第34話 聖女の寝顔と、魔王の涙

柔らかな温かさと、花の香り。

心地よい感覚に包まれながら、俺の意識は、ゆっくりと浮上した。

目を開けると、まず視界に入ったのは、焚き火の燃えさしと、洞窟の岩肌。

そして、自分の頭が、何か柔らかいものの上に乗っていることに気づいた。


「……ん……」


俺が身じろぎすると、すぐ隣で、小さな寝息が聞こえた。

見れば、聖女イリスが、俺に肩を貸したまま、壁に寄りかかって、静かに眠っている。朝日が、洞窟の入口から差し込み、その白磁のような横顔を、神々しく照らし出していた。

長い睫毛。あどけなさの残る、形の良い唇。

普段の、近寄りがたい聖女の姿とは、全く違う。無防備で、儚げな、ただの少女の寝顔。


俺は、その光景に、なぜか、目を離せなくなっていた。

心臓が、とくん、と一つ、大きく跳ねる。


その、小さな鼓動に驚いたかのように、イリスの睫毛が、ぴくりと震えた。


「……あ……」


目が、合った。

数秒間、俺たちは、至近距離で、互いを見つめ合ったまま、固まっていた。

先に我に返ったのは、イリスだった。


「あ、あ、アレン!? お、お目覚めでしたか! い、いつから……!?」

彼女は、顔を真っ赤にして、慌てて俺から身を離す。その狼狽ぶりは、聖女の威厳など、微塵も感じさせない。


「……すまん。重かっただろ」


「い、いえ! そのようなことは…! そ、それより、お身体の具合は!?」

しどろもどろになりながら、彼女は俺の肩の傷を覗き込む。

その必死な様子が、なんだか、おかしくて。


「……ふっ」

俺の口から、思わず、笑いが漏れた。


「な、何がおかしいのですか!」

イリスが、潤んだ瞳で、俺を睨みつける。


「いや……あんたも、そんな顔するんだな、って」

俺がそう言うと、彼女は、ますます顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。

俺たちの間に流れる、気まずく、しかし、どこか温かい空気。

俺たちは、もう、ただの敵同士では、いられないのかもしれない。



俺たちは、まず、現状を整理することにした。

イリスの知識によれば、ここは、どの国にも属していない、広大な中立の森『忘れられた森』だという。


「ここから一番近い街は……西に三日ほど歩いた場所にある、港町ザルツァですね。そこは、様々な人種が行き交う、自由交易都市。聖王国の影響力も、ほとんどありません」


「そこに行けば、情報を集められるし、魔王城に連絡を取る手立ても見つかるかもしれないな」


「はい。ですが、問題は……」

イリスは、洞窟の外、俺が倒した追い剥ぎたちに、ちらりと視線を向けた。

俺たちは、彼らの亡骸を、洞窟から離れた場所に運び、イリスは、その場で、静かに祈りを捧げた。敵であった者にも、等しく弔いを捧げる。それが、彼女の在り方なのだろう。


「わたくしたちは、追われる身。目立たず、食料や水を手に入れながら、三日間、この森を歩き通さなければなりません」

それは、想像以上に、過酷な旅になるだろう。


「やるしかないだろ」

俺は、立ち上がった。

「行くぞ、イリス。あんたが道案内だ」


「……はい!」

イリスは、力強く頷いた。

その瞳には、もう、迷いはなかった。



(聖王国・聖都ルミナス)


荘厳な大聖堂の、最奥。

教皇のみが入ることを許された、祈りの間。

一人の男が、跪いていた。

『六枚の翼』の一人、カイン――シオンだ。


「……申し訳ありません、教皇猊下。聖女イリスと、異端者アレンの捕縛に、失敗いたしました」


「よい」

玉座に座る、老いた教皇は、穏やかな声で言った。

「イリスの離反は、計算のうち。むしろ、これで、あの娘にまとわりついていた、面倒な信者たちを、一掃できる」

その目は、笑っていない。


「カインよ。お主に、新たな勅命を授ける」


「はっ」


「イリスは、もはやどうでもよい。あの娘は、ただの道標に過ぎなかった。真に危険なのは、あの男、アレン。彼の魂に宿る『黎明の力』は、我らの『大いなる福音』の、唯一の障害となりうる」

教皇は、立ち上がった。

「捕縛せよ。もし、それが不可能ならば……」


その声には、神の慈愛など、欠片もなかった。


「いかなる手段を用いても、消し去れ」


「……御意」

シオンは、深く、深く、頭を垂れた。

その仮面の下の表情を、知る者は、誰もいない。





イリスと共に、森の中を歩き始めて、数時間が経った。

俺たちは、ほとんど言葉を交わさず、ただ、黙々と、先へ進んだ。


不意に、俺の胸の奥が、ズキン、と鋭く痛んだ。


「ぐっ……!?」

俺は、思わず、その場に膝をつき、胸を押さえた。


「アレン!? どうしました、傷が……!」

イリスが、慌てて駆け寄ってくる。

違う。これは、肩の傷の痛みじゃない。

もっと、心の、深い場所から来る痛みだ。


この感覚は、わかる。

リリムとの、契約の繋がり。

そこから、今、彼女の感情が、濁流のように、俺の心に流れ込んでくる。

怒り。悲しみ。不安。絶望。

そして、俺の名を呼ぶ、悲痛な叫び。


「……リリム……?」


俺は、彼女が、今、どれほどの想いで、俺の身を案じているのかを、痛いほどに、理解した。

魔王の、孤独な涙が、俺の胸を、締め付ける。


「すまん……」

俺は、会うことのできない主に、謝罪の言葉を、呟いた。

「必ず、帰るから。だから……」


泣かないでくれ。

その言葉は、声にならなかった。

俺は、遠い空を見上げ、ただ、唇を噛み締めることしか、できなかった。

俺たちの旅は、まだ、始まったばかりだというのに。

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