てきてしまうかもしれない。そうなったら、私……」


 いつも笑っている由依の顔が思わず曇り、睡方はその頭を握った拳で支えるようにして深く息を吐く。そんな中、未だ表情も姿勢も変えない想汰は、椅子の背もたれにもたれかかった状態で、視線だけを彼女の方に向けた。


「だから、真実を捨てる、と」


「……!」


 九華が思わず彼の方を向く。彼女の鋭い視線は一気に敵意のものとなり、自分の口の歯と歯がぶつかると、そのまま力がこもっていく。そんなこともお構いなしに、彼は椅子をぐらぐらと揺らしながら足を組んだ状態で語る。


「自分が人を殺すような加害者にはなりたくない。ゆえに、自分達がたどり着いた真実を生徒達にひた隠しにし、実体の見えない予言の恐怖に彼らを取り残す。そんな真実を知った自分達だけはその知らざる者との知識の差で優越感を得て、最後の時間を有意義に過ごせるような生活を傲慢的に送る。そうなりたい、君はそう言っているように僕には十分に解釈出来たけど」


「……そういう、わけじゃない……! 私は、ただこの滅亡の予言の影響で亡くなってしまう人達を減らしたいだけで!」


「そんなことをしても、何も生徒達のためにはならない。大事なのは、新しい情報を与えることだ。考える余地を与え、それに対しての思考を繰り返すことで新たな段階に行く。つまり、この不透明な状態の予言に関連する情報を提供することで、人間はこういう困難を乗り越えられるようになるんだ」


「……そんなの理想論過ぎるわ。確かに情報を提示することであんたの言うように乗り越えられる人もいるかもしれない、でも、世の中全員がそんな都合の良い人ばかりじゃないのよ!『私が加害者になりたくない』、そんなのもちろんそうだわ。私は誰かの役に立ちたいから新聞を書いているのであって、誰かを恐怖に煽動したいわけではないの!」


「君がやろうとしていることは情報統制だ。真偽不明の情報でも、僕達が得た情報には何かしらの価値がある。それをひた隠しにすることは、」


「分かってるわよ!」


 遮るようにして、九華の声が強く響いた。耐えきれずに爆発した心の爆弾が、その余韻を表すように小さく吐露する。


「迷ってる……私も。本当はちゃんとみんなに真実を伝えたい、ずっとそうやってきたから。でも……どっちの選択肢も絶対的に良いって思える理屈がいくら探しても無くて……! そもそも本当に世界が終わっちゃうって考えたら、怖くて。そういう色々が混ざってきて、だから、私、分からなくなってきて」


 全身に強く力を入れて話している彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。彼女がそれに気づいたのは、雫が頬を伝い、それが机に落ちてわずかなシミを作った時だった。思わず目を擦り、鼻を啜ると、一度後ろを向く。


「……ごめん」


 漏れ出す声の主に近づいてきたのは、由依だった。しばらく部屋の外を見る九華の視界の外から彼女の肩に優しく手を置き、それ以上はせず、ほんの少し口を開いた。


「これ以上は、話し合いじゃなくなっちゃいそうだから……ね。まだ、明日とかもあるから、またその時みんなで話そ。ウチもなるべく、集まれるようにするから」


「……。ありがと」


 再び目を二往復ほど腕で擦り、雫がついていないことを確認すると、九華は席に戻って、由依も同じく座った。想汰はつけていた眼鏡を机に置き、少し顔を俯かせていた。こちらから、上手く表情は見えなかった。


 睡方はただ唖然とした様子で、九華をじっと見ていた。いくら長い付き合いだからと言って、泣いたばかりの人間を注視する彼の行動には、やはり年相応だなという感じがして。

 それから、部屋中にはしばらく沈黙が続いた。誰も立ちあがろうともしないまま、時計の針が鳴る音が響く静か過ぎる放課後。ガラガラと古臭い音を立て、部室のドアが開いた音がした。顔を覗かせたのは、顧問の尾崎先生だった。


「君達、もう下校時間が近づいているよ。会議もいいが、休憩も大事だ。遅くならないうちに帰るようにね」


「……あ、はーい! 先生分かりました〜!」


 後ろを向いた由依の返事で、その扉はまた音を立てて閉まった。未だ静寂が残る部室の中で、由依はその伸びた襟足を手で撫でながら、気まずそうに口を開く。


「と……いうわけだから。今日はみんな帰ろう。また明日、集まるってことで」


 沈黙のままだったが、九華には全員が了承したような雰囲気に感じられた。だからこそ、気まずそうに話し出す睡方の姿が、空気を読めないな、と彼らしい、の両方の感情を渦巻かせるようで。


「あ、時原さんちょっと待って。ちょっと俺あの言い損ねてたんだけど、みんなにちょっと言っとかなきゃいけないことがあって……」


「ん?言っとかなきゃいけないことって、睡っち何?」


 由依の返事に答えるように、睡方は自分の学生服のズボンのポケットの中を手で徐に探り出す。次にその手を机の上に出した時、そこに握られていたのは、風句二から貰った「お守り」と呼ばれる薄い木の板が、綺麗に真っ二つに割れているものだった。


「え!? 何これ!? お守り割れちゃってんじゃん!」


「実は……今日教室で机に足を引っ掛けて転んじゃって。そしたらパキンって嫌な音がしたから、ポケットを確認したらこの通りで……」


 驚く由依に、今言うタイミングではないのは分かっているが、というような複雑な表情で肩を落とす睡方。どことなく申し訳なくしている彼の姿を見て、これ以上雰囲気が悪くなるのを避けたかったのか、由依はいつもよりトーンの高い声で語る。


「で、でもさ! 二つに割れたってことは、そのお守りの持ってるパワーがさ、二倍になったみたいなことなんじゃない! そうしたら、睡っち今までより二倍神様に守ってもらえる的な感じだよ! 多分!」


「そ、そうなのかな……。なんか効力が無くなってたりしなければいいんだけど」


 机に置かれた、二つに割れたお守りを見つめながら睡方は小さく呟く。その話をした直後だった。今まで黙っていた想汰が眼鏡を掛け直すと、その机上に置いてある割れた木片の両方を手に取り、それを手に持ったと思ったら。


「パキッ」


「……え?」


 その木片を更に半分に割ったのだ。睡方が声を漏らした頃には、もう一つの方も手で割っており、机の上には合計四つのお守りの木片が散らばっていた。


「え、儘波君……どういうこと。ちょっと、これ、」


「はい」


 無愛想な表情のまま、想汰は睡方にその木片の一つを差し出した。困惑する睡方に何度も「はい」だけを言って、その割れたお守りの欠片を彼の掌に握らせた。同様に、由依にもその欠片を渡す。そして、目を合わせないまま九華の方にもその木片を差し出して。


「……はい」


「……あり、がと」


 九華はそれを彼の手から優しく摘み上げ、自分の拳の中で握った。残った一つの木片を彼は自分のズボンのポケットに入れると、床に置いていたスクールバッグを背負い、足早に教室を出て行った。


「じゃあ、僕は帰るから。また」


 ドアが開き、旧校舎の床を上履きで歩く時に響く冷たい足音が部室の中まで聞こえてくる。その音はどんどんと離れていったが、九華の視線は渡された木片にあった。

 顔を上げると、睡方も由依も自然と微笑を顔に浮かべており、思わず三人で目を見合わせた。



 その日、帰ると珍しく両親がどちらも家にいた。九華は久しぶりに家族全員で囲む食卓に表に出さない嬉しさを感じながら、両親の手料理にどんどん箸をつけていく。箸や食器が当たる音。咀嚼音。テレビのニュースの音。様々な音が入り混じるのは、活気のある証拠だ。

 突然向かいに座っている兄の佑哉が白米をかっこんだ後に、彼の隣に座る父の義孝の方を若干向いて話す。

 

「そいえば、今度は九華、滅亡の予言について調べてるらしいぜ」


 飲んでいた麦茶を詰まらせそうになる。目を大きく開き、九華は何の気なしにそんなことを言う佑哉に、父の視線を一瞬確認してから、声を荒げる。


「ばっ、あんた、なんでそんなこと知ってるのよ!」


「机に置いてあったメモの紙が、偶然俺の目に入ってきてな。新聞部のやつだろ?それ」


 隣に座る母親の麻美が、その切れ長の目を少し見開きながらセンター分けの茶髪の一端を耳にかけ、箸を進める。背筋のよく伸びた姿勢と、横から見るとより際立つ鼻の高さに社会を勝ち抜いてきた編集長としての強さを感じる。


「あら、九華がそんなオカルティックなものを調べるなんて珍しいわね。いつもリアルを求める、とか、現実味のあることしか信じないなんて言ってるじゃない。どこかの誰かさんみたいに」


 その端麗で透き通るような声と共に彼女の茶色の双眸そうぼうが向いた先は、彼女の向かいに座る、父親だった。はっきりとした目鼻立ちに、ツーブロックの黒髪がもうすぐ五十歳という老いを感じさせないような若々しさで、普段記者として走っているばかりか、体も九華と比べるとそれはそれは大きい。


「はっはっは、まあでも色んなことに興味を持つことは良いことだと思うよ。もちろん、真実を追い求めることを忘れてはならないが、真実を見極めるためには様々な情報を得ることや、多くの人との交流が大事になってくるからね。その交流の過程で、素敵な人とも出会えたりするし」


 朗らかな表情で、義孝は麻美に視線を返す。麻美はほんの少し顔を紅潮させて目線を外し、紛らわすように箸を進めるスピードを速くする。父の言葉を聞き、九華はふと今日の新聞部での会議を思い出す。一度箸を止め、彼女は父にまっすぐな視線を向けて呟く。


「ねえ、私も……いつか、パパみたいなすごい新聞記者になれるかな?」


「もちろん。どんな時も、真実を追求する気持ちを忘れなければね」


 その言葉が、何よりも父らしくて九華はどことなく嬉しかった。昔から、父親の背中を見てきた。わざわざ職場に連れて行ってもらい、現場で仕事する義孝の姿を見たこともあった。作った新聞で世の中に影響を与え、真実を求め続けるその姿勢に九華は胸を打たれ、ずっと彼の背中を追ってきたからだ。

 自分の中で、一つ決心がついた。明日、想汰とも、他の二人ともきちんと話し合おう。そして、必ず作り上げるんだ。自分達の新聞を。


「まあ、それでも一人で抱え込みすぎるのは良くない。結局は誰かとの付き合いがないと、人間生きていけないんだ。そういうわけで、佑哉。お前も勉強ばっかしてないでそろそろ彼女ぐらい作ったらどうだ?」


「はあ!? なんで急に俺なんだよ」


「そうね、正直成績よりも人付き合いが希薄な方が私的には心配だわ。ほら、佑哉なんて人見知りの極地みたいなもんでしょう」


 父の言葉に母が乗っかり、佑哉は思わず動揺して、箸を落としそうになる。その応酬に乗っかって、九華もここぞとばかりに口を動かす。


「そうだそうだ! 思い返せば休日とかもずっと私に絡んでくるし! 彼女は愚か、友達すらもどうせいないんでしょ」


「ばーか!俺の友達は俺と同じく、みんな忙しいんだよ。お前みたいな暇野郎と一緒にすんな」

 

「はあー!? 誰が暇なのよ! こっちも年がら年中忙しいんですけど!?」


「はいはい。というかお前も彼氏出来たことないくせによく俺のこと言えるよな!」


 声を上げる佑哉に、思わず九華の顔が赤くなる。反論し損ねていたところに、兄の隣に座る父が彼の肩に手を優しく乗せ、神妙な顔で言う。


「佑哉、年頃の女の子にそういうことを言うのは良くないぞ」


「なんでだよ!じゃあなんで俺は良いんだよ!」


 九華が返す。


「理由はないけど……あんたは良いのよ! 私は中学生でまだまだ余裕があるけど、大学生にもなって彼女一人もいたことないって事実は正直笑えないわ」


「ってかそもそも何で俺が彼女いない前提で父さんも母さんもお前も話してるんだよ!」


「……え、いるの?」


 九華の呟きから、リビングにしばしの沈黙が流れる。他三人の視線を待っていたかのように箸を止め、顎に手を当てて、鼻高々にカッコつけている兄。静かにふっふっふ、と先ほどから余裕そうに笑っているが。


「いや、ないな」


「ないわね」


「うん、ない」


 父、母、九華の順だった。それから三人は何の気なしに箸を進め、兄の「おい!」というツッコミには表立って誰も反応することは無かった。ただ内心、九華だけは笑いと同時に、家族で過ごせることの幸せを改めて感じた。


 

「じゃあ、私は寝るので。お父さんも私も明日早いから、ちゃんと自分達で起きるのよ」


「はーい」


 風呂上がりでタオルを頭に巻いた母が、寝室のある二階へと消えていった。珍しくリビングでニュースを見ている九華はそれとなく返事を返した後、明日の話し合いに向けての情報収集を再開した。先ほどまで食事をしていた大きなテーブルには、兄の佑哉が座っており、部屋着のまままた分厚い問題集を解いている。


 ブーッ。突然彼女のポケットに入れていたスマホが鳴った。何かの通知。それを取り出そうとした瞬間、巻き込まれて今日想汰から貰ったお守りの破片が床に落ちた。拾い上げ、それを手に握ったまま、来た通知をタップして内容を確認する。

 それは自分のSNSアカウントへ一分前に来た、ダイレクトメッセージだった。送り主は。


「雨宮風句二から……?」


 届いたメッセージには、たった一行だけの文章が添えられていた。


「その日が、早まった。今日だ」


 九華は画面を注視する。その日?その日って、なんだ。早まった?今日?まさか。


 ────ドーン!


 その、直後だった。葛藤の隙も与えないまま、耳をつんざく轟音がまるでイヤホンで聴いているかのような迫力で外から聞こえてきた。雷鳴が可愛く思える音量に思わず体を震わせてから、その後考えたくもない妄想が現実に追いついてくるような感覚があり、更に体の震えが激しくなってくる。


「……なんだ今の? 雷か?」


 窓の外を開けて確認しようとする佑哉を尻目に、九華はいてもたってもいられなくなり、気づいたら足を動かしていた。靴も履かないまま勢いよく玄関を飛び出し、住宅街の路地を凄まじい勢いで駆けていった。

 いくらか走ってから、気づいた。体に当たる雨粒の応酬。突発的な豪雨が彼女の見る世界を支配し、黒雲はあちこちで唸りを上げ、もう怖がれないほどの雷鳴が降り注いでいる。


 舗装されたコンクリートの地面が走る度に、裸足を刺すような感覚を教えてくれる。生きてる、まだ自分は、世界は。ただの虚言であって欲しかった。予言なんか信じたくなかった。そんなの現実じゃないから。空想に過ぎないと思っていたから。


 涙か、雨か、分からずじまいのそれが全身を伝う。いくら走っても振り払えないその事実の輪舞曲ロンドが体に染み込んでいく感覚が、仕方なくも苦しかった。目的地もないその見切り発車の旅が終わりが告げるのは、彼女が天を仰いだ時だった。


 九華は、この目ではっきりと見た。邪悪な黒雲が退けられ、空の真ん中に金色の光が流れてくるのを。彼女は空が割れるのを見た。初めてだった、どことなく希望に見えて悔しかった。

 無意味なのに、足をわざわざ止めて彼女はその光源に手を伸ばした。雨でもう濡れ沈んだお守りを握りしめながら、今から自分達も、神すらも滅ぼすそれに、本能的に助けを求めた。


 世界全体の空気が震える。その瞬間、雨が止み。空の割れ目が勢いよく光り出し、閃光になり、見えるもの全てを照らし、世界は真っ白に見えた。

 あまりにもうるさかった雨音。それが恋しくなるような、静けさで一瞬で自分も景色も光に包まれた。まるで頭の中にいるような、無音。


 九華は自分が今生きているのか、死んでいるのかそれも分からないまま、ただ地面から足が離れていくような感覚だけを感じた。そして、目を瞑った。


 全てが、現実となった。



 重い瞼を開ける感覚。頭に感じる井草の感触が、慣れているわけではないが心地よくまだ眠っていたいと思える。それでも、学校に行かなければと九華は体を起こす。


「ふぁ〜あ」


 お腹の口が開き、大きなあくびをした後。九華はここが自分の家の部屋ではないことに気づき、周囲を見回す。視界に映っているものの全てが、白い石灰で固められたような様相をしている。でも今はそんなことを気にしている場合ではない。早く学校に行かなければ。

 畳の床を手で押し、立ち上がる瞬間。九華はいつもより自分の手が床に沈み込むという不思議な感覚を覚えて、思わず下を向いて自分の体を確認する。

 白黒のマーブル模様の肌。発泡スチロールのように滑らかな触り心地。丸まった手先と足先。もう一度あくびをすると、のっぺりとしたお腹の前面が縦に割れるように大きく開き、その中も同じく白黒マーブル模様の肌が広がっており────。


「……え? え? え、え? は?」


 思わず走り出し、その家の洗面所に九華は駆ける。歩く度に木の床に沈むクッションのような足に慣れないまま、鏡に向かってその姿を確認する。


「嘘……! はぁ!?」


 まるでキノコのかさのような形をした白黒マーブル模様の肌の顔には、目や耳、鼻、口といった人間らしさを表すパーツが一つも付いておらず、その丸まった手で彼女は何回もそこを擦って確認する。


 鏡に写っていたのは、そんな人型の化け物。夢かと確認しようと、彼女は自分は自分の頬だったであろう部分を叩いてみるが、手も顔もクッションのようになっていてどちらも沈み込んでしまった。全く痛みなど感じられなかったのに、その感触がリアルすぎて九華は思わずお腹の口をパクパクと動かし、ただ笑うしかなかった。

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