第14話 糸瓜
花火の夜、砂漠を駆ける、黒き炎
夜空に大輪の花火が咲き乱れる。ドォン、ドォンという腹に響く音が、遠くから微かに聞こえてくる。それは、夏祭りの喧騒か、あるいは何かの始まりを告げる合図か。咲川シンジは、荒涼とした砂漠の真ん中で、黒いバギーバイクに跨がっていた。彼の隣には、真っ黒な猫がちょこんと座っている。かつて「トマト」と呼ばれた生物兵器は、今やただの黒猫として、シンジの膝の上で丸くなっていた。
「随分と派手な花火だな。ここからじゃ豆粒みたいだが、それでもわかる。相当な規模だ」
シンジが独りごちると、黒猫は短く、"ニャン"と鳴いた。その声は、かつての兵器としての残滓を微塵も感じさせない、ごく普通の猫の声だった。
「お前もそう思うか、トマト。いや、今はもう、ただのクロか」
シンジは猫の頭を撫でた。クロはゴロゴロと喉を鳴らす。数年前、GIPD元帥との一件以来、シンジは研究所の「失敗作」を回収し、廃棄する日々を送っていた。滝、いや「仕事人・咲川シンイチ」が研究所の真の咲川として暗躍する一方で、シンジは彼とは異なる道を歩んでいた。彼は「失敗作キラー」として、研究所が意図せず生み出してしまった、あるいは意図的に生み出し、その後「用済み」とした存在たちを、ひっそりと「処分」していく。それは、滝が言う「兵器」としての使命とは違い、シンジ自身の「エモーション」が導く選択だった。
「次の標的は、糸瓜、か」
シンジは、バギーバイクのハンドルを握り直した。彼の手元には、一枚の古びた写真があった。写っているのは、痩せこけた男。それが、次なる「失敗作」、「糸瓜」と呼ばれた男だった。糸瓜は、研究所がかつて人体実験に失敗し、廃棄したはずの被験者の一人だった。しかし、彼はなぜか生き延び、奇妙な「能力」を身につけていたという。
「奴は、触れたものの時間を巻き戻すことができるらしい。厄介だな」
クロがニャアと鳴き、シンジの肩に飛び乗った。その小さな体からは想像もできないほどの、確かな「存在感」がそこにはあった。
「お前も、元は暴走する善意の塊だった。その力は、使い方次第で、とんでもない凶器にもなりうる。糸瓜も同じだ。彼は自分の力を制御できない。だから、俺が止める」
バギーバイクのエンジンが唸りを上げた。夜の砂漠に、一台の黒い影が走り出す。花火の音が遠ざかり、代わりに風を切る音が響き渡る。
数日後、シンジは小さな町にたどり着いた。砂漠の真ん中に突如現れる、まるで幻のような町だ。そこでは、奇妙な現象が起きていた。数日前に植えられたはずの木々が、一夜にして大木に成長したり、あるいは、咲いたばかりの花が、瞬く間に枯れていく。時間が、不規則に前後しているのだ。
町の外れにある廃屋に、糸瓜は潜んでいた。シンジが廃屋に近づくと、クロが唸り声を上げた。
「中にいるな。時の流れが淫乱だ。······気をつけろよ、クロ」
シンジは廃屋のドアをゆっくりと開けた。内部は、まるで何十年も前に時間が止まったかのように、埃と蜘蛛の巣に覆われていた。その奥から、奇妙な音が聞こえてくる。キュルキュル、キュルキュル。まるで古いフィルムを巻き戻すような音だ。
「糸瓜」
シンジが声をかけると、奥から男が現れた。その男は、写真で見たよりもはるかに痩せ細り、目には深い隈ができていた。彼の指先からは、微かな光が漏れている。その光が触れた場所は、一瞬にして時が逆行したり、あるいは加速したりする。
「お前は…誰だ?なぜ、ここに…」
糸瓜の声はか細く、怯えを含んでいた。シンジは冷静に答えた。
「俺は、咲川。"失敗作キラー"だ。お前を止めに来た。お前の力は、この世界を破壊する」
糸瓜は怯えたように後ずさり、壁に背中をつけた。
「違う…違うんだ!俺は…俺は誰も傷つけたくない!でも、止まらないんだ…!」
彼の指先から放たれる光が、さらに強くなった。壁の時計が、一瞬にして逆回転を始める。シンジは冷静に南部十四年式の銃を取り出した。
「わかっている。お前は、悪意でやっているわけじゃない。だからこそ、俺が止める」
銃口が糸瓜に向けられる。糸瓜は絶望に顔を歪めた。その時、クロがシンジの腕から飛び降り、糸瓜の足元に駆け寄った。クロは、糸瓜の足にすり寄ると、にゃあ~と鳴いた。糸瓜は驚いたようにクロを見下ろす。その瞬間、糸瓜の指先から放たれていた光が、ほんの少しだけ弱まったように見えた。
「これは…」
糸瓜が呆然と呟く。シンジは、その隙を逃さなかった。引き金を引く。乾いた発砲音が廃屋に響き渡る。しかし、弾丸は糸瓜の体に当たったわけではない。弾丸は、糸瓜のすぐ横を通り過ぎ、壁に埋め込まれた奇妙な装置を破壊した。その装置は、微かに点滅する金属片でできており、その表面には「――インストール中」と刻まれていた。
装置が破壊されると同時に、糸瓜の指先から放たれていた光が完全に消え去った。彼の目から、生気が戻ってくる。
「え…?俺は…一体何を…?」
糸瓜は、混乱したように周囲を見回した。シンジは、銃を下ろし、クロを抱き上げた。
「お前は、もう大丈夫だ。お前は、利用されていたんだ。あの装置に、お前の本来のエナジーが吸い取られていた」
シンジは、破壊された装置の残骸を指差した。その金属片は、まるで力が抜け落ちたかのように、ただの瓦礫となっていた。
「誰が…何のために…」
「GIPD研究所だ。奴らは、お前のような『失敗作』を回収し、その力を利用しようとしていた。そして、新たな『兵器』を生み出そうとしていた」
シンジの言葉に、糸瓜は絶句した。彼は、自分が今まで何者かに操られていたことを悟ったのだ。
「俺は…助けられたのか…?」
シンジは、糸瓜の目を見て静かに言った。
「俺は、お前を『廃棄』しに来た。だが、それは、お前を殺すことじゃない。お前を、研究所の呪縛から解放することだ」
シンジは、糸瓜の肩に手を置いた。
「お前は、これからは自由だ。お前の人生を、お前の好きなように生きればいい」
糸瓜の目から、一筋の涙が流れ落ちた。彼は、深々と頭を下げた。
「ありがとう…」
シンジは何も言わず、バギーバイクに跨がった。クロは、いつものようにシンジの膝の上で丸くなる。
「行くぞ、クロ。まだ、俺たちの仕事は終わってない」
バギーバイクは再び、砂漠の闇へと走り出した。花火の音が、今度は遠くで小さく、祭りの終わりを告げるように響いていた。シンジの胸には、新たな熱が灯っていた。それは、GIPD元帥との戦いで得た「エモーション」とは異なる、確かな「希望」の光だった。そして、彼の唇の端に、微かな笑みが浮かんだ。彼の「俺には…あんたにはないものがある」という言葉が、夜空に吸い込まれていくようだった。彼は、自分自身の「咲川」の道を、確かに歩み始めていた。
シンジが去った後、糸瓜はひとり、廃屋に立ち尽くしていた。彼の目に、確かな光が宿る。彼は、破壊された装置の残骸を拾い上げた。その小さな金属片は、今や何の力も持たなかったが、糸瓜はそれを大切に握りしめた。
彼は、まだ知らない。彼が解放されたのは、新たな物語の始まりに過ぎないことを。そして、シンジが言う「研究所の真の目的」とは、一体何なのかを。そして、なぜ「仕事人・咲川シンイチ」が、その「真の咲川」として研究所に利用されているのかを。
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