第17話 開戦の狼煙と二つの刃

『――待っていますよ』


聖女イリスの、声なき宣戦布告。

その言葉は、俺たちの心を凍りつかせるには十分だった。

玉座の間の空気は、先ほどまでの比ではないほどに張り詰め、誰もが言葉を失っていた。


「……面白い。面白いじゃ、ないか」


沈黙を破ったのは、俺だった。

喉から絞り出した声は、自分でも驚くほどに落ち着いていた。

恐怖ではない。武者震いだ。


「こっちの動きを読んでる、か。上等だ。だったら、その上を行くまでだ」


俺がそう言って不敵に笑うと、リリムがハッとしたように顔を上げた。


「アレン……?」


「ビビってる暇があったら、手を動かした方がマシだろ。敵が待っててくれるってんなら、礼儀として、全力で期待に応えてやらないとな」


俺の言葉に、場の空気が変わる。

絶望が、闘志へと。

リリムの瞳に、再び魔王としての傲慢な光が宿った。


「ふん、お主が言うと、妙な説得力があるのう。気に入らんが、その通りじゃな!」


リリムは玉座を強く叩いた。


「作戦を変更する! 奇襲は中止じゃ! 我らは、堂々と奴らを迎え撃つ!」


「お待ちください、リリム様! それでは、相手の思う壺です!」


ルナリアが焦ったように声を上げる。


「罠だとわかっていて、飛び込むと?」


「そうじゃ。罠だとわかっているなら、その罠ごと噛み砕けばよいだけの話。魔王城の結界と、我が精鋭たちがいれば、造作もないわ!」


自信過剰とも思える宣言。だが、それが魔王リリムという存在だ。

そして、その自信は、俺の心を奇妙に落ち着かせた。


「ゼノン!」


「はっ」


「防衛の指揮はお主に任せる。妾の眷属どもを総動員し、城の守りを固めよ。一匹たりとも、ハエを入れるな!」


「御意」

ゼノンは静かに一礼し、音もなく玉座の間から姿を消した。


「ルナリア!」


「はい、ここに」


「お主は、後方支援と負傷者の治癒を。得意であろう、精気を吸い取って癒すのが」


「あら、わたくしはアレン様の側がよろしいのですが……。ですが、魔王様のご命令とあらば」

ルナリアは芝居がかった仕草でため息をつき、一礼して持ち場へと向かった。


そして、リリムは俺とライアスに向き直る。


「さて、問題はお主らじゃ」


「言われずともわかっている。俺とアレンが、敵将の首を取る。そうだろ?」

ライアスが、吐き捨てるように言った。


「うむ。だが、ただの首ではないぞ。聖女イリスとやらを、生け捕りにして妾の前に連れてこい。あの女、なかなか面白い玩具になりそうじゃからのう」

リリムは、残酷な笑みを浮かべた。


「正気か? あの聖女を、生け捕りにしろと?」


「アレン。お主ならできるじゃろう? そして、そこの元S級」

リリムはライアスを顎でしゃくった。

「お主も、ただ乗りはさせん。アレンのサポートをせい。足手まといになったら、その場でアレンに首を刎ねさせても良いのじゃぞ?」


「……誰が、こいつのサポートなんか」

ライアスは忌々しげに呟いたが、反論はしない。それが、取引の条件なのだから。


こうして、俺とライアスは、二人で聖女イリスを無力化し、生け捕りにするという、無茶苦茶な任務を背負うことになった。

憎み合う元仲間。決して交わることのないはずだった二つの刃が、今、同じ敵へと向けられようとしていた。



魔王城の城門前。

俺とライアスは、静かに対峙していた。

背後では、ゼノンが指揮する魔獣やアンデッドたちが、防衛線を構築している。空にはガーゴイルが舞い、城壁には弓を持つスケルトンがずらりと並ぶ。まさに、魔王軍の総力戦といった様相だ。


「……アレン」


ライアスが、ぽつりと呟いた。


「なんだ」


「一つだけ、聞かせろ。お前は、なぜあの魔王に従う? 力に屈したのか? それとも、本当に魔族に堕ちたのか?」


その問いに、俺は空を見上げた。薄暗い魔の森の空は、いつもと変わらず淀んでいる。


「……さあな。自分でも、よくわからん」


俺は、正直に答えた。


「ただ、一つだけ言えることがある。あそこは、俺の力を必要としてくれる。俺が俺のままでいられる、唯一の場所だ。だから、誰にも……お前にも、聖女にも、それを壊させはしない」


「……そうか」


ライアスの返事は、それだけだった。

それ以上、俺たちの間に言葉はなかった。

互いに、全てを理解するには、あまりにも溝が深すぎる。

だが、やるべきことは同じだ。


地平線の彼方が、白く輝き始めた。

聖王国軍の、進軍の光だ。

大地が、震える。天が、鳴動する。


「来たな」


「ああ」


俺は剣を抜き、その切っ先を、迫り来る光へと向けた。

ライアスもまた、隣で剣を構える。


「アレン」


「なんだ」


「……死ぬなよ。お前を殺すのは、俺だ」


「そっくりそのまま、返してやる」


俺たちは、不敵に笑い合った。

憎しみと、奇妙な信頼が入り混じった、歪な笑み。


開戦の狼煙が、上がる。

俺は、地を蹴った。

隣を、ライアスが疾走する。

二つの刃が、聖なる光の奔流へと、突き進んでいく。


物語の結末など、誰も知らない。

ただ、この戦いの先に、俺たちの運命を決定づける何かがある。

それだけは、確かだった。

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