第34話 聖女の寝顔と、魔王の涙
柔らかな温かさと、花の香り。
心地よい感覚に包まれながら、俺の意識は、ゆっくりと浮上した。
目を開けると、まず視界に入ったのは、焚き火の燃えさしと、洞窟の岩肌。
そして、自分の頭が、何か柔らかいものの上に乗っていることに気づいた。
「……ん……」
俺が身じろぎすると、すぐ隣で、小さな寝息が聞こえた。
見れば、聖女イリスが、俺に肩を貸したまま、壁に寄りかかって、静かに眠っている。朝日が、洞窟の入口から差し込み、その白磁のような横顔を、神々しく照らし出していた。
長い睫毛。あどけなさの残る、形の良い唇。
普段の、近寄りがたい聖女の姿とは、全く違う。無防備で、儚げな、ただの少女の寝顔。
俺は、その光景に、なぜか、目を離せなくなっていた。
心臓が、とくん、と一つ、大きく跳ねる。
その、小さな鼓動に驚いたかのように、イリスの睫毛が、ぴくりと震えた。
「……あ……」
目が、合った。
数秒間、俺たちは、至近距離で、互いを見つめ合ったまま、固まっていた。
先に我に返ったのは、イリスだった。
「あ、あ、アレン!? お、お目覚めでしたか! い、いつから……!?」
彼女は、顔を真っ赤にして、慌てて俺から身を離す。その狼狽ぶりは、聖女の威厳など、微塵も感じさせない。
「……すまん。重かっただろ」
「い、いえ! そのようなことは…! そ、それより、お身体の具合は!?」
しどろもどろになりながら、彼女は俺の肩の傷を覗き込む。
その必死な様子が、なんだか、おかしくて。
「……ふっ」
俺の口から、思わず、笑いが漏れた。
「な、何がおかしいのですか!」
イリスが、潤んだ瞳で、俺を睨みつける。
「いや……あんたも、そんな顔するんだな、って」
俺がそう言うと、彼女は、ますます顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。
俺たちの間に流れる、気まずく、しかし、どこか温かい空気。
俺たちは、もう、ただの敵同士では、いられないのかもしれない。
◇
俺たちは、まず、現状を整理することにした。
イリスの知識によれば、ここは、どの国にも属していない、広大な中立の森『忘れられた森』だという。
「ここから一番近い街は……西に三日ほど歩いた場所にある、港町ザルツァですね。そこは、様々な人種が行き交う、自由交易都市。聖王国の影響力も、ほとんどありません」
「そこに行けば、情報を集められるし、魔王城に連絡を取る手立ても見つかるかもしれないな」
「はい。ですが、問題は……」
イリスは、洞窟の外、俺が倒した追い剥ぎたちに、ちらりと視線を向けた。
俺たちは、彼らの亡骸を、洞窟から離れた場所に運び、イリスは、その場で、静かに祈りを捧げた。敵であった者にも、等しく弔いを捧げる。それが、彼女の在り方なのだろう。
「わたくしたちは、追われる身。目立たず、食料や水を手に入れながら、三日間、この森を歩き通さなければなりません」
それは、想像以上に、過酷な旅になるだろう。
「やるしかないだろ」
俺は、立ち上がった。
「行くぞ、イリス。あんたが道案内だ」
「……はい!」
イリスは、力強く頷いた。
その瞳には、もう、迷いはなかった。
◇
(聖王国・聖都ルミナス)
荘厳な大聖堂の、最奥。
教皇のみが入ることを許された、祈りの間。
一人の男が、跪いていた。
『六枚の翼』の一人、カイン――シオンだ。
「……申し訳ありません、教皇猊下。聖女イリスと、異端者アレンの捕縛に、失敗いたしました」
「よい」
玉座に座る、老いた教皇は、穏やかな声で言った。
「イリスの離反は、計算のうち。むしろ、これで、あの娘にまとわりついていた、面倒な信者たちを、一掃できる」
その目は、笑っていない。
「カインよ。お主に、新たな勅命を授ける」
「はっ」
「イリスは、もはやどうでもよい。あの娘は、ただの道標に過ぎなかった。真に危険なのは、あの男、アレン。彼の魂に宿る『黎明の力』は、我らの『大いなる福音』の、唯一の障害となりうる」
教皇は、立ち上がった。
「捕縛せよ。もし、それが不可能ならば……」
その声には、神の慈愛など、欠片もなかった。
「いかなる手段を用いても、消し去れ」
「……御意」
シオンは、深く、深く、頭を垂れた。
その仮面の下の表情を、知る者は、誰もいない。
◇
イリスと共に、森の中を歩き始めて、数時間が経った。
俺たちは、ほとんど言葉を交わさず、ただ、黙々と、先へ進んだ。
不意に、俺の胸の奥が、ズキン、と鋭く痛んだ。
「ぐっ……!?」
俺は、思わず、その場に膝をつき、胸を押さえた。
「アレン!? どうしました、傷が……!」
イリスが、慌てて駆け寄ってくる。
違う。これは、肩の傷の痛みじゃない。
もっと、心の、深い場所から来る痛みだ。
この感覚は、わかる。
リリムとの、契約の繋がり。
そこから、今、彼女の感情が、濁流のように、俺の心に流れ込んでくる。
怒り。悲しみ。不安。絶望。
そして、俺の名を呼ぶ、悲痛な叫び。
「……リリム……?」
俺は、彼女が、今、どれほどの想いで、俺の身を案じているのかを、痛いほどに、理解した。
魔王の、孤独な涙が、俺の胸を、締め付ける。
「すまん……」
俺は、会うことのできない主に、謝罪の言葉を、呟いた。
「必ず、帰るから。だから……」
泣かないでくれ。
その言葉は、声にならなかった。
俺は、遠い空を見上げ、ただ、唇を噛み締めることしか、できなかった。
俺たちの旅は、まだ、始まったばかりだというのに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます