第36話 森の歌姫

―――ああ……愛しきは、我が君……。

―――その御魂、我が調べに、捧げたまえ……。


それは、子守唄のようでもあり、鎮魂歌レクイエムのようでもある、不思議な歌声だった。

俺とイリスは、息を殺し、歌声が聞こえてくる闇の奥を、睨みつける。


やがて、木々の間から、月明かりを浴びて、一つの人影が、ふわりと姿を現した。

それは、少女だった。

年の頃は、リリムと同じくらいだろうか。

だが、その雰囲気は、人間とは明らかに異なっていた。

長く、編み込まれた髪は、若葉のような淡い緑色。木の蔓や、色とりどりの花々で編まれた、簡素な衣を纏い、その耳は、エルフのように長く、尖っている。

何よりも、その人間離れした美貌は、この世のものとは思えなかった。


少女は、俺たちの前でぴたりと足を止めると、歌うのをやめた。

そして、大きな翡翠色の瞳で、俺とイリスを、じっと見つめている。

敵意はない。ただ、純粋な好奇心に満ちた、野生動物のような瞳だ。


「……あんたは、誰だ?」

俺が、剣の柄に手をかけたまま、問いかける。


少女は、こてん、と首を傾げた。

「わたしは、ルルティエ。この森の、歌い手」

そして、彼女は、俺とイリスを、交互に指さした。

「あなたは、半分、闇の匂い。あなたは、全部、光の匂い。……でも、あなたからは」


彼女の指が、俺に向けられる。


「初めて嗅ぐ匂いがする。夜が終わって、朝が来る時の、匂い」


「……!」

俺も、イリスも、息を呑んだ。

この少女は、一目見ただけで、俺の根源を。


「あなたたち、お腹すいてる? 傷、痛い?」

ルルティエは、屈託のない笑みを浮かべた。

「森は、傷ついた人を、拒まない。わたしの、おうちへ、おいで」


俺たちは、顔を見合わせた。

警戒すべきだ。だが、この少女からは、不思議と、悪意の類が一切感じられない。

結局俺たちは、まるで夢遊病者のように、彼女の後に、ついていってしまっていた。



ルルティエの家は、森で一番大きな大樹の、うろの中にあった。

中は、驚くほど広く、壁には、光る苔が、柔らかな明かりを灯している。

彼女は、俺の肩の傷を見るなり、どこからか取ってきた薬草を、慣れた手つきですり潰し、傷口に当ててくれた。ひんやりとした感触が、痛みを和らげてくれる。

イリスには、マナを回復させるという、不思議な泉の水を差し出した。


「すごい……。こんなに清浄なマナ、聖都の泉でも、これほどでは……」

イリスは、驚きの声を上げている。


「あなたたち、どうして、森に来たの?」

ルルティエは、俺の隣にちょこんと座り、尋ねてきた。


俺は、少し迷ったが、掻い摘んで、俺たちが追われる身であることを話した。

彼女は、黙って、俺の話を聞いていた。


「……そう。森の外は、いつも、悲しいことでいっぱい。だから、森は、外の世界を、忘れたの」

彼女は、どこか寂しげに、そう呟いた。


その時、俺は、イリスからの、鋭い視線を感じた。

ふと横を見ると、少し離れた場所で、イリスが、頬をぷくりと膨らませて、俺とルルティエを、じっと睨みつけている。


(……)

聖女様の、意外な一面。

俺は、そのことに、少しだけ、口元が緩むのを感じた。



翌朝。

俺とイリスは、ルルティエに礼を言い、出発の準備をしていた。

彼女のおかげで、俺の傷も、イリスのマナも、かなり回復している。


「本当に、助かった。この恩は、必ず返す」


「いいの。森は、助け合うのが、当たり前だから」

ルルティエは、にこりと笑った。


だが、俺たちが洞を出ようとした、その時。

ルルティエが、俺の服の袖を、くい、と引いた。


「待って」

彼女の顔から、笑顔が消えている。


「あなたたち、このまま森を出たら、すぐに、死ぬ」


「……どういう意味だ?」

俺が、眉をひそめる。


ルルティエは、森の出口がある、西の方角を、じっと見つめた。

その翡翠色の瞳が、まるで、遠くの光景を見通しているかのように、細められる。


「森の出口にね、たくさん、『鉄の人』たちが、集まってる」

彼女は、淡々と、告げた。

「あなたたちのこと、待ってるみたい。鉄の人たちは、森のことが、嫌いみたいだから、森の木々が、怒ってる」


「……!」

聖王国軍が、既に出口を、包囲しているというのか。

どうやって、俺たちの行き先を?


俺とイリスが、絶望的な表情で顔を見合わせた、その時。

ルルティエは、悪戯っぽく、にやりと笑った。


「でも、大丈夫」

彼女は、俺たちの手を取った。

「この森にはね、鉄の人たちが知らない、秘密の抜け道が、いっぱいあるの。わたしが、案内してあげる」

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