ごうごう
佐藤宇佳子
空気清浄機最強
ごうごうという音とともに二階建てのアパートのすぐ下を電車が通りかかると、体全体に痺れのような震動が伝わってくる。すりガラスの腰高窓にはカーテンもなく、赤く熟す前の西日が白くそそけた畳を柔らかに照らし出している。『俺』は右を下にして背に晩秋の日差しを浴びながら、小さな折り畳み式のちゃぶ台を前に、ごろりと横になっている。
ちゃぶ台の上には500ミリリットルの発泡酒の空き缶が一本立ち、一本転がっている。そのかたわらでハイボール缶が一本、腰から下に汗をかいている。銘柄はスーパーでもコンビニでも見かける、安いやつだ。つまみはイカゲソの天ぷら。ぺらぺらのポリプロピレン容器に入ったまま、爪楊枝で刺して食べていたらしい。パックは開いたまま、天ぷらは数本残り、油の光る爪楊枝がちゃぶ台の上に転がっている。
ごろりと寝返りを打ち、仰向けになると、口からぷはあと息を吐く。また、ごうごうと電車の音が近づいてくる。そのとき何かが『俺』の頭に触れる。ひんやり冷たくて不快で、『俺』は目をつぶったまま頭を軽く振る。冷たさはいったん離れたものの、すぐに戻ってきて、今度はしきりに頬をなでまわしてくる。そのしつこさに、苛立ちはじめたそのとき、電車がひときわ大きな音でごうごうとアパートの横を通過し、それとともに不快な冷たさはすうっと消えていく。どこかで、恨めしい、というささやき声が糸をひいた。
けたたましい犬の鳴き声ではっと目が覚めた。あたりは真っ暗だ。ああそうだ、俺は庭に面した六畳の和室で眠っていたはずだ。首や胸元が気持ち悪く汗ばんでいる。眠る直前にタイマーを三時間に設定した足元の扇風機はまだ首を振っていて、ときおり、生ぬるい空気が掻きまわされるのを感じた。
何だったんだろう、あの夢は。線路のすぐ脇の、二階建ての安アパート。昼間から酒を飲んで眠っている俺、いや、本当に俺か? 俺はあいつを見下ろしていたぞ? まあ、夢だからな。そして、眠っている俺を執拗に触ってくる、体温のない手。思い出すと気味が悪くなって、ぶるると頭を振った。
庭では犬がまだ奇妙な遠吠えを続けている。救急車か消防自動車の真似だろうか。
そのとき、何かがごうごうと音を立てているのに気づいた。起き直ると、頭もとに置いてある空気清浄機が【強】になっている。あ、そうだ、『自動運転モード』にしているから、空気の汚れを感知すると、自動で強度が強くなるのだ。ごうごうと吹き出す風音を聞いているうちに、なるほど、あの奇妙な夢は、そういうことかと合点がいった。空気清浄機の、このごうごうという運転音が、電車の通過音に思えたのだな。ひんやりとした女の手と思ったのは、さしずめ、首を振る扇風機の風か。こうなると、あの「恨めしい」という言葉だって、おそらく気のせいだろう。もやのような不安が一気に吹き飛ぶと、無性におかしくなって、俺は声をあげて笑った。
そのとき、古い壁掛け時計がぼおん、ぼおんと二時を打った。
次の日、伸び放題だった庭木の剪定と草むしりに半日汗を流したせいか、電灯を消して布団の上に寝転がると、俺はあっという間に意識を手放した。
朱色の西日の差す安アパートに『俺』はいて、またもやだらしなく畳の上で軽くいびきをかいている。今日は右を下にして横になっている頭の下に、水色の座布団を敷いているようだ。ちゃぶ台の上には500ミリリットルの発泡酒が一本と350ミリリットルのカボスのチューハイが一本。ちゃぶ台の中央には、大根おろしを添えた卵焼き、赤いかにかま、それに緑のきゅうりの乱切りが載った水色のガラスの大皿。それを挟んで向かい側に赤ブドウのチューハイとガラスのコップ、いや、プリンの入っていたガラス容器がコップ代わりに置かれている。カップの中には三分の一くらい赤紫色の液体が入っている。何かでもらった小皿に塗りのはげかけた箸がちょこんと添えられている。日差しが赤味を増すにつれ、急速に室内から温もりが失われていく。ほろ酔いで気持ちよくいびきをかいていた『俺』は、少し肌寒くなってきて、窓に背を向けたまま、ごそごそとネコのように背中を丸める。
電車が近づいてくる。ごうごう、ごうごう。その音に合わせるように、やわらかなものが『俺』の背をさすりはじめ、ぞっとする。またか、寝ているのに触ってくるのはやめてくれ。いや、眠っていようと起きていようと、『俺』は触られるのは大嫌いなのだ。うなって肩を振るが、手は一瞬離れるものの、すぐに、酒飲みにたかるアブのようにまとわりついてくる。頬と首筋を何かが這いまわる感触に不快感が高まり、ひんやりしたものが唇を塞いできた瞬間、怒りのあまり、勢いよく体を起こした。
部屋は真っ暗だった。ぐっしょりと寝汗をかき、額には髪の毛が、胸にはTシャツがべったりと貼りついている。足元で扇風機が首を振り、背後で空気清浄機がごうごうとうなっている。ばくばくという心臓の鼓動を聞いていると、どこからともなく、線香のにおいがしてくるのに気づいた。恨めしい。部屋の隅からかすかに聞こえてきた女の声に、思わず総毛立った。
犬が突然吠え始め、俺は飛び上がるほど驚いた。しばらく深呼吸をして鼓動を落ち着かせる。犬は鳴き続けている。少しためらったのち、掃き出し窓のカーテンの隙間からそっと外をのぞいた。庭木を透かして入ってくる、四辻の街路灯の薄明かりでうかがう限り、庭に変わりはないようだ。思い切って掃き出し窓を開けると、灰色のむくむくした犬がクンクンと鳴きながら寄ってきた。尾を振りながらすり寄る犬の首を搔いてやっていると、線香のにおいがした。ああ、これは蚊取り線香だ。昨日、今日と、犬小屋の横においてやったのだった。この、ちょっといがらっぽい、きついにおいは、蚊取り線香が消える直前のにおいだ。なるほど、このにおいが不快で犬は昨日も今日も鳴いていたんだな。そして、通風孔から部屋に入って来たこの煙のせいで、空気清浄機が突然強になったのだろう。自分のやったことながら、なんとも人騒がせなことだ。そう考えると、もやもやと渦巻いていた不安はみるみる薄れ、蒸し暑い夜中に連夜目覚めさせられた気怠さだけが残った。
柱時計がぼおん、ぼおん、と鳴った。
夜中に起こされるのは、もううんざりなので、眠る前に空気清浄機を止めることにした。俺はわりとひどいアレルギー体質で、できれば寝ているときには空気清浄機をずっとつけていたかったのだが、あのしんどい夢を見るくらいなら、我慢したほうがましだ。犬用の蚊取り線香は、ちょっともったいないけれど、人間用の、煙の少ない長時間タイプを買ってきてやった。
その日の夕方は古い友達と再会し、少し遅くまで居酒屋で飲んでいた。それで神経が高ぶっていたのだろう、夜半に、闇が断ち切られるようにして目が覚めた。ぽかりと暗闇に放り出され、呆然とあたりを眺めると、掃き出し窓のレースのカーテンを通じて忍び込んでくる闇は、どことなく軽やかで密度が低く感じられた。すかすかの闇が、扇風機の風に吹かれて緩やかにうずまいていた。空気清浄機の止まった室内は静かで、清明な意識の奥底で地虫がひそやかに鳴いているのが聞こえた。
線香のにおいがするような気がした。ああ、煙の少ないタイプにしたのに、駄目だったか。そう思った次の瞬間、水を浴びたような気持ちになった。このにおいは蚊取り線香じゃない、線香だ。ぞっとしながら、懸命に頭を回転させる。あ、そうだよ、隣が仏間なんだもの、仏間の線香の残り香が何かの拍子にこちらの部屋に入ってきたのかもしれないな――何かの拍子ってなんだよ。
自問自答しては焦っていると、掃き出し窓の横にある通風孔からふわふわと白い靄がこちらへ向かって降りてきた。目の前でそれはやわやわとした女の姿へと凝集し、横たわったままタオルケットを握りしめる俺のかたわらに立った。うすぼんやりとにじむ靄に半ば溶けかけているが、顔立ちも表情もよく見える。中肉中背で、駅前の雑踏のそこら中を歩いていそうな、小ぎれいな女。ただ、目だけが異様に大きく、暗闇の中でもその白目がきらきらと輝いていた。飾り気のない白い膝丈のワンピースからベージュのストッキングをはいた細い足が突き出していた。俺はストッキングの足は嫌いだ。どんなにほっそりした脚でも、強靭な繊維で抑え込まれた肉は、ケーシングがはち切れんばかりに詰められた腸詰めを彷彿とさせ、生々しいことこのうえない。
俺の左側に立つ白い女は背筋を伸ばしたまま、すっと腰を落とし、ゆっくりとこちらにかがみこんだ。俺の上に覆いかぶさると、長い髪を右手で掻きやりながら俺の頬をなで、頬ずりし、頭を掻き抱いた。女が身じろぎするたびに黒髪が俺の頬や首筋をさらさらと流れ、不気味さに顔を歪めるが、女はまるで気にしない。それどころか、引きつった俺の顔に興奮するかのように何度も何度も口づけしてきた。ねえどうして今日は来てくれなかったの悔しい悔しいこんなに待っているのに悔しい今日こそはねえ今日こそは――そう言いながら、うすら冷たいものが首に巻きつき胸元に入り込んできた。嫌悪感で体全体が痺れるのと同時に、じいんと耳鳴りがし、息が苦しくなってきた。こめかみがどくんどくんと脈打ち、顔が膨れあがっていき、殺される、と焦っているうちに意識が遠のいていく。
そのとき、しゅるりと襖の開く音がしたかと思うと、空気清浄機がごうごうと【最強】で運転しはじめた。そのとたん、あああっという小さな悲鳴とともに、俺の首に巻きついていた手が外れ、悔しい、という囁き声だけ残して、白いもやの女はするすると、線香のにおいもろとも空気清浄機に吸い込まれていった。
暗がりの中でごうごうと音を立てる空気清浄機の前に、黒い和装の老婆がしめやかな光を放ちながら立っていた。と、息を荒げた俺を振り返り、止めるな、愚か者めが、としわがれ声で吐き捨てた。慌てて起き直ると、こちらを睨んでいた老婆は開いた襖へと向かい、ぬばたまの闇に二つの盆提灯がおぼろげな灯りをにじませる仏間へと吸い込まれていく。老婆は水に落とした一滴の黒インクのように、暗闇の真ん中でゆらゆらと揺らめきながら、消えていった。その姿が完全に消えたあとで気づいた。うちには仏間なんて、ない。
いや、そもそも、この家はだれの家だっけ。
(了)
ごうごう 佐藤宇佳子 @satoukako
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