久野さやかは止まらない

@haraharamasa

第1話 死闘!サンライズエクスプレス





今夜、列車は来なかった。代わりに、現実が来た。




悪魔の囁きだったのか、はたまた天のお告げだったのか――

そこは未だに判別がつかない。


でも人間って、たまにそういう“脳のバグ”に見舞われる生き物。

私にだってある。突発的な衝動。理由も理屈もない、「逃げたい」の感情。


喧騒を避けて、静かなところへ行きたくなる。

今いる世界が、少しだけ他人のものに見える時、

その枠の外に出てみたくなる。


まあ、現実逃避ってやつね。

文学的に言えば“彷徨”。俗に言えば――“サボり”よ。


で、ちょうど私は、体力もあった。

お金も、ないことはなかった。

気力も、なぜか妙に前向きだった。


そんな条件が揃ってしまったら、

「岡山に行きたい……」

なんて発想が浮かんできたわけ。


……しかもそれを思いついたのが“当日”っていう、

スケジュール帳が聞いたら卒倒しそうなタイミングだったってことを、あなたたちには先に伝えておくわ。




私は思った。

……というより、考えてるフリをして、結論だけ先に決まってた――ってのが正しいかもしれない。


「普通に新幹線で行く」のって、なんか……こう、味気なくない?

だって、あっという間じゃん。……それのどこがいいの?


わかりやすく言うと、「普通」で満足できなくなってる。

ちょっとイヤな兆候だが、今は置いておくわ。


諺にあるでしょ?

「鉄は熱いうちに打て」――ってやつ。

私のテンションも、時間が経てばどうせ冷めるし。


冷静になった未来の私が「バカじゃないの?」って言い出す前に、今のバカな私で行動すべきだ。


そう思ったのはいい。

だが、現実は甘くない。


今日、私は仕事だ。

しかも夜8時まで。体感でいうと、刑務作業のラスト2時間に相当する時間帯だ。


で、どうやって岡山を目指す?


一応、新幹線という手は残っている。

頑張れば間に合うが、仕事終わりにダッシュする気力なんてあるわけがないし、

ましてや当日中に着いたところで、深夜の岡山でやることがあるわけでもない。


それじゃあ、気持ちの熱さだけを持て余す結果になる。

それが一番、興醒めだ。


だからこそ――

私の中のどこかが、答えを出していた。


考えること約2秒。

いや、たぶん脳は0.5秒くらいだったけど、感情に翻訳するのにちょっと時間がかかっただけ。


「……サンライズ号があるじゃん」


寝台特急、サンライズ瀬戸。

深夜に東京を発ち、翌朝、岡山を経て高松まで走る列車だ。


知らなかったらWikipediaで調べてほしい。私もさっき見た。


即座にJR西日本のサイトを開いた。

心はもう、岡山に行くつもりだった。

それ以外の選択肢は、なんかもう“つまらん”って感じだったから。


どうやら、サンライズ号って人気らしい。

席がすぐ埋まるのは当たり前、当日予約なんて運試しレベルの話だとか。


……まぁ、私もその“運”ってやつには縁がない方だと、長年思っていた。

クソゲーにハマってるけど、だいたいクジ運悪いし、そればかりしか出ない時はすぐアンインストールするしね。


でも今日だけは違った――


一席だけ空いていた。


まるで誰かが「ここ、君のために空けといたよ」と言わんばかりの、奇跡みたいな一席。

あまりに出来すぎてて、何かのフラグが立ったんじゃないかと少し警戒すらした。


それを聞いたら、店長はこう言うだろう。

「久野ちゃんの日頃の行いがいいんじゃない?」


……知るかバカ。

ただの寝台予約だ。いちいち私の行いを問うな。

ていうか私がどこへ行こうが、あいつに報告する義務はない。


でも、もし店長が隣にいたら――

きっとあの営業スマイルで座席の隙間にすっと収まって、


「この旅もきっと、久野ちゃんにとって意味のあるものになるよ」


とか、こっちが言う前にオチをつけてきそうで怖い。


……いや、ちょっとだけ安心するかもしれないけど。


そんなことをぼんやり考えながら、私はネット予約を完了させた。


まさか私にも、思い通りに行く日が来るとはね。


もしかして、私にもなんでも思い通りにできる力が身についてたりするのかな?

だとしたら、私はそっと願いたい。


「どうか私に、いつもの日常に戻してください」


私の仕事、激務だからね。

会員管理しなきゃいけないし、子どもの運動指導しなきゃいけないし。


いずれにしても――


「……やれやれ」


私もだいぶ、この状況に毒された。

そしてそれが、私の“日常”になったんだろう。


まぁそんなことは置いておいて、今は通勤時間中。

満員電車にギュウギュウに押し込まれながら、今夜の出発に思いを馳せている。


そう、今夜だ。

私は、あのサンライズ瀬戸に乗る。


特にドラマチックな理由があるわけじゃない。

ただ、昨日ふと思い立っただけ。


「岡山に行きたい……」


ただ、それだけ。

でも、こうして本当に行く段になると、無性にそわそわするのはなぜなんだろう。


私のどっかに残ってる学生の頃の私が、テンションだけで旅支度してる気がする。


さて、岡山には明日の朝6時半に着く。

で、私はその日の夕方から仕事がある。


あんまり言いたくないけど、社会人に自由なんてそうそうないのだ。


つまり、岡山での自由時間は6時間半。

現実とは、残酷である。


それでも、何かひとつは“旅っぽいこと”をしておきたい。

そう思って調べてみたら、あった。マリンライナー。


到着から30分後に発車して、瀬戸大橋を電車で渡れるらしい。

ちょうどいい。海でも見てこよう。


……そのあと?知らない。

橋の向こう側に何があるかも、まだ調べてない。

まぁ、現地に着いてから考えればいいでしょ。


ついでにレンタル自転車の情報も見つけた。

観光地を制覇する気力はないけど、知らない街並みを適当に走るだけでも旅してる感は出る。


そんな感じで、ざっくりとした計画はできた。

あとは今日10時間働いて、夜の出発を迎えるだけ。


……行く前が一番テンション高いって言うけど、

その言葉の意味が、今日ほどしみる日はない。


「あー……早く岡山行きたい」


電車に揺られながら、私は何度目かのため息をついた。




ついに私は、長い労働という名の“日本経済を回す歯車”をやり遂げた。

これだけ国のために働いたんだ、誰か私に「よく頑張ったね」くらい言ってくれてもいいでしょ。

ていうか、そろそろ税金下げろボケ。


……とはいえ、そんなことは今はどうでもいい。

今日の私には、もっと重大な使命がある。


私は、岡山を目指す。


普通の会社員ならこの時間、居酒屋でビールでも煽って、泥酔して駅の階段で転げ落ちるルートが標準装備だろう。

でも今日の私は違う。


何百キロも先の地へ、今から旅立つ。

酒じゃない。酔って吐くのは人生にじゃなくて、新しい景色にだ。


じゃあね、サラリーマン諸君。

ゲロ吐いても、自分の信念だけは吐き出さないようにね。


さて、そんな哀愁と希望の交差点で、私はふと携帯を開いて予約サイトを確認した。

何気ない確認のつもりだったが、そこで一文が目に入る。


「チケット未発券」


……はい?


支払いは済んでいる。確かにお金は払った。

しかし、チケットが手元にない……?


そこから私の脳は、一気に戦闘モードに入った。


詳しく調べて、私は知る。

このサンライズ号、チケットは“券売機で発券しなきゃならない”仕様だったらしい。


なんなのよこの罠。


今の私は、人生初の“動く別荘”にテンションが上がってたのよ。

ましてや通勤ラッシュの満員電車の中、スマホを操作するにも肘が折れるかと思ったのに。


つまりこういうこと。


私は今、岡山へ向かう旅人ではない。

発券という名の試練を課された、ただのチケット回収戦士になった。


もしこのまま乗車券を持たずにサンライズに乗ったらどうなるか?


当然、車内でもう一度同じ券を買わされる。

それはつまり、2倍の金額で私のアホさを買い取るってこと。


……ふざけんな。


私はすぐに、最寄り駅で発券できないか調べた。

……ダメだった。


次に、サンライズが発車する駅で発券できないか?

……それもダメだった。ちょっとこれ、どこで発券できるのよ……。


そこから40分。

スマホのバッテリーと私の精神力を削りながら、必死で調べ続けた。


情報は疑ってかかる。それがネット時代の鉄則だ。

裏を取り、条件を精査し、ようやく導き出した答え。


「都内に行け。話はそれからだ。」


なるほど、戦いの舞台はさらに遠くへ。

都内の特定の駅でしか、サンライズのチケットは発券できないらしい。


あぁ、サンライズよ……

あんた、旅情をくれるだけじゃなくて、試練まで用意してくれるのね。


時計を見る。

ギリギリ、間に合う。


だがこれはもう、旅ではない。

これは戦争だ。


私のサンライズ搭乗のための――

**“最終決戦”**が、今、幕を開けた。




私はとにかく走った。

この10時間の労働――というより、水の中で過ごした10時間を経て。


朝イチからプール監視。

元気すぎるじいちゃんばあちゃんたちに背泳ぎを教えて、

1時間休憩したかと思えば、今度はパソコンとにらめっこ。

そこからは、泳ぐ爆弾ことガキンチョどもに水泳を教える。

水を飲んで泣く奴、調子に乗って潜りすぎて溺れる奴……

私のHPは、もうゼロよ。


そしてラスト1時間半は、選手育成。

対象:小学1〜4年。


なんだろうね。

若さって、呼吸しなくても泳げる能力とか付いるのかな?

私がその年齢だった頃は、浮くだけで感動してたわ。


それで、よ。


そんな重力の呪いを背負った私が、今なにをしているかというと――

チケットを受け取らなければすべてが終わる、という絶望的任務に挑んでいる。


時間との勝負。

心のどこかに、「背の高いアルバイトの男の子ならここでダッシュを選ぶだろうな」と思った私がいた。

……うん、いるだけで別に何もしてくれないけど。


「諦める」という選択肢は、私の辞書にない。

……まぁ、辞書に「余裕」とか「段取り」も載ってなかったわけだけど。


なんとか、発券対応している品川駅に到着。

ここまででMPの残量は警告赤ランプ。


発券機を前に、タッチパネルを操作する。が――


「……やり方が分かんない」


画面にはそれっぽいメニューが並んでいる。

だがどこを押しても、私のチケットの影も形も出てこない。


そのとき脳裏に浮かんだのは――

サンライズ瀬戸がJR西日本仕様であるという事実と、

今いるここ――品川駅がJR東日本の支配領域であるという絶望だった。


つまり、

同じJRでも、発券システムが違う。


「……くそっ! 統一しとけよ!」


私は券売機の前で立ち尽くす。

改札の中。まだ出てない。

今出たら、また戻るのに時間がかかる。

それどころか、もう戻れない可能性だってある。


この狭い駅構内で、私は世界の広さと不便さを思い知っていた。


ここまで来て――

この駅まで来て、「今さら乗れませんでした」なんて冗談じゃない。


でも、突っ立って考えてる間にも、時計の針は情け容赦なく進んでいく。

この国では、時間の方が人間より強い。


私は観念して、券売機の駅員呼び出しボタンを押した。

ピンポーン、と間の抜けた音が響き、数秒後に駅員が現れる。


「すみません。サンライズ瀬戸のチケット、どこで発券すればいいですか?」


すると駅員は、あっさりと答えた。


「あぁ、それは……改札の外にあるみどりの窓口で発券してください」


私は一瞬、卒倒しかけた。

改札出なきゃダメなの……!?


この中で完結すると思ってた私がバカだったのか、

それともJRの構造がバカなのか。

いや、どっちもだろ。


追加運賃が発生することも厭わず、私はスイカで改札を出た。

すると、運がいいのか悪いのか――

みどりの窓口はちょうど正面にあった。


――が、新たな試練が待っていた。


行列。しかも、ほぼ全員外国人観光客。


いや、彼らに罪はない。

観光の自由は保証されるべきだ。

ただ、今だけは私を先にしてくれない……?


そんなこと、言えるはずもない。

こっちは当日にゴチャゴチャしてる身。

責める資格もない。


私は仕方なく列に並ぶ。

時間はどんどん削られていく。


そして、私が乗るのはここ品川駅ではない。

横浜駅からの乗車だ。


つまり――

この駅から残り10分以内に移動開始しなければ、サンライズは消える。


予約も支払いも済んでいて、

あとはチケットを持って横浜に行くだけだったのに、

このままじゃ私はJR西日本に“料金という名の寄付”をするだけの人間になる。


そんなのはごめんよ。


でも、列は進まない。

残り5分。


終わった……そう思った私は、

震える指でスマホを開き、払い戻しボタンに手をかけた。


そのときだった。


視界の端に、何かが映った。

遠く、柱の向こうに――


誰も並んでいない券売機。


まるでこの私を待っていたかのように、静かに光っていた。


私は、最後の光にすべてを賭けた。


もし、あの券売機で発券できなかったら――

そのときは、諦めて素直に家に帰ろう。

それは敗北の決意じゃない。

ただ、可能性の限界を認める覚悟ってやつ。


私は全力でダッシュした。

足は重い。呼吸も浅い。

でも心だけは、まだ走れると言っていた。


そしてその道を阻むように、私の前に現れたのは――

腰ほどの高さの赤いパーテーション。


整列を促す、あの駅によくある仕切り。


だけど、聞いて。

私はこの短時間で何度も考え、何度も動いた女よ?

しかも今、残り5分でここを発たねば、サンライズには乗れない。


人目? 恥? そんなもの知るか。

今の私には「チケット>モラル」という強固な公式がある。


私は――

その赤い仕切りを、

陸上のハードル選手も賞賛するであろう跳躍で飛び越えた。


いや、今思えば完全に不審者だったと思う。

でも不思議と体は軽かった。

もしかしたら私、“ゾーン”とやらに入っていたのかもしれない。


券売機の前に立つ。指が迷いなく動く。画面が進む――

発券、完了。


……あれ? あっさり過ぎない?


これまでの苦労がまるで嘘のように、チケットはするりと出てきた。

でも、そういうもんだよね。

人間ってのは、極限状態だと妙に集中力が研ぎ澄まされる。


追い込まれたときこそ、前に進める。

それが、生き物としての底力ってやつだわ。


私は――無事に、チケットを手に入れた。


改札へ飛び込み、電車に乗ることができた。

やりきった……。

私は極限状態を、やり通したんだ。


無事に品川駅を発車。

あとは、私の乗車する横浜駅を目指すだけ。




私は、電車に揺られて思った。


いったい私は、なんでこんなにも衝動的に岡山を目指そうと思ったんだろう?

普通、旅ってのは1〜2ヶ月前には計画して、宿取って、行き先決めて、「あれ食べて、これ見て、ここ泊まって」ってやるものでしょ?


それに比べて私はどうか。

滞在時間、約6時間半。

もはや「旅」っていうより「一時的な転地療法」だ。


一体なにができるって話だけど、正直、私にもよく分からない。

唯一決めてたのは、マリンライナーに乗って瀬戸大橋を渡るってことくらい。


でも、なんでそこまでして瀬戸大橋を渡りたかったんだろう?


……たぶん、普段見ない景色が見たかったんだと思う。


私たちは、というかこの国の働く大人たちは、

家と職場の往復でほとんどの時間を消費してる。

その中でうまくやりくりして、「手ごろ」で済むことを繰り返して生きてる。


だけどさ、その「手ごろ」って、いずれ飽きるんじゃないかな?


飽きたら、何をしても気力が湧かなくなる。

新しいことを見つけても、すぐ飽きて、また繰り返し。

……私はきっと、そうなる前に動いてみたかったんだ。


その結果がこれ。

突拍子もない岡山行き。

計画なんてない。ただ、「今ここにいる自分」が、ちゃんと何かしてる感覚が欲しかったんだろうね。


そんな哲学的なことを考えていたら、ふと――ある“現実的な問題”に気づいた。


私、スイカで品川駅に入ってたわ。

で、手元にあるのは横浜から岡山までの紙の乗車券。


つまり――このままじゃ、

「改札でちゃんと乗車券通してませんよね?」

って岡山で言われる可能性、大。


これはまずい。

ここまで頑張ったのに、最後に不正乗車疑惑なんて勘弁してほしい。


調べてみた。結論はシンプル。


NO。完全アウト。


どうすればいいのか。

対処方法は、これまたシンプルだ。


1. スイカで一度改札を出る



2. 紙の乗車券で再び入り直す




簡単……でしょ?

いや、チケット発券までのカオスを思えば、これは散歩みたいなものよ。


そして、ようやく横浜駅に到着。

私は、サンライズに乗るまでの所要時間を調べる。


6分。


えぇ……また時間に追われるの…。


とはいえ――ここは私の使い慣れた駅、横浜駅。


構内の構造は把握してるし、乗り換えだって日常茶飯事。

サンライズ瀬戸の発車ホーム? だいたいの位置も感覚で掴める。


残り6分? 上等じゃん。


今までの試練を思い出してみて。

謎仕様の発券システム、時間とのバトル、駅構内ダッシュ、ハードル飛越。

そのすべてをくぐり抜けてきた私にとって、これはボーナスステージみたいなものよ。


「走れば間に合う」

それだけ。 それだけの話なの。


ここまでの私の集中力が切れてさえいなければ、

むしろこの数分には、静かな余裕すらある。


――横浜駅、到着。

電車のドアが開いた。

その瞬間、私の中で何かが鳴った。


ピストルの音だ。 陸上で言えば、スタートの合図。

私は反射的に走り出す。


人の波はある。でも関係ない。

私は――まだゾーンの中にいる。


人の動きがスローに見える。

その合間を縫って走るのは、もはや特技の域だ。

階段も駆け下りる。足が地面を叩く音だけが、今の私のBGM。


そしてついに――改札を出た。


まるでゴールテープを切るような感覚だった。

達成感? あるに決まってる。

これは、数ある駅通過の中でも五本の指に入る改札抜けだったわ。


サンライズ発車まで、残り5分。


こんなに簡単な第2ラウンドは無かった。

いや、正確には第1ラウンドが地獄だった。

それに比べれば、これはもはやクールダウンみたいなものよ。


高鳴る鼓動を押さえつつ、私は財布から乗車券と特急券を取り出す。

改札を通す。今度はエラーも起きない。

私の手は迷わず、足取りは軽い。


ここから先は――歩いて、ホームに向かうだけ。


そう、私は初めて「歩く時間」を手に入れた。


職場から、責任から、時間から。

ほんの少しだけ自由になった足取りで、

私は横浜駅の構内を凱旋するように歩く。


電光掲示板に目をやる。

時刻表が、静かに光っている。


22:15発。 特急。 サンライズ……?


……ん?


ない。


そこにあるはずの「サンライズ瀬戸」の文字が――見当たらない。


時刻は合っている。けど、名前が、ない。


私は焦る気持ちをなんとか押さえ込みながら、駅係員のいる窓口へ向かった。

幸いなことに、そこに客は並んでいなかった。

もしかすると、それ自体が不穏な予兆だったのかもしれないけど、

そのときの私はまだ、余裕があった。


カウンター越しに聞いた。

静かに、でも心のどこかで期待を込めて。


「あの……サンライズ、来てないんですけど」


係員は一瞬だけ言葉を選んだ。

その間に、私の心はなぜか一度だけ“まさか”と笑っていた。


けれども、駅員は柔らかく、それでいて致命的な一言を返してきた。


「申し訳ございません……。実はJR東海の方で悪天候の影響がありまして……、サンライズ号が上って来れてないんですよ……」


……え?


運休? サンライズが?

悪天候で?


瞬間、脳が凍った。いや、むしろ思考が一度“無”になった。


言われた言葉の意味は分かる。

でも、すぐに理解するには情報の質量が重すぎた。


状況を整理しよう。


本来、私が今から乗るはずだったサンライズ号。

その列車は、前日夜に高松を出て、朝に東京方面へ上ってくる。

つまり、今夜の折り返し運転に向けて、一度こっちに来る必要がある。


だが――悪天候のせいで、戻ってこれなかった。


そしてそのまま、品川駅に来ることなく、運休扱いになった。


私がここまでして手に入れたチケットも、駆け抜けた時間も、ゾーンも、赤い仕切りも、すべて――

乗るはずだった列車が来ないという一点で霧散する。


私は愕然とした。


全く、いい夢見させてもらったわ――サンライズさん。


私は観念して、窓口の駅員に返金対応をお願いした。


すると返ってきたのは、優しげで冷たい現実。


「承知しました。返金は可能です。

ですが……サンライズはJR西日本の管轄なので、JR東日本のみどりの窓口では対応できないんです」


……なに?


返金は可能、だけど対応できない?

言ってることが支離滅裂すぎて、私の脳がエラーを起こしかけた。


でも――私の手元にはまだ、もうひとつの現実がある。


岡山からの帰りの乗車券と特急券。


本来なら、これを使って旅を終えるはずだった。

でも今、岡山に行かなければ、この券すら無駄になる。


……待てよ。

もともと私、旅の目的って「瀬戸大橋渡る」しか考えてなかったよね?


ってことは――どんな理由であれ、岡山に行く“理由”なんて、後からどうにでもなる。


岡山で返金してもらえる?

それで十分じゃない!


私は駅員の前で、はっきりと宣言した。


「わかりました。私、返金してもらうために岡山に行ってきます」


駅員は一瞬、明らかに驚いてた。

でもすぐに、姿勢を正してこう返してくれた。


「承知しました。申し訳ございません。ご足労おかけして……どうかお気をつけて行ってらっしゃいませ」


私は、その場を静かに後にした。


正直言って、サンライズがダメになった以上、

新幹線で岡山を目指すのは金銭的には高くつく。

気に食わない。けど――これもまた、人生。


私は決めた。


明日の早朝、私は返金してもらうためだけに岡山を目指す。


それがどんなにバカバカしくても、

私にとっては、意味のある一歩なの。


岡山に行ったからって、何かが変わるわけじゃない。

だけど、“変わらないってことを確認する旅”も、きっと必要なんだと思う。


少なくとも私は今、ここまで動いた自分のことを、

ほんの少しだけ、好きになれそうだわ。


午後ティーは甘いのに、人生はカカオ99%。

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